渚は白く光りA.T.フィールドを放った。波動で初号機の腕は跳ね上がり、左腕の機能を損傷した。
ナイフが吹き飛び左腕が捻れて折れ曲がるのに片腕が無事だったのは、胸の中心部でフィールドを展開した渚の僅な躊躇いだったのかも知れない。
だけどそんなことはどうでも良かった。
彼のフィールドが放たれた瞬間、右腕が生きていることを知った瞬間、僕は目の前の目標に手を伸ばしていた。そして振り子のように肩で揺れる壊れた左腕を感じながら、漸く届いたそれを握りしめていた。
「なっ!?」
「……掴まえた」
つかまえた。
掴まえた使徒を。渚を。
僕は漸く彼を掴んだ。感覚の残る右手の中に。右の手のひらに、彼を捉えた。
僕の手の中で驚いた顔の彼が見えた。
目を見開き、信じられないといった表情で、だけど今にも泣き出しそうな顔で僕を見ていた。
やっと掴んだ。なぎさなぎさ。
渚。君を掴まえた。
「掴まえたよ渚。もう、終わりだ」
「なんで……」
「君は僕の手の中だよ。君の方から来たんだ」
「どういう…ことだ」
「君が僕の腕に触れて、僕が君を掴んだ。それだけ。もう終わったんだ」
「……僕を、騙したのか」
「先に騙したのはそっちだろ。おかしいと思ったんだ。君は本気で攻撃して来なかったから」
使徒の攻撃をノーガードで受けて、吹き飛ぶ程度のダメージで済むはずがない。燻っていた違和感の正体はこれだった。
「手加減する ”敵” なんて僕は知らない。使徒はもっと怖くて残酷で見境いなしだ。君はただの嘘つきだよ。僕を挑発するくせに自分はどうなんだよ。簡単に腕を壊せるA.T.フィールドがあるのに、なんでその力を使わなかったんだ」
「……」
「君の言葉は信じないよ。君が何をしたかったのかも知らなくていい。僕のナイフを止めてくれただろう?それでもういいよ。嘘の続きも、綾波のことも外で聞くから、だから渚」
なぎさ
「戻ろう、僕と一緒に」
二人で。
「僕と、戻ろう」
渚は何も言わなかった。ただ黙ってこちらを見ていた。
彼の表情はいつの間にか元に戻っていた。感情の読めない、何も見えないいつもの顔。
だけどもう何も読めなくていい。読めたところで、どうせ嘘。
君の嘘はもう、信じないよ。
「……全部、演技だったのか」
「違うよ。かなり自信がなかった。ギリギリまで迷ってたよ」
「自死も、嘘」
「違うよ。君が止めなきゃたぶん死んでた。こうでもしなきゃ近付かせてもくれなかっただろう?」
「そうか……そう…」
「……狡猾なリリンめ」
「うるさい。嘘つきの使徒め」
渚が眼を伏せるのを見て、漸く緊張の糸が解れた。それと同時に押さえていた痛みが襲って来た。
ナイフは最深部にこそ達しないものの、胸の内部を深く傷付けていた。左腕は今は肩の感覚しかない。
神経接続さえカット出来れば初号機は無事だろう。だけどシンクロが解除できない今、痛みは止めどなく押し寄せてくる。精々意識を逸らして呼吸で誤魔化すのが精一杯だ。
このままだと僕がもたない。早いとこドグマから出なければ。
「辛そうだね」
完全に抵抗を止めた渚がこちらを伺うように言った。
「……誰のせいだと思ってるんだ」
「痛い?」
当たり前だろ。胸に穴が開いてるんだ。
「とにかく、ここから出ないと……うっ」
「本当に辛そうだね。だったら簡単に抜け出せるかな」
「どうやって、」
「君の手さ。これなら楽に抜け出せそうだ」
「え?」
予感がして咄嗟に右手に力を入れた。渚はこちらを見ながら淡く髪を逆立てている。
まさか……嘘だろ?
「渚」
「ねえ、何か勘違いしてるみたいだけど、僕は君のために君を止めたわけじゃないよ」
……!
「僕が君を止めたのは僕自身のためさ。せっかく面白くなってきたのに勝手に降りられたんじゃつまらないからね」
そんな……まだやるつもりなのか。
「言っただろ?運命だって。サードインパクトを起こすのが僕の運命だって。君はそれを止めるのが運命なんだよ。勝手にやめるなんてシナリオにはないんだよ」
「運命運命って……運命ってなんなんだよ。君の運命なんか知らないと言っただろ」
「運命ってのはピアノだよ。ピアノの鍵盤と同じ。最初から足元に並んでる」
ピアノ?
「ピアノなんか簡単だ。最初から音が並んでる。あとは順番に叩いてやれば曲になる。単純で簡単。そうだろ?」
「何を言って、」
「だけど曲が終わったらどうだ。音が終わり指を止めて、足元を見たらどうだ。鍵盤の並びが変わることはあるか。白と黒が入れ替わることはあるか。ないだろ。それが運命だ。どんなに自分でどんな曲をどれだけ自由に奏でても、足元の運命は変わったりしない。それが運命だよ。そして僕らはもう曲を弾き終えた」
――駄目だ。
「残念だね三番目の子。そろそろ終わりだよ」
「駄目だ駄目だ渚!だめ!」
渚は再び発光した。初号機の左手を壊した時みたいに。
咄嗟に右手を握り込むと、手のひらをマグマのようなものが焼いた。
「熱っ!」
熱い。だけどこれは熱じゃない。手のひらをこじ開け外に出ようとしているA.T.フィールドの圧力だ。
「クク、出損ねた」
「嫌だ渚、やめろやめて!もう止めてよ!」
「嫌だねサード、僕はもう飽きた。そろそろ役割を果たすとするよ。まあ君の下手な演技は少し面白かったけどね」
圧力は内側からせり上がってくる。指が開きそうになり慌てて強く掴む。けれど指はもう渚には触れていない。彼を覆う白いフィールドで持ち上がり、確実に彼から離れていく。
駄目だ、駄目だ駄目だ。彼を離したら終わりだ。今度こそ二度と戻らないだろう。
「どうしてこんな……!駄目だ、そこから出るな!」
「片腕しかないのは不利だったね。僕もまさか片腕が残るとは思わなかった。初号機のパイロットを見くびってたよ。だから今度は慎重にやる」
「どうしてだよ渚!なんでそんな運命なんかに従うんだ!なんでなんだよっ!!」
やっと掴まえたと思ったのに……!
ひたすら力を込めるしかなかった。強く強く。
手のひらの圧力は次第に増し、指が徐々に浮き上がっていく。
せめて左手が使えれば。だらしなくぶら下がるこの手が動けば。
動け、動け動け動け!!
「なんだ、まだ動かせるのか」
「うおああああ!」
左手はほぼ感覚のないまま持ち上がった。開きかけた右手に左手を重ね、両手で渚を閉じ込める。
しかし重ねた両手はすぐに押し上げられ、指の間から白い光が漏れた。そしてその光の中に見える、初号機の指に張り出した白い筋。
「あれは……!?」
忘れるはずはない。あれはあの日綾波を殺したあの使徒の。
「そんな……!どうしてその使徒が!」
「クク、別に驚くことはないだろ?僕もコレも同じ使徒だ」
「嘘だ!それは倒したはずだ!だって綾波が!」
「ああ君は何も知らないのか。ファーストは死んだけどコレは生きてたんだよ。僕と同化して僕の一部としてね。ずっと一緒だったのに気が付かなかった?」
「嘘だ!嘘だ嘘だ!嘘だ!!」
目の前に暗いものが広がっていく。掴んだはずの渚が遠ざかっていく。
あの使徒が生きていたなんて。綾波を殺して生きてたなんて。
僕はそんなものと一緒にいて、友達だと思って笑ってた。
馬鹿みたいな絶望が馬鹿みたいに押し寄せてくる。
どんなに言葉で否定しても目の前にいるのはあの日の使徒。初号機の腕に張り出して、壊れた左腕を伝い這い上がってくる。
「うわあああ!あああ!」
目茶苦茶にレバーを引いて握り締めた。今の僕に出来るのはこの両手に力を込めることだけ。目の前の使徒を逃がさないことだけ。
「あはは!可哀想にね、君は知らないことばかりだね。気の毒だから最後にもう一つだけ教えてあげるよ。君の猫のことだ」
「嫌だもう何も言うな!何も聞きたくない!!」
「まあそう言うなよ。僕が殺して君が埋めた猫の話だ。君にも関係あるだろ?あの墓から消えた猫の骨」
猫の、骨。
「――あの猫の骨を、僕が持ってる」
また一つ、絶望が広がった。
「墓を掘り返したのは僕だよ。君は野良犬の仕業だと思ってたみたいだけどね」
最初の墓には猫を埋めた。二番目の墓には罪悪感を埋めた。それが僕が作った猫の墓。
「死体は半分ぐらい腐ってたよ。だから水に漬けて洗って骨にした。白くて綺麗だったよ」
「どうしてそんなこと……!」
「死の続きが見たかったのさ。魂が抜けた後の世界をね。結果はただの骨だったよ。何てことない、ただのモノだ。綺麗だけどつまらないよね。だからヒトカケラだけ残して後は捨てた。その一片の骨を、僕が持ってる」
今もポケットに入ってるよ、と。
「どうして」
「教会での君は面白かったよ。何もない墓を眺めてたよね」
「どうして、渚」
「僕の言葉は信じないんだろ?だったらこれも聞き流せばいい。だけどもしこの力比べに君が勝ったら骨を返すよ。ポケットの中を探すといい」
「どうしてだ渚、渚!なぎさ!」
「じゃあねサード。君とは割と楽しかったよ」
「なぎさ……!!」
僕は両手を締めた。もうそうすることしか出来なかった。
いつの間にか初号機の両手は使徒に覆い尽くされ、筋だらけの指の間から今にも抜け出さんとする渚の顔だけが見えていた。
もう以前の渚の顔も思い出せない。
彼の言葉は裏切りと絶望だけを運んでくる。
何も見えない。何も聞こえない。何のために何を掴もうとしているのかもわからない。
張り出した使徒からとりとめのない何かが流れ込んで、だけどそれが何なのかもわからなかった。
胸の傷より痛いものが溢れて視界を覆った。それが涙なのかすらわからなくて、僕は全ての力を手のひらに寄せた。彼の存在を唯一感じる手のひらの中に。
今の僕にわかるのはこの痛みだけ。彼のA.T.フィールドが僕を壊す苦痛だけ。
だからその源に力を込めた。
押し返す力を押し戻して、ひたすらに力を込めて込めて込めて――
「シンジ君」
「……え?」
そしてそれは突然聞こえた。
耳元で囁くようなその “声" に、僕は振り返った。