白い巨人の眠る地下安置場の手前で。
壁を背に辛うじて立つ弐号機の首には、プログナイフが深く突き刺さっていた。
「はっ、はっ、」
荒い呼吸を肩で押さえる。
僕の仕掛けた攻撃は確実に弐号機の頸部を捉えていた。
左から入れたナイフを背後に回って右へスライドし、暗殺者さながらに喉元を切り裂いた。
傷口からおびただしく溢れ出た赤い液体は、その後の乱闘でLCLの中に洗い流され、元々赤い水面は弐号機の体液を吸って更に赤く染まった。
「はぁっ」
整わない呼吸を深呼吸で誤魔化し、初号機の拳を構える。
右腕は潰した。左足も。あと一撃。
弐号機の動きを完全に止めるには、あと。
「これで、どうだっ!」
踏み込んで全体重をかけて殴り付けた。その途端巨体を支えていた壁は崩れ、機体は瓦礫もろとも地下安置場へと倒れ込んだ。
大きく開いた壁の穴から、強化コンクリートの破片がバラバラと落下する。
この攻撃で漸く弐号機は動きを止め、その身体を濃い血の匂い漂うLCLの中に倒して沈黙した。
暗い穴の先に磔(はりつけ)の白い巨人の姿が見えた。
その手前に渚カヲルが小さく浮かんでいた。
僕を見て、薄く笑い、やはり両手をポケットに収めている。
渚。掴まえてやる、君も。
掴まえて、連れ戻して、地上に出たら殴ってやる。
君が使徒だろうが人だろうが関係ない。
僕が止める。絶対。
「……渚、止めろ」
「やあ、随分と派手にやったね。その弐号機、もう動かないんじゃないの?」
「そこから離れて地上に戻れ」
「やれやれ。まだそんなこと言ってんのか君は」
「いいから戻れ!サードインパクトは起こさせない。抵抗するなら力ずくで連れ戻す」
「は!それ本気で言ってんの?」
空中に浮かぶ渚は僕の言葉にあからさまに眉を寄せ、その口元を歪めた。
「連れ戻すってどうやんの?言っとくけど僕も使徒だよ?簡単にはいかないことぐらいさっき見てわかっただろ。それに連れ戻してどうするのさ。ネルフに引き渡して処分を任せる?僕が大人しく従うとでも思ってんの」
歪んだ顔に嘲笑が浮かぶ。
「君ってホント都合いいよね。自分の手は汚さずに後始末はネルフ任せってわけか。そんなに怖いか、罪悪感が」
「そうじゃない!」
僕は思い切り頭を振って彼の言葉を否定した。
そうじゃない。いや、半分はそうだ。
事実僕は、人の形をした渚に手を出すのを怖がっている。
だけどそれだけじゃない。
ごちゃごちゃの頭を整理して、彼を説得出来るだけの言葉を探す。下手に刺激して後ろの巨人に飛び込まれでもしたら終わりだ。
「君をネルフに渡そうなんて考えてないよ。処分とか……君をどうこうとか考えてるわけじゃない」
寧ろ、その逆だ。
「僕はただ、君に引き返して元いた場所に帰ってもらいたい、それだけだよ」
「ふうん?」
「約束するよ。君がうまく逃げてくれればそれ以上君を追ったりしない。僕は皆を守りたいんだ。誰も死なせたくない。君もだ!僕は君のことも死なせたくないんだ」
「……」
「君が人の姿をしてるから言ってるんじゃない。君が君だから、渚だから言ってるんだよ。今ならまだ間に合う。戦わずに済む。引き返してくれよ!頼むから!」
半ば怒鳴るように、でも祈るような気持ちだった。
お願いだ。引いてくれ、どうか。
だけど渚は微かに肩を竦めただけで動く気配はなかった。
くそ……!
僕はインダクションレバーを殴り付けた。
くそ。なんでわからないんだ馬鹿渚!
このままだと僕らは本気で殺り合わなきゃならなくなる。彼を止める為には彼を傷付けるのを躊躇ってはいられないだろう。
”地下の巨人に使徒が接触するとサードインパクトが起こる”
渚の後ろの白い巨人は、前に見たあの時のままの姿だった。顔には気味の悪い仮面が填め込まれ、腹の下には人の下半身によく似た禍々し物体がぶら下がる。
彼に引き返す気がないのなら、何とかしてこれから離さないと。
しかしA.T.フィールドがある限りそう簡単にはいかないことは明らかだ。
(……どうする?)
のどの奥がカラカラに乾いて痛くなった。決断の時が迫ってくる。
もしも今サードインパクトが起これば、僕の全ては消える。僕の大切な人達も、僕の存在意義も、全て。
サードインパクトを未然に防ぐ、その為のエヴァでありその為のパイロット。その為の僕。父さんが僕を呼んだのも、皆が傷付いたのも、誰かの命が散ったのもその為だ。
今ここで何も出来なかったら、全てを失ってしまったら、今度こそ後悔どころじゃ済まないだろう。
(それだけは阻止しないと)
僕一人の感情で世界を破滅させるわけにはいかない。
世界を……いや、僕の大切な人達を、守りたいものを全部守るんだ。僕の手で。だから。
「……クク」
初号機の深部に意識を落としてシンクロを深くすると、それに気付いたのか渚が笑った。
「何考えてんの?」
刺を含んだ声は先程の嘲笑を残したまま。
「僕と戦いたくないとか言っておいて、どうやって僕を殺そうかって考えてんの?」
「君は殺さないって言っただろ」
「そう?でも少しは戦う気になったみたいだね。賢明な判断だよ。サードインパクトを防ぐ為に僕を殺す。君の立場なら当然だ」
「そんなことしない。君は僕が掴まえて連れ戻す」
「ああ!それで僕を逃がすんだったね。あはは、君らしくて面白い考えだね、それ!」
こいつ……!
「何が面白い考えだよ!」
「だってそうだろ?僕を連れ戻すとか逃がすとか、そんなこと無理だってわかってるくせに。見たくない現実には目を瞑る。君らしくて面白いっつってんの」
「無理かどうかなんて、やってみなきゃわからないだろ」
「わかるさ。いくら君に僕を殺す気はなくても、ネルフはそうじゃないだろうからね。君が追わなくても誰かが追う。君が殺さなくても誰かが殺す。もっともその前に、僕が相手を殺すかも知れないけど」
「!」
ぞわりと背中が逆立った。歪んだ彼の口から出た生々しい死の言葉。
殺す。誰かが彼を。
彼が、誰かを。
「考えてなかったの?まさかそんなことないよね。君はパイロットで僕は使徒だ。今までの使徒はどうなった?ファーストとセカンドの結末は?君だってその目で見ただろう。必ずどれかの、」 “命” が消えたはずだ。
彼はそう言うと、ズボンのポケットから両手を引き抜いた。
「だからサード!サードインパクトが嫌なら君はここで僕と戦うんだ。でなければ僕が君を殺す。悪いけど抵抗はさせてもらうよ。黙ってやられる一方なんて面白くないからね。さあおいで。僕を殺せ。僕を捕まえてみろサードチルドレン!!」
「渚あぁ!!」
初号機の腕を伸ばして掴みかかった。右腕を降り下ろすと同時に左腕を振り上げる。片腕が空を切ればまた逆を。
標的を掴もうと振る左右の腕を渚はひらひらと飛んでかわした。両手を広げ、十字架のような姿で、僕の指を腕を全て避けた。
僕はそれでも構わず腕を伸ばし、指先をかすめもしない渚を腕を振り回して追い回した。
「あはは!蝿でも追いかけてるつもり?」
「このぉ!大人しくしろ!」
「僕を捕まえるんじゃなかったの?口先だけか。君も大したことないね」
「くそっ!」
腕は何度でも空振りする。ひたすら腕を振り回す初号機の姿は、彼の言う通り虫を追うように見えるだろう。
渚は余裕なのかギリギリの位置で指を避け、風圧で髪が乱れ散るのにその表情は揺らぎもしない。
僕はドグマの床を蹴って飛び上がった。
「おっと」
飛び付いた腕を渚は横に飛んでかわした。だが同時に入れた僕の回し蹴りが側面に入る。
途端に足はA.T.フィールドに弾かれ体制を崩すが、間入れず入れた同じ蹴りで今度は双方共に弾け飛んだ。
「……!」
渚は初めて驚いたような顔をしていた。
僕の蹴りは渚のA.T.フィールドで相殺され、衝撃で僕らは互いに離れた位置まで弾き飛ばされた。
すかさず巨人の前まで走って前を取る。白い巨人の前で、今度は僕が巨人を背に、巨人を庇うように腕を広げた。
「……僕をそれから引き離したか」
「言っただろ。サードインパクトは起こさせないって」
「まあいいさ。どうやら君も漸くその気になったようだし。まさか蹴ってくるとは思わなかったよ。殴りかかられたことならあったけど」
渚を蹴った足は痺れていた。当たり前だ。A.T.フィールドで思いきり弾かれたんだから。
だけど少しほっとしていた。あのまま僕の蹴りがまともに入り、彼が跡形もなく吹き飛んでいたら。
人の姿の渚に攻撃するのは怖い。
それでも賭けに出たのは巨人から遠ざけるためだ。
人類と渚。僕の守りたいもの。どちらもまだ消えてない。
「いくよ!」
再び彼に掴みかかる。今度は手加減なしで。先程よりずっと速く動く。
スピードを上げる。更に上げる。更に、更に上げる。
初号機の腕は唸る音を上げ、指の間には高速の風が走り抜けた。
だけど、どんなに掴もうとしても渚は掴めなかった。渚は僕を軽々と避けた。上に飛び、下に飛び、指先が届きそうになる度逃げてしまう。ほんの少しの距離で、すり抜けてしまう。
時々僕を追い越して巨人に近付こうとする彼には打撃や蹴りで応戦した。その度にA.T.フィールドが発動し、ダメージはなくとも互いに同じ分だけ弾き合った。
掴めない。掴めない。
僕らは触れるだけで弾き飛んでしまう。
どうして掴めないんだ渚。
どうして、渚。
「あっはは!少しはやるね!見直したよ!」
「もう観念しろ渚!」
「なんで?少しばかり僕に当てて、もう勝ったつもり?」
「僕はここから動かない。何度でも巨人から遠ざけてやる。巨人に近付けない以上、君がここにいる理由もないはずだ!」
「近付けない?本当に?本気でそう思ってんの?じゃあこれは?」
突然激しい衝撃が襲った。機体が浮き上がる感覚に咄嗟に防御する。
「!!」
初号機の機体はA.T.フィールドに弾かれて吹き飛び、磔(はりつけ)の根本に背面を打ち付けて止まった。
「くっ…!攻撃もしてくるのか」
「当たり前だろ。僕からはしないとでも思ったの?」
直ぐに二度目の衝撃が来た。しかしこれはガードして耐えた。
LCLの水飛沫を浴びてびしょ濡れになる初号機を渚はやはり笑いながら見ていた。
「へえ!上手く耐えたじゃないか!凄い凄い」
「……ちくしょう!」
「クク、どうやら力押しは僕が優勢のようだね。ねえ、さっきみたいに蹴って来ないの?僕を殺そうとしないの?防御ばかりじゃ僕は倒せないよ。早く攻撃しておいでよ。ほら」
片腕を差し出す仕草を無視し、深呼吸する。
頭の隅に霧のような違和感を感じるが、正体が掴めない。
(流されるな。これは挑発だ)
わかっている。だけど彼からの攻撃が堪えたのも事実だ。
機体のダメージじゃない。胸に。胸に堪えた。
胸が、痛い。
「往生際が悪いなぁ」
動かない僕に痺れを切らしたのか、渚は呆れたように言った。
「優等生のサードチルドレンが攻撃もせずに通せんぼう?もしかしてまだ躊躇ってんの?」
三度目の予感。しかし今度は衝撃は来なかった。
代わりに彼は肩を竦めた。
「その選択が何を意味してるのかわかってんの。何もわかってないだろ。だったら教えてあげるよ。君が戦いたくなるように、サードインパクトのこと、それから」
それから?
「後の世界のことを、ね」
そう言って笑顔を消した。