「……嘘だ」

視界の先に赤いエヴァの機体が見えた。
嘘だ。これは嘘。だってあいつは僕に嘘ばかりつく。

『事実よ。受け止めなさい』

ミサトさんの声は重く沈んでいた。きっとこれも嘘だからだと思った。
嘘。ミサトさんだって僕に嘘をついてたじゃないか。

――嘘だよ。
『真実を見なさい!サードインパクトが起こるわよ』
――起こるもんか。
『シンジ君!』

怒鳴り声に耳を塞いだのに。
サードインパクトなんて言葉聞きたくなかった。終わりの予感なんて認めたくなかった。
だから僕は叫んだんだ。全ての言葉を否定して、少しの可能性に賭けてドグマに飛び込んだ。

『彼は使徒だったの。今彼を止めないと取り返しのつかない事になるわ。止めて、何としてでも。これは命令よ』

――嘘だ嘘だよ!全部、ぜんぶ嘘だっ!

なのに、どうして!

「渚!!」
「やぁ、シンジ君!」

振り向いた渚は笑っていた。宙に浮き、体を白く発光させ、赤の弐号機に守られてセントラルドグマを降下する。
一目で。
“使徒” だとわかった。

「うおおおお!」

赤い腕がモニターに迫る。
僕は握り締めていたレバーを引き、初号機の腕を振り上げ襲い掛かる手のひらに組み付いた。

「おおお!」

弐号機の両手を自分の両手で握り込み動きを封じる。初号機越しに手のひらが締め付けられる。指の間が痺れ骨が軋む。
この弐号機には今誰も乗っていないはずだ。なのにこんなにも生々しく動いている。

「アスカッ」

病室で寝たきりのアスカの顔が浮かんだ。
誰よりもエヴァに乗りたがっていたアスカ。敵の攻撃を受けても降りることを拒み、精神を壊した。
彼女を守りきれなかった赤い機体は今僕の前にある。彼女の激しさを孕んで僕を攻撃する。

「うおおお渚ぁっ」

弐号機の傍らの渚はまるで無感情な様子で僕を見上げていた。ズボンのポケットに両手を突っ込み、口元を引き上げて薄く笑っている。
いつもの顔。いつもの表情。
僕にはもうその顔から何も読み取ることが出来ない。
いつも泣いているみたいに見えた笑い顔は、今はただ僕の姿を笑っているだけに見える。
いや、もしかすると初めから笑っていたのかも知れない。全て僕の気のせいだったのかも知れない。僕には何も見えなかった。何も何も。
渚、どうして。

「っああ!」

手のひらの圧迫感が強まり、僕はそれに抵抗して自分の指に力を込めた。
エヴァとシンクロしている僕の体には、痛みを始めとする様々な触感がダイレクトに伝わる。エヴァの痛みは僕の痛み。実際には締め付けられていないはずの自分の指が痛い。
ここで力を緩めれば、きっと弐号機は手加減無く攻撃してくる。
遊びじゃない。夢でもない。言わずともそれが理解出来るだけの痛みだった。

「くっ!」
「遅かったじゃないか。来ないのかと思った」
「渚、なんで…っ!」

手のひらに意識を集中したまま、渚をモニターの中央に捉える。
薄い光に包まれる彼の体は高速で降下しているはずなのにまるで重力を感じず、そこだけ別の空間に切り離したような静けさ。

「なんで君が使徒なんだよ!」
「さあ、なんでかな」
「僕達を騙してたのか!?」
「人聞きが悪いね」

く、と唇を引いた独特の表情で僕を見上げる。

「答えろっ!」

一気に駆け上がった血液に激高して叫ぶと、モニターにプログレッシブナイフを振り上げる弐号機の姿が映った。

「!」

間一髪、自分のプログナイフで受け止める。僕の振り上げたナイフは弐号機のナイフのカッター状の切れ目へと突き刺さり、そこから高振動粒子のぶつかり合う青い火花が散る。

「よそ見してると危ないよ。その弐号機は手加減しないから」
「クッ!なんでっ」
「なんでなんでって、そればかりだね君」
「この弐号機も、君がやってるのか!?」
「まあね」

くい、と顎を上げる様子が、弐号機に集中している僕に伝わる。

「エヴァと僕は同じアダムから出来ているからね。魂が眠った今の状態の弐号機なら同化出来るんだよ」
「……アダム?」

アダムという言葉は聞き覚えがあった。旧約聖書に出てくる神様が創った最初の人間、アダム。
聖書なんて僕にとっては神話やお伽話と同じだ。それなのに君は、自分をそんな現実味のないものと同じ名で呼ぶのか。

「弐号機の魂は今自ら殻の奥に閉じこもって眠っている。弐号機のパイロットと同じにね。だからその弐号機はもう僕のものだ。本気で止めないと君、死ぬよ」
「こんなことして、どうなるんだよ!」
「使徒の目的は知ってるだろ?そんなの今更聞くなよ」
「そうじゃない!渚は、君は本気でこんなこと……あっ!?」

激しい音を立てて弐号機のナイフが折れた。
初号機のそれと違い、弐号機のプログナイフは破損した刃先を破棄することが出来る。切れ目部分を高振動粒子で融解され、弐号機のナイフはその刃先を弾け飛ばした。同時に突然目標を失った僕のナイフは、弾みで傍らの渚に向いた。

「っ!!」

全身が凍り付く。鋭い刃先が彼の顔に降りかかる。
死ぬ。彼が。
何もかもが一瞬で真っ白になる。
しかし、僕のナイフは彼の顔に突き刺さる直前で眩い光に阻止された。

「な…!?」
「何今更驚いてんの?」

僕のナイフを止めたのは、正多角形に張り巡らされた光の壁。
使徒との戦闘で何度も見た、A.T.フィールドそのものだった。

「A.T.フィールド!?」
「今更驚くことないだろ?A.T.フィールドなら君だって持ってる。何人にも侵されない聖なる領域、心の光、心の壁。君にもわかっているはずだ」

全身を冷たい水で打たれたようだった。
彼を取り囲むA.T.フィールド。間違いない、これはエヴァと使徒が持っている不可侵領域。

――そんな……。

彼が使徒だという証を否応無しに突き付けられて、僕はどうしようもない感情に眼が眩んだ。その一瞬の隙を突いて、弐号機のナイフが僕の胸を突き刺した。

「ゔあ!」

胸部に激しい衝撃を受け、僕の機体は大きく揺らいだ。
装甲板を通過したナイフは胸に浅く突き刺さり、そこから電流を流したような鋭い痛みが全身に広がった。

「っぅ!」

僕は我に返り、直ぐに体勢を立て直すと、弐号機の首目がけて自分のナイフを振り下ろした。
アスカ……!

『なんてことするのよバカシンジ!』
「アスカ、ごめん!」

アスカの幻影は飛び散る血飛沫の中に消える。
僕のナイフは弐号機の首に命中した。痛みを感じないのか、赤い巨人は赤い体液を吹き上げながらも僕の腹を蹴り上げ抵抗する。僕も蹴り返して首のナイフをより深く突き立てる。
胸に突き刺さったナイフは目茶苦茶に痛くて、頭の中も目茶苦茶に乱れていた。邪魔な弐号機を力ずくで制し、ぐらつく視界で渚の姿を追う。
使徒の証を幾重にも身に纏い僕を見上げる彼の姿は、どこから見てもヒトの形。だけど確かにヒトではないと告げる僕の本能がとても悲しい。
どうして笑ってるんだ渚。
どうして笑えるの渚。
最初は嫌なやつだと思ったんだ。だけど楽しいことだってあったのに。
あの日告げられた “あの言葉” が嘘みたいに霞んで消える。
薄く横に引き伸ばされた唇に、裏切られたんだと気付いた。

「くそ……」
「苦戦してるね」
「くそぉぉお!」

僕と弐号機はもつれ合いながらドグマを落下した。
早く振り切って渚を止めなければ。

「もう止めろ渚!」
「んー?」
「僕は君と戦いたくない!」
「へえ?」
「止めろ止めさせろったら!君と戦うのは嫌なんだよ!」
「なんで?使徒殲滅は君の仕事だろ?それに僕のこと、別に好きじゃないくせに」

ばたばたと風に巻き上がる髪の奥から、炎みたいな瞳が僕を見つめる。

「僕と戦いたくないっていうのは建前だろ。君は人や人の形をしたものと戦いたくないだけ。それってアレだよね。フォースチルドレンの時と同じ」
「!」

トウジ。

「嫌だと言っとけば他人のせいに出来るもんな。自分の意志じゃなかったと言えば罪悪感も軽くなる。でも駄目。駄目だよサード。君は君の意志で僕と戦え」

何故知っているんだ、とは思わなかった。僕がトウジを殺したことはネルフの者なら皆知ってる。
あの日僕は戦闘から逃げ、結果としてトウジを死なせた。
僕に組み付く弐号機の姿は嫌でもあの時のエヴァンゲリオンを思い出させる。

「僕はねサード、今日この時、ここでドグマを降りる為に生まれたんだ。これは僕の運命だ。最初で最後の運命なんだから、これぐらい付き合ってよ」

バクン!と何かの衝撃が体の中を通り過ぎて行った。
衝撃は渚のいる側から波のように押し寄せて体内をすり抜け、外側に抜けた。

「!!」

抜けた先で展開されたのは光の壁。
僕と弐号機を通過してセントラルドグマが巨大なフィールドで包まれる。圧倒的な力で遮断され、僕らを取り巻く空間は外部から切り離される。もうミサトさんの声も聞こえない。
この先は、ターミナルドグマ。
逃げ道を内側から塞がれて、世界が僕と彼だけに変わっていく。

「渚」
「悪いね。もう少し付き合ってもらうよ」
「もうやめろったら」
「駄目」
「なんでだよ!僕は君とは戦わない!」
「良いの?僕を止めないとサードインパクトが起こるらしいよ?」
「君はそんなことしないよ!」
「するよ。使徒だもの」
「渚っ!」
「言っただろ?最初で最後の運命だって。僕はこれしか持ってないんだ。この為に生まれた。だから君がエヴァのパイロットに選ばれた時、既に僕らの運命は交わるように決まってたんだ。諦めてよ」

渚はちらりと下を向いた。落下する僕らの足元にはオレンジ色の薄い光が見えている。この色はLCLの色だ。
僕らは最下層へと到達していた。

「僕はこれからサードインパクトを起こすから、君は僕を止めてよね。止めなきゃ君たちは死ぬ。止めれば僕が死ぬ。簡単だろ?」
「そんなことさせない!そんなこと本当は君だって望んでないだろ!?やめてよ!」
「望むとか望まないとか関係ないよ。大体ここまで来といてやっぱり止めますなんてあると思ってんの?」

渚は両手をポケットに入れたまま、やれやれと首を振った。

「ムシがいいよね、君って」

こくりと首を傾げられ、僕は悔しさに唇を噛んだ。
悔しい悔しい悔しい。
なんで君がそんなこと言うんだよ。君にそんなこと言われたくない。
だって、だって君は……!

「ムシがいいのは君も同じだろ!?僕を騙して近付いたくせに!ずっと使徒だと隠してたくせに!僕を」 心を 『好きなんだ』 「裏切ったくせに……っ!」

周囲を取り囲んでいた外壁が消え、開けた空間に出た。
僕らはドグマの縦穴を抜け、足元一面に広がるLCLの湖の中に落下した。

「ぐぁっ!」

かなりの高度から落下して、着地の衝撃で一瞬意識が飛んだ。だけど頭の片隅に渚の顔がちらついて、無理矢理眼を開いて覚醒させた。
眠ってる場合じゃない。

「渚!」

幸い渚は機体の下敷きにはなっておらず、赤い水面ギリギリの位置に浮いていた。僕が体を起こすのを待ってから背を向ける彼に、腕を伸ばす。

「待て……っ!?」

指先が届く寸前、足首を弐号機に掴まれた。弐号機は僕を彼から引き離すように僕の足に取り付いてくる。

「離せ、くそォ!」

振り切ろうと無茶苦茶に足を蹴り上げて暴れても、指はがっちりと足首を掴んで離れない。ばしゃばしゃと上がるLCLの水飛沫の中、赤い機体が起き上がる。

「先行ってるよ」

渚の声が聞こえたけど、振り向く余裕なんてなかった。
今、弐号機は僕を引き倒し、馬乗りになって首に手を掛けていた。
首筋に指がめり込んで息が出来ない。

「ぐぅ…!」

手首を掴んで抵抗する。
こんなことしてる場合じゃないのに。渚を追わなきゃ。
だけど弐号機の力は緩むどころか益々強くなっていく。
焦る僕の脳裏に、トウジを乗せた黒いエヴァンゲリオンの姿が浮かんだ。
あの時もこんな風に首を絞められた。
僕は彼を傷付けたくなくて、結局何もせずに彼を殺した。

「ト、ジ」

彼とも最初はうまくいかなかった。
殴られて、怒鳴られて、でも友達になったんだ。
死なせたくなかった。殺したくなかった。
死なせたくないんだ渚。
殺したくないんだよ渚。
黙って見てるだけなんてもう出来ない。
サードインパクトが起こるのも、大切な人達を死なせるのも、それをただ見てるのも……!

「嫌なんだよ、もう!」

ただ後悔を繰り返すだけなんて。

僕は弐号機の首に突き刺さったままのプログナイフに手を掛けた。首からナイフを引き抜いて、僕の首に掛かる腕に切り付けた。
高振動粒子の刃が分子を融解する確かな手応え。僕のナイフは弐号機の右腕の装甲板を切り裂いた。

「ぐっ!」

しかし刃は内部まで達しないのか、首を絞める力は緩まない。間を入れず再度ナイフを叩き付ける。ぐずぐずしてるとこっちの意識が飛んでしまう。ここで気を失うわけにはいかない。
幾度目かの攻撃の時、僅かに腕の力が緩んだ。緩んだのは切り付けた右腕だけだったが、僕はこの好機に攻撃を右腕に集中させた。

「こ、のォッ!!」

ナイフを握り直して腕の傷口に突き立てる。
僕の首にはまだ片方の手が食い込んでいるが、この際それは無視する。どのみち攻撃しなければ首の骨を折られるか酸欠で死ぬんだ。
僕は何度も的を外しながら同じ攻撃を繰り返した。
――もう少し……!
反復する攻撃の後、唐突に腕の力が抜けた。今度こそ本当に力が緩んだ。
一気に払い除け、腹を蹴り上げて弐号機を跳ね飛ばした。

「かはっ!」

大きく息を吐く。一息吸い込んで立ち上がり、同じく立ち上がろうとしている弐号機の顔面に膝を入れる。そして相手が体勢を立て直す前に背後に回り、さっき散々切り付けた右腕を逆手に取って捻り上げた。
痛みを感じない相手に関節技は効かない。
しかし僕は、ぎゅうと捻れ折れ曲がる腕の関節部に力一杯ナイフを突き刺した。

「うおぉっ!」

手応えがあった。
関節部からは青い火花と赤い液体が吹き出した。
体液を撒き散らしながら振り向く弐号機の背中を踵で蹴り飛ばす。
バランスを崩した弐号機は湖の中に倒れ、僕はその隙に間合いを取って乱れた呼吸を整えた。

「はぁっ、はぁっ!」

ここにきて漸く全身に酸素が行き渡る。
握り潰される寸前だった僕ののどは、息を吸うごとにひゅうと可笑しな音が鳴る。いつの間に切れたのか、口の中に鉄の味がする。
だけどどれも気にしてる余裕なんてなかった。
倒れた弐号機が体を起こし、その右腕が力なくだらんと垂れているのを見て、僕は自分の攻撃が効いていることを知った。
痛みを感じなくともダメージは与えられる。まだ来る気なら、残りの関節も全部潰してやる。
アスカ。君が見たらきっと目茶苦茶に怒るだろうな。
私の弐号機に何するんだって言うだろう。
そして私ならあんたなんかには絶対やられないって言うんだ。

渚の消えた方を見ると、いつの間にか奥のヘブンズドアが開いていた。もう猶予はない。のんびり戦ってる暇なんてない。
僕は再びナイフを構えた。
狙うのは一度突き刺した首。弐号機よりも速く動いて今度こそ動きを止めてやる。
僕はこんな脱け殻の機体にやられたりしない。止めてみせる。絶対。
だってアスカ、君の乗らない弐号機なんてエヴァじゃない。弐号機は君が乗るからエヴァなんだ。そんなものに負けるもんか!

そうだろ?アスカ。