ザバン。
「うわお!」
「わぁーー」
海!眼前に広がる、青い海!
「すごい。本当にあった」
「はん、だから言っただろ?」
渚くんは腰に手を当てて威張っている。
「ちゃんと地図で調べたんだからさ」
「……君がこんな所に海なんて絶対ないって言ったんじゃないか」
そうなのだ。僕達が乗った電車の窓には、結局海らしきものは一度も映らなかった。
二人怪しみながら電車を降りると、そこは見事に畑だらけのド田舎だった。
地図を片手に彷徨う事小一時間。畑(田んぼじゃない)の中の舗装されてたりされてなかったりの道をうろうろ歩き、一軒だけあったコンビニで新しい水を買い、更に同じ道を何度もぐるぐる廻って、漸く見落としていた小道に入った頃にはもうお昼。
「こんな所に海なんてないよね、絶対!」
なんて言ってる言い出しっぺに僕がキレかかった頃。 急に視界が開けて潮の匂いがした。
海。
青い海。碧い風。キラキラの。
海。
周りの生い茂る木々に隠れて見えなかったんだ。
「きもちーー」
「なんか、ちゃんと海だね」
「いぇーー!」
「あっこらっ!」
渚くんは駆け出して行った。
そこは本当にちゃんと海で、なんで今まで見えなかったのかってくらい雄大だった。一応護岸はテトラポットやコンクリートで整備されていたけど、人が降りれるような小さな砂浜もちゃんとあって。
海。ちゃんと海。ちゃんと、砂浜。
その砂浜で渚くんは、早々に靴を脱ぎ捨てて手を振っている。
「シンジくーん!」
砂が熱い!と騒いでいる。
「何言ってんだよー」
「早くおいでって事ー!」
何だか僕も楽しくなった。渚くんに向かって小走りに駆けた。
「それっ!」
渚くんが僕にオレンジ色の物を投げた。咄嗟に胸の前でキャッチする。
「水着?」
「それ、履きなよ」
言いながらはらはらとシャツを脱いでいる。
「え?でも君のは?」
「僕は裸」
「えっ!?」
「裸でいい」
「え!ちょっと!」
僕はズボンに手をかける渚くんを慌てて止めた。
「ちょ、じゃあいいよ。僕ここで見てるから」
「駄目。言うと思った。泳ぐよ、絶対」
何が絶対なんだよ。
「別にいいだろ?男同士なんだし。それとも……はずかしい?」
「ばっ!そ、そうじゃなくて!」
思わず顔を背けてしまう。なんかこいつ本当に脱ぎそうだ。
「人が来たらどうするんだよ?」
「こんな所誰も来ないよ」
「もし来たら?」
「シンジ君に無理矢理脱がされましたって、」
「いい!返す!!」
僕は灰色の頭の上に水着を被せた。冗談じゃない。
「渚くんは泳ぎなよ。僕は見学してます」
「えー?んー…」
渚くんは顎に手を当てて思案している。こういう時は真剣な顔だ。
「うん!やっぱさ、君これ履きなよ」
「だからいいって」
「僕はパンツで泳ぐ」
「ぱ」
「ぱんつ!決まり!」
言うが早いか、渚くんはあっという間にズボンを脱ぎ捨てて、薄い水色のトランクス姿になった。
「君も早く!」
波打ち際に走る。
「おおおい!渚くん!渚くんったら!」
「帰りはのーぱーん」
水際をバシャバシャ。
「シンジ君もおいでよー!」
「……は」
やれやれ。相変わらずだ。
取り敢えず僕も、借りた水着に着替える事にした。
――――――――………
「そりゃっ!」
「わぷ!」
海に入るなり渚くんに捕まった。強引に腕を引かれて深みに連れて行かれ、海水をかけられて遊ばれている。
「こいつ!」
「わは!」
負けじとかけ返すと、ひょいと避けてかわされた。すいーと僕の横を平泳ぎ。
「そんなんじゃ当たんないよー!」
「この!」
またしても避けられた。
「何でそんなにすばしっこいんだよ!」
「言ったろ?僕はイルカだって」
言いながら渚くんはスイスイと沖へと泳ぐ。自分で言うだけあって泳ぎは上手い。
「ムカつくイルカだな」
「可愛いイルカだろ」
「可愛く、ないっ!」
僕も平泳ぎで追い掛けるが、彼のすばしっこさにはかなわない。渚くんは僕の周りをグルグル回り「捕まえてみなよ」とか言っている。
「僕は君程泳ぎが上手くないんだよっ」
「ふぅん、そう」
「今馬鹿にした?」
「してないよ」
「ふーん、そう」
「あ、むかつく!」
どぷり。渚くんが消えた。
「え?ちょ、な」
渚くん?と言おうとした僕の視界が青く染まる。
「が!」
ガバゴボゴボゴ
僕は足元から引っ張られて海中に沈んだ。
目に鼻に口に、海水が入る。思わず両手をバタバタさせる。気泡だらけの視界に、一瞬にやりと笑う渚くんの顔が映った。こいつ……!
「が、はっ!!」
ザバリと立ち上がる。僕は大量の塩水を飲み込んでむせた。鼻が痛い。
「ごほっごほごほっ!」
「あれ?やりすぎた?」
「ごほんごほん!ごほごほっ……」
「あー、シンジ君?だいじょう…」
「うりゃ!」
「!!」
僕はぱっと振り向くと、渚くんに飛びかかって二人一緒に海に沈んだ。
ゴボゴボと再び視界が海色に染まる。渚くんは驚いた顔をして目を丸くしている。
水中で眼が合う。
真ん丸の赤い眼。
揺れる灰色の髪。
泡だらけの海水に揺らいで水草みたい。
水の中で瞬く。
髪がゆらり。
そして、
あの、眼。
一瞬止まる。時が。
時が止まる。
「!」
しかしそれはほんの一瞬だった。渚くんは海中でいつものにやり顔を作ると、逆に僕の腕を引いて沖へと泳ぎ出した。
「うへ?」
あまり泳ぎが得意でない僕は、水中を引きずられるように沖へと連れて来られ、とうとう息が続かなくなった時には、そこはもう足の届かない場所だった。
「ぷはっ!」
「ははーん」
海面に顔を出した僕を渚くんが笑って見ている。
「イルカに逆らおうったってそうはいかないよ」
「この!」
可愛くないイルカっ。僕は言いながら何とか立ち泳ぎでバランスを取る。渚くんは余裕だ。
「ふぅん。一応泳げるんだね」
「う、うるさいな!」
「僕につかまっていいよ」
「なんだよ」
「自信ないんだろ?泳ぎ」
「む!」
自分が連れて来たくせに。そう思いながらそっぽを向く。
「馬鹿にしてるんだろ」
「だからしてないって」
渚くんはすい、と僕の顔の前まで回り込む。
「つかまんなよ」
そう言って笑う。
見間違いかな。さっきの……。
渚くんは僕の手を取った。不安定な僕をそっと支える。
「ほら」
「……ども」
何となく気恥ずかしくて、僕は海面を見ながら素直にそれに従った。
渚くんは両手で僕の両手を引いて後ろ向きにスイスイ泳いだ。僕は彼につかまったまま、深い海をおっかなびっくり。足元の水が冷たい。
「泳ぐの、上手だね」
「イルカだからね」
「何だよそれ」
「僕、海で泳ぐのは初めてなんだ」
「え?」
意外な事に少し驚いた。こんなに慣れてる感じなのに。
「そうなんだ。どこで覚えたんたよ」
「ん?」
「泳ぎ。プール?」
渚くんは、さぁ?と言って片手を離した。
「わ!」
「あはは、大丈夫?」
からかわれてるな…。僕はちょっと睨んでやった。だけど腹は立ってない。
片手でもしっかり支えてくれてるし、それにこんなに広い海の中じゃ、こんな奴さえ頼もしく思える。自分自身もちっぽけになる。
「ねぇシンジ君。人は海から生まれたんだよね」
すう、と泳ぐのを止めて、渚くんは水平線を見ながら言った。
「人って言うか、生命だろ?大昔の」
原始、生命は海から生まれた、と何かで聞いた。LCLに酷似すると言われる太古の海で、全ての生命の源が生まれたのだと。
誰からだったかな?
生物の先生だったか、テレビだったか、それとも……リツコさんだった、かな?
「何でそんな事聞くんだよ」
「じゃあ生命は死んだら海に還んの?」
渚くんは水平線を見たまんま。
「あの死んだ猫もここにいるわけ?」
「……!」
潮風が髪を揺らした。
水平線をじっと見つめる渚くんの横顔。口元だけは笑っているのに、何故かとても不安定に見える。
――あの眼を思い出した。今は僕の方を向いてもいないのに。
な、んだよ。
「なぎさ……?」
「いやでも陸上で死んだ生き物はやっぱり土に還るんじゃないかな?その為に腐敗するんだし。腐敗後にわざわざ海に移動しないよね。うん」
「……」
頭大丈夫かな。こいつ。
「君の言う事はさっぱりわけがわからないよ」
すっかり元の顔に戻った渚くんは「そう?」と言ってまた僕の両手を持って移動を開始した。完全に振り回されてる。
「うーんそろそろ潜ろっかな。シンジ君、息止めといてね」
「え?ちょ、わっ!」
またもや強引に手を引かれ、僕達は再び海中へと沈んだ。 僕はすんでのところで息止めに成功し、なんだかもう色々面倒臭いので素直に彼に従った。
海中での渚くんは本当に白いイルカみたいで。
スイスイ泳いではくるくる回り。寄っては離れ、離れては近付いて。
沖に、岸に。また沖に。
僕達は時々呼吸の為に浮上しながら青い海を遊んだ。
僕はイルカのガイドに片手を引かれ、両手を引かれ。
なんだか本当に楽しくなって、僕はまた、
たまにはこんな日もいいな。
なんて思った。