碇シンジの声が聞こえる。波の音に似ている。
僕はいつからこうしているだろうか。十分か、一時間か、生まれてからずっとだったか。それとも瞬きする間の一瞬か。
『君を掴まえる』
『君を連れ戻す』
『君が人の姿をしてるから言ってるんじゃない』
『君が君だから、渚だから』
繰り返されるさざ波のような言葉。僕の中を泡立てては引いて行く。
彼は本当に手を伸ばして、僕を掴まえようとひらひらと振った。機体の指が何度も空振りして、踊っているようだった。
僕はうまく煽れただろうか。
『サードインパクトは』
起こさせないと言っていたのに、彼は中々行動を起こさなかった。
彼の腕は僕を掠めてばかりで、僕に触れるのを躊躇うようだった。
『渚』
『渚』
『なぎさ』
彼は何度も腕を振る。その度に僕の中は泡立ってゆく。息がうまく出来なくて、のどの奥が苦しくなる。
何故だろう。余計なものは全て還したはずなのに。
僕に伸ばされる腕が嬉しいだなんて。
腕は幾度も空振りし、やがて彼は僕を蹴った。
蹴り、殴り、爪を立て、刃物で切りつけて僕に言った。
『そこから出てこい!卑怯もの』
無理だよ。だってとっくに痛いのに。
幾重にも張ったA.T.フィールドが物理を防いで、僕は形を保っていられた。だけど彼は自分の胸を突いて、僕は彼に捉えられてしまった。
『掴まえた』
つかまえた。
掴まった、のか。彼に。碇シンジに。
僕は彼に捉えられてしまった。彼の手のひらの中に。
あんなに緩慢に伸びてきた彼の腕をどうして避けることが出来なかったのだろう。
彼の手のひらの内側は、僕を逃がさないとする力強さと、僕を傷付けまいとする柔らかさに満ち満ちていて、僕は叫び出したい衝動に駆られた。
けれどそれを押し止めたのは、やはり彼の言葉。
『戻ろう、僕と一緒に』 ――戻ろう。 『僕と、戻ろう』
うん、そうだね。
それがいいね、シンジ君。
そうしようか、シンジ君。
このまま君の手に包まれて、暗いドグマを後にして。
君に見送られて遠くに逃げて、誰も知らない世界で自由を手に入れて。
新しい世界はどんなところだろうか。そこにも海と陸はあるだろうか。
巡る世界で何が死に、何が新しく生まれるだろうか。僕はそれを目にするだろうか。
君は遠くで僕に文句を言うだろうか。
そして君が年老いた時、僕もヨボヨボになって生きていて、どこかの遠い空の下で、たとえ二度と会えないとしても、君を想って生きていけたら……
――だけど仕組まれたこの体は、運命を裏切れるようには出来ていなくて。
僕はA.T.フィールドを使った。指の使徒を解放して彼と繋がった。
かつてアルミサエルだった使徒の細胞は、意識を繋げる程には残っていない。
だからせめて声を届けるために。
もう一度だけ、彼の名を呼ぶために。
機体に開いた胸の穴が目に入り、胸が痛んだ。
ああ、本当だ。僕も痛い。
誰かが痛いと、本当に自分も痛いんだ。
シンジ君。
ねえ、シンジ君。
僕の言葉を信じなくてもいい。
だけどもし叶うのなら、ポケットの中を見つけて。
そして君が、墓に仕舞って――