「シンジ君」
「……え?」

耳元で声が聞こえた。それは本当に突然だった。
渚を閉じ込めることに集中していた僕の意識は、唐突に逸れて声の方に振り返った。

「渚?」

渚の声、だと思った。僕の耳に囁くように吹き込まれた。耳の後ろに唇が触れたような気もした。
だけど、振り返った先には何もいなかった。
そこはただのコックピットで、見慣れたモニターと見慣れた初号機の内部が目に映っただけだった。

(気のせい?)

不意に逸れた意識を戻そうとして気が付いた。
僕の手のひらを。
さっきまで激しく押し合っていた手のひらの中を。
初号機の指を破壊して外に出ようとしていた渚と、それを押し止めようとしていた僕。続きが始まるはずだった。
けれど僕の意識は急速に冷え、後ろを振り返ったまま動くことが出来なくなった。

「……渚?」

名前を呼んだ。返事はなく、僕は手のひらを意識することが出来なくなった。

いけない。気が付いてしまってはいけない。

頭の中が白くなる。音のしない警報が鳴り、鼓動が早くなる。
いけないいけない。気がついては駄目だ、駄目。
レバーを握る指が冷たくなっても、僕は前を向くことが出来なかった。あれだけ握り締めていた両手を感じることが出来なかった。
だってもう気が付いている。本当は気が付いてしまっている。僕の手のひらの中。あんなに激しく押し合っていたのに、今の僕の手のひらには何の抵抗も……ない。

「渚……ねえ、渚」

呼び掛ける。返事をしてよ渚。運命の続きをしようって言わないの?

「嘘だよね、渚」

だって君は嘘ばかりつく。今日だって、今だって何なんだよこれ。君が本当のことを言わないからだ。

「なぎさ……」

僕はまだ振り向けない。けれど手のひらを感じている。意識を向けなくても、前を振り向けなくてもわかっている。
僕の手のひらは、今ぴたりと閉じている。
渚を閉じ込めようとして、閉じ込めている。
合わせた両手の中に、固く閉じた手のひらの中に、渚がいる。

「はぁ、はぁっはぁっ」

呼吸がうまく出来なくなる。過呼吸をおこした時みたいに息が吐き出せない。
僕の眼球は徐々に移動して前を見ようとしている。そして視線を追うように僕の体も前を向いてしまう。
駄目なのに。見たらだめなのに。
だけど本当はわかってるんだろう、と僕の中の渚が言う。
わかってないよ。気付いてないよ。
だから見せないで。僕にそれを気付かせないでよ。お願いだから。

僕は前を向いた。モニターにはきつく合わせた初号機の両手が見える。
そこには渚の姿はない。腕に張り出していた使徒の姿もない。
ただ初号機が、祈るように両手を閉じているだけ。

「あ、ああ、」

渚はいない。だけど渚はここにいる。だって手の中に何かある。固くて柔らかで、まだ暖かい、何かが。

「あああ!ああああ!!」

僕は叫んだ。だけど自分の声が聞こえなかった。
渚、どうして姿が見えないの。
それは渚が抵抗を止めたから。
突然抵抗を止めたから、僕が握り潰してしまったんだよ。
シンクロをカット出来ない初号機からは、手のひらから滴る何かの感触が伝わってくる。それは僕の目の前で、赤い雫になってぽとぽと垂れた。

「うわああああ!!あああああ!!」
『――モニター復活しました!通信回復。初号機パイロットの生命反応に異常なし。弐号機、使徒の反応共に無し。A.T.フィールドはふたつとも消失しています』
「ああああああ!!」
『調査班、使徒の確認を急いで。回収班、パイロットの救護を最優先に。シンジ君聞こえる!?何があったの!?シンジ君!』
「あああああ!!あああああ!!」
『シンジ君!今そっちに向かうから!シンジ君!シンジ君!』

“シンジ君”

渚、どうして僕の名を呼んだの。
僕はどうすれば良かった。僕は……

――――――――………

僕はその後回収され、鎮静剤で眠った。
目が覚めた時、部屋には誰もいなかった。
ミサトさんの元へ行き、無理を言って渚の遺体を見に行った。
見る影もない渚の遺体には、身に着けていた衣服はなかった。
遺留品を見せてもらい、ズボンのポケットを漁った。
中に入っていたものを自分のポケットに仕舞い、ネルフを出た。
歩いてマンションの自室に戻った。

僕にはもう何も見えない。何も聞こえない。
僕の周りには何もない。あるのは死と、嘘ばかり。
渚のポケットには猫の骨なんか入っていなかった。
入っていたのは、いつか僕が彼にあげたハンカチだった。
僕は。

渚を殺した。

――そして世界は一度滅びを迎え、再生することになる。

END.