「それじゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃぁーい」

薄手のタンクトップとホットパンツ一枚で手を振るミサトさんを後ろに、僕は朝、家を出た。
第三新東京市は今日も暑く、既に日は眩しく、蝉の声も忙しい。
快晴。空は雲一つない青空。
朝から汗ばむ程の太陽も、まだ夜の名残を残してほんのりと優しく見える。
僕はいつものように学校へと続く道を歩く。そしてその途中にある三叉路で立ち止まると、これもまたいつものように学校とは逆方向の左の道へと歩みを進めた。
しばらく行くと街の景色は徐々に変わり、活気のある中心部とは違う色褪せた建物が目につくようになった。そして左右を高い壁が囲む細い通りを抜けた所で、急に開けた場所に出た。
そこには辺り一面の倒壊した建物。
住人が再建を諦めた住居の残骸。
折れた電柱。
崩れたコンクリート壁。
地に突き刺さるパイプ。
度重なる使徒との戦いで傷付いた要塞都市の裏の顔。
第三新東京市の ”廃墟街” だ。

僕は廃墟街の中を迷う事なく進み、一軒の一際激しく崩れた建物の前に出た。
元は教会か何かだろう。中に黒いピアノが見える。
その建物の裏手に回り、庭?と思われる空間に出る。そして丁度外壁に太陽が遮られ日陰になっている地面に目を落とすと、そこには小さな土の盛り上がりが見えた。
木の枝を組んだ粗末な十字架が刺さっている。
――墓。
小さな子猫の為に僕が作った、小さな墓だ。
僕は肩に掛けた通学鞄からペットボトルの水を取り出すと、十字架の上からポトポトとかけた。水は十字の縦の部分を濡らし、乾いた地面に吸い込まれて行く。盛り上がった痩せた土の色が濃く変わった。

「死んだネコは水なんか飲まないよ」

ふいに後ろから声が聞こえた。

「水、もったいないんじゃないの?」

振り向かなくてもわかる。あいつだ。

「おーい」
「わかってるよ。いちいちうるさいな」

僕は顔を上げて振り返った。

「君にこの件に関してあれこれ言う権利はないよ、渚くん」

そこには制服のズボンのポケットに両手を突っ込み、不敵に笑う渚カヲルが立っていた。

「君の飲み水の心配をしてやってんだよ。ひどいなあ」
「よく言うよ」

渚くんは両手をポケットに突っ込んだまま、僕の顔を覗き込むようにして言った。僕はペットボトルのキャップを閉めると、それを鞄にしまった。

「いいんだよ。僕がしたくてしてるんだから」
「君が渇いて死んでも?」
「あのねぇ」

死ぬわけないだろ!と言いながら、僕達二人は再び建物の正面に戻り、壊れた壁の隙間から中に入った。 中には瓦礫と黒いグランドピアノ。それと椅子が一脚。床に転がっているのは、大きな十字架。

「でもさ、そもそもあの墓には猫なんて埋まってないんだろ?なんでそんな形だけの物に執着するのさ?」

渚くんはピアノにもたれかかりながら言う。

「へんなの」
「君にはわからないよ」

この猫殺しの張本人め。思いながら椅子に座る。
目の前のグランドピアノの鍵盤にはうっすらと埃が積もっていた。
――へんなの、か。
確かに、彼の言う通りあのお墓には今は何も埋まっていない。最初に作ったお墓は、野良犬か何かが掘り返してしまっていたんだ。
僕はそれを最近発見し、それでも穴の開いたお墓を元通りにして、そこに小さな十字架を立てた。
何故そんな事をしたんだろう。
子猫が死んでから掘り返されているのを発見するまでの間、僕は一度だってお墓を見に来た事がなかったっていうのに……。
結局は自己満足なんだ。そう思う。
それとも戒めかな?ただ殺されるのを見ていただけの、何も出来なかった自分への。

「大体死骸が埋まってるなら水なんかかけたら腐敗が進んで大変なんじゃないの?まぁその分早く土には還るんだろうけど」
「……」

いや、半分はこの渚カヲルへの当て付けだな。うん。

「はぁ、もういいよ」
「もういいの?」
「君とは話が噛み合わないよ」
「そう?」
「自己満足なんだからそれでいいの。わざわざ偽善なんて言うなよ」
「偽善なんて思ってないよ。趣味だろ?変な趣味」
「人をおかしな趣味にするな!」

渚くんはピアノにもたれたまま上半身だけを傾げ、僕を斜めに眺めてイヒヒと笑った。その子供っぽい(まあ実際子供なんだけどもっとこうガキっぽいというか)笑顔を見ると、ついこっちも顔が緩んでしまう。
黙っていればそこそこ端正な顔立ちなのにな。

「むふふ」
「気持ち悪い笑い方だなー」
「シンジ君の趣味よりマシだろ」
「はいはい、もうそれでいいよ」

僕は両手を両肩まで上げて、やれやれのポーズをした。

「……ぷ」
「くす」
「あは!」
「あはは」

蝉の声が響く。街中の喧騒もここまでは届かない。上を眺めると、青空はさっきよりも少し濃くなっていた。

「あっついなー」
「……今日は学校プールの日だっけ」
「シンジ君は行かないの?」
「行かない」
「さぼり魔だね」
「君もね」
「じゃあ、二人共さぼり魔だ」

格納庫で話した日から2週間。僕達は午前中、日課のようにここにいた。
トウジの死以来、僕は学校へ行く事が出来ず、朝家を出てはぶらぶらと時間を潰し、下校時間になるとアスカを見舞ってネルフに行く。そんな生活を繰り返してた。今はそれに渚くんが加わった感じだ。
この場所は別に二人で申し合わせたというわけではなく、ある日何となく来てみたら渚くんも何となくそこにいて、それから何となく一緒にいる。
特別何かするとかでもないし、仲良く楽しくお喋りするとかでもない。
ホント、何となく。
暑くなれば日陰を探し、雨が降れば屋根を見つけて、気が付けばもう2週間だ。

「渚くんって転校して来てからほとんど学校行ってないんじゃない?行かなくていいの?」
「学校なんてつまんないよ」

君がいないし、と彼は言う。

「面白くない」
「でも勉強があるだろ?」
「君もあるだろ?」
「僕は夜してる。訓練の後」
「うそ!?」

渚くんはしてないって顔。

「……ふりょう」
「ふうん?優等生」

ふふ。いつもこんな感じだ。

思いがけず、僕にとって渚くんと過ごす時間はそんなに悪いものではなかった。お互いあんまり深く相手の事に立ち入らないし、たまに渚くんが常識外れの事を言って驚いたりするものの、基本的には付かず離れずで、この関係は寧ろ僕には居心地良いものと言えた。
考え事も出来るし、考えすぎも防げるし。それに一人でサボっている罪悪感も薄らぐ。
ただ。

ただ彼が。
あの吸い込まれるような赤い眼が。
不意に見せる真剣な眼差しが。
僕の顔をじっと見て、不安定に揺れる表情が。
落ち着かない。掴めなくて。
それはいつもほんの一瞬でいつものすまし顔に戻されるけれど。
そんな時の彼は、僕の苦手な渚カヲルになる。
思い出すと、ざわざわする。

「あーそれにしても暑いよねー」
「そろそろ日陰に移動しようか?」

暑い暑い言うと余計暑くなるだろと言いながら、僕は椅子から立ち上がった。

「向こうのゲーセン跡なら屋根があるよ」
「あ、ねぇそれよりさぁシンジ君!」

渚くんは移動しようとした僕の腕を掴んだ。僕の顔をじっと見る。でもこの顔は ”あの顔” じゃない。子供のように目をキラキラさせている。

(この顔は……)

そして、にやり。

「ねぇ、シンジ君」

「海、行かない?」