ぱん!と弾けた。視界が一瞬でクリアになった。
朝起きて身仕度を整えて、本屋をひやかしてネルフに出向いて。
白いシャツの制服姿の彼。
おはよう、と言われた。
それで全て理解した。

これ?
これ?
これのこと?
これがつまり、『好き』ってこと?

全ての景色が消え失せて、世界が全部彼に収束した。
黒い眼の、黒い髪の、この世界で唯一の、今僕の眼に映るリリン。
シンジ君
シンジ君
シンジ君
僕に、おはようと言った。
これが『好き』
これが……

「君が、好き」

僕は漸く理解した。

――――――――………

シンクロテストの結果を受けて、渚カヲルは愕然とした。

「59%だって!?」

有りえない有りえない有り得ない!僕が、この僕が6割しかシンクロしないだと!?馬鹿な!そんな事理論上有りえない!

「結局こっちの思い過ごしだったのかしらね」

ミサトは小さく呟いた。

「……いいえ、そんなはずないわ」

委員会が直接送り込んで来た子供ですもの。そう思いカヲルを見る。
カヲルは格納庫の弐号機の前で呆然とした顔で立っていた。
この少年にとってはまさに青天の霹靂なのか。余程自分の実力に自信があったのだろう。しきりに弐号機を見ては次に自分の手を見る。そんな仕草を繰り返している。その表情は、驚きにも忌々しさにも見えた。

「渚くん、今日はもういいわ。アガって頂戴」

ミサトの言葉にカヲルは眉をしかめたまま口元だけの笑顔を作った。

「了解」

しかし数歩と行かないうちに、くるりと踵を返してミサトの元に戻ってきた。

「ねえ、やっぱりもう少しここに居てもいい?少し話したいんだ。 ”こいつ” と」

何かするつもりかしら。ミサトはカヲルの瞳をじっと見つめた。
少年にしては大人びた、綾波レイと同じ赤い瞳。いつも掴めない表情が今日は悔しげに歪んでいる。
――三日前。
カヲルはシンジと接触した。
その後シンジは錯乱状態で家に戻り、何を聞いても『ごめんなさい』『喧嘩した』としか答えなかった。ミサトにはそれがただの友達同士の喧嘩だとは思えなかった。
”委員会の子” と ”サードチルドレン” 。何もなければいいのだけれど……。
……まだ、わからないわ。そうよね、加持くん。
ミサトは判断を保留した。

「それじゃあ帰る前に必ず声をかけるのよ。居場所がわからなければ電話して」

承諾の言葉を受け、カヲルは「了解」と言った。

「さて、と」

ミサトの姿が消えるのを見届けて、カヲルはその場にどかりと胡座をかいた。

「どうしてくれようか」

心を持つ巨大兵器エヴァンゲリオン。その弐号機を睨みつける。

「僕を裏切ったね」

本来ならアダムの魂を持つカヲルに高々アダム ”ベース” の弐号機が逆らえるはずはない。カヲルにとって弐号機とのシンクロなど指を動かすようなものだ。それが。

「59%……」

――有りえない!

そもそも今日は昼からずっと変だった。ネルフに着いて、そこにシンジがいた。彼の姿を見た瞬間、カヲルの心は弾けてしまった。
それこそ、ぱん!と音を立てて。

『おはよう』

三日前、シンジが部屋を飛び出して行ってからカヲルの心はザワついたままだった。水を飲んでも横になっても治まらず、カヲルはその都度胸を押さえた。
苦しい。苦しい……。
目を閉じると去り際のシンジの表情が浮かぶ。
怒っているのか。困っているのか。それともやはり……嫌っている、のか。僕を。

『好きじゃない』

以前言われた言葉に胸が疼いた。今まさにその時の痛みが蘇り、あの日と同じように胸を押さえた。シンジと同じ第一中学の白いシャツ。その胸元を掴み、眉間をぎゅうと寄せる。

――過呼吸じゃなかった。これが。

「好き」

おはよう、と言われた。三日ぶりに会って。この三日間はネルフに来ても学校に行ってみてもそこにシンジの姿はなかった。
何となく誰にも聞けず、電話も出来ず。ザワザワとした気分のまま三日過ごした。
もし会っても何を言ったらいいのか、何が言いたいのかはカヲル自身わからなかったが。

『おはよう』

それだけだった。少し笑っていた、と思う。何故か視界がが勝手に狭まり、周りの景色が消えてしまった。
黒が。シンジの黒だけが眼に入った。

『おはよう』

言い返した。声が擦れた。それだけ。ただそれだけで。全て理解した。

「シンジ君……」
「渚くん?」
「え?」

突然背後から声が聞こえ、カヲルはびくりと身を震わせた。
胡座をかいたまま上半身だけ振り向くと、いつの間にかシンジが立っていた。

「渚くん」
「シンジ君!」

カヲルは胸を掴んだままの姿勢で顔を綻ばせる。

「やあ。どうしたんだい?」

他人の接近をこんなに近付くまで気付かなかった自分に些か驚いたが、それでも目の前のシンジの穏やかな態度に胸の痛みは少し和らいだ。
呼吸が楽になる。何故だろうか。

「何か用事?」
「え、あー用事って程でもないけど」

シンジは少し下を向いて、はにかんだような顔を作った。そして微かに申し訳なさそうな顔をして、「この間はごめん」と言った。

「ごめんて、何が?」
「あの、突然帰っちゃって……」

具合が悪かったんだ。と続いた。

「え?」
「来るとき日アタリしたみたいで」
「ヒアタリ?」
「うん、熱中症って言うの?帰ったら倒れちゃって。だけどあの日は君も体調悪かったんだよね。だから……ごめん」
「あ……!」

そうなの?そうなんだ。カヲルはハッとした。
そういえば汗もかいてたし顔も赤かった。やたら帰りたがってたし、なるほど具合が悪かったのか。
なんだ。なんだそうか。じゃあそんなに嫌がられてたわけでも……。
いや。それとこれとは……別?

「あー…」

――…

「あはは!」
「渚くん?」

少し考えて、まぁいいや、とカヲルは思考を停止した。
まぁいいや。今は彼と話していたい。

「いや、こっちも悪かったよ、気付かなくてさ」
「病院行った?」
「病院?」
「あの、過呼吸の」
「ああそれ!」

カヲルの顔がぱっ、と輝いた。

――シンジ君、それがね、それが過呼吸じゃなかったんだ。
聞いてよ!僕、君の事好きになったみたいなんだ。ううん、みたいじゃなくて好きなんだ。
だってこんなに苦しいもの。ファーストと繋がって感じたみたいに苦しいもの。
ドロっとして気持ち悪くて苦しくて、でも何故か暖かい僕の ”好き” 。
さっき気付いたんだ。頭の中で弾けたんだよ。
ついさっきまでは苦しかったけど、君の声聞いたら楽になった。君が話しかけてくれて嬉しいよ。凄く凄く嬉しいよ。
凄いよね。シンジ君。
僕、君が好きなんだ!

そう言いかけて、止めた。