「なんか治ったみたい」
カヲルは胡座の片膝に体重をかけ、よいしょ、と言って立ち上がった。
うん、と伸びをする。爪先立ちで両手を天に。
「そうなんだ、良かったね。僕も寝てたら治ったし、お互い疲れてたのかな。あーところで渚くん?」
「何?」
「よいしょ、はおじさん臭いよ」
カヲルはきょとんとして、それから、
「あは!それヒドイ!」
「あはは、だってそうだよー」
笑った。
――――――――………
シンジは内心ほっとしていた。
――よかった。普通。全然普通だ。
ミサトの指示で三日程安静にしていた。幸い新たな使徒は現われず、日課のシンクロテストと訓練は休んだ。
三日考えて「おはよう」に行き着いた。
おはようと言おう、自分から。自分から話しかければある程度は自分のペースに持っていける。シンジの僅かながらに覚えた処世術だ。
ネルフに着いたのは昼前で、こんにちは?と迷って、それでも一応「おはよう」と言った。
『おはよう』
そう返された。少し驚いたような顔で。それからきゅっと厳しい顔になって、黙ってスタスタと行ってしまった。
失敗したかな?と思った。でも前の時の泣きそうな顔とは違う。むしろ困惑といったところだ。
(もう一度……)
シンクロテストの後、ミサトに格納庫にいると聞いて訪れた。カヲルは弐号機の正面に胡座をかいて座り、じっとエヴァを見ているようだった。
背後から近付いた。
『渚くん?』
振り返ったカヲルは、 『やあ』 笑っていた。
普通。全然普通。
良かった、と思った。やはり僕の勘違いだったんだ、と思った。目の前で笑うカヲルにあの日の焦燥感は見られない。
――あんなに動揺してたなんて馬鹿みたいだ。ていうか馬鹿だ、僕。
勘ぐりすぎて悪かったな。彼の事はまだ苦手だけど、これなら普通の ”友人” ぐらいはやっていける。同じエヴァのパイロットとして僕達はまだ協力しなきゃならない。だから友人ぐらいは演じてもいい。
これで、良かったんだ。
シンジは安堵した。
――――――――………
ひとしきり笑い合ってから、シンジはカヲルに尋ねてみた。
「ところで渚くんはこんな所で何やってたの?シンクロテストで何かあった?」
「ああ、これね」
軽い気持ちの質問に、カヲルも軽い調子で答えを返す。弐号機を後ろ手に親指で指し、顎でしゃくる仕草をした。
「こいつが言うことを聞かないもんだから。お説教してやろうかと思ってさ」
「言うことって、シンクロ上手くいかなかったの?」
「僕じゃない。こいつ」
「弐号機?」
シンジは弐号機を見上げた。
「まさか。エヴァのせいって事はないだろ?シンクロはやっぱりパイロットの問題じゃない?」
すると一瞬、カヲルの表情が歪んだ。僅かに目蓋を伏せ、口元を強く結ぶ。
(……あれ?)
だがそれはすぐに元の笑顔に戻り、シンジが感情を読み取るまでには至らなかった。
「あーやっぱりそうかな?」
「あ、え?」
「シンクロ。僕は全然絶好調だったからさ、ひょっとして整備不良とかじゃないかなーと思って」
カヲルはエヴァをぐるりと迂回してサイドへと回った。巨大な弐号機の横顔をちらりと見て、体をくの字に折って両膝に両手を当てる。
「違うかな?」
「えー?整備不良って事はないんじゃないかな?今までそんなこと聞いたことないし、こんな大きな機体の整備不良なんてあったら恐いよ」
「だよね」
シンジが苦笑すると、カヲルは首を傾げながらぴょん、と跳ぶようにして元の姿勢に戻った。
「僕もシンクロは上手くいかない事が多いよ。渚くんは来たばかりなんだし、気にする事ないと思うよ」
カヲルの戦いぶりは実際目にした。プライドがあるんだろうな、そう思いながらシンジはフォローを入れた。
「またまたーシンジ君は優等生なんだろ?シンクロくらい朝飯前じゃないの?」
「そ、そんな事ないよ」
「そんな事あるよ。皆言ってる」
「えー?誰が?」
「皆。君、有名人だよ?」
嘘だよそんなの。と、シンジは頬を染めて苦笑する。特別だとは思われたくない。現に多くの人を傷つけてきたのだ。
「まあでもありがとう、フォローしてくれて。あんまり気にしない事にするよ」
「また次があるしね」
次も、次も。 ”使徒” がいなくなるその日まで。
――乗らなきゃならないのか、エヴァに。
シンジは小さく唇を結んだ。
「んじゃ、僕はもうそろそろ帰るよ」
「あ、うん」
「シンジ君も帰るんだろ?途中まで一緒に行っていい?」
「うん。いいけど」
「やった!」
嬉しそうな様子に、シンジも自然と顔が綻んだ。
「そうだ、ミサトさんに連絡は?」
「あ、忘れてた」
「言いに行く?」
「面倒臭いなー」
「駄目だよ。行くよ」
シンジとカヲルは並んで格納庫を後にした。
――やはりそんなに嫌われてないのかも。
シンジの砕けた態度にカヲルはそう思った。
このまま肩でも組んでやろうかと、背中に手を伸ばしかけたが、止めておいた。
多分、拒絶される。拒絶されてまた逃げ出されたら。嫌だ。
格納庫の出口でカヲルは少し立ち止まった。振り返ると赤い弐号機が沈黙している。
――命拾いしたね。今日は勘弁してやるよ。
だけどね、弐号機。
「 ”罪” は忘れないよ」
カヲルは氷のような瞳で弐号機を睨んだ。赤い視線の先の赤い機体は何も言わずに佇んでいた。
「渚くん?」
「あ、待ってよシンジ君!」
カヲルは再び向き直ると、シンジを追って小走りに駆けた。その表情からは冷たさは消え、自然と柔らかな笑みが戻った。
苦しさと暖かさと。そして何故か、苛立ち。
これが、好き。
「ふぅん。面白い」
何か言った?とシンジに言われ、何でもない、と横顔で笑う。
ねぇそれよりシンジ君。
『僕の事好きになってくんない?』
しかし、それも止めておいた。何故言わなかったのかはカヲル自身にもわからない。
ただ今は、隣で微笑む少年をあの日のように逃がしたくなかった。
END.