「軽い熱中症よ。寝てなさい」
目覚めると僕は自分の部屋にいた。
「何があったのか知らないけど、この暑い中を脱水症状を起こすまで走るなんて。さっきまでリツコが来て診てくれてたのよ」
「……ごめんなさい」
「ま、いいわ」
僕のベッドの脇で水枕の氷を取り替えてくれていたミサトさんは、新しく冷えた枕を僕の頭の下に差し込んで、 「何かよっぽどの事があったのよね」 そう言って僕の額を撫でくれた。
「ごめんなさい」
余程の事……?そうかな?
「ひえピタちゃんなかったから古い水枕で悪いけど、ゴム臭いからってそれ取っちゃ駄目よ」
ミサトさんはそう言うと、少し笑って頭の下のゴムの枕を軽く指で揺らした。
「さて、と。私はもう行かなくちゃ。今日は夜ゴハンいらないから君は大人しく寝てなさいね」
「ミサトさん!」
「なあに?」
僕は少し上体を起こして彼女を見た。
「ありがとう」
居てくれて。
「いいわよこれくらい。それに」
ミサトさんは口元に手を当てて悪戯っぽくふふふ、と笑い、
「あたしが服脱がして着替えさせてあげたんだしね~。ぱ・ん・つ・まで!」
「!!」
「なかなか可愛いかったわよ~」
「み、ミサトさん~!」
赤面して布団を鼻まで引き上げた。
「あはは。じゃーもう行くわね」
「い、いってらっしゃい」
苦笑しながら手を振ると、ミサトさんも笑いながら手を振って、最後にもう一度「寝てなさいよ」と言ってドアを閉めた。
静かになった部屋で、僕は横になって天井を向いた。
いつもの天井。いつもの部屋。目を閉じる。
どうしてあんなに動揺してしまったんだろう……。
――――――――………
渚カヲルに呼び出された。
わざわざ出向くと、彼は既に部屋の前に立っていた。
『まあ入んなよ』
部屋の中は玄関まで涼しく冷えていて、なのにその部屋の主は汗だくで外にいた。汗で長い前髪が額に張りついているのを見て、いつからいるんだろう?嫌味なヤツだな。と思った。
僕は彼が苦手だ。
遠慮のないズケズケとした物言い。人の心に土足で上がり込んできて知らん顔。人を見下したような作り笑顔も好きじゃない。はじめは……綺麗な顔だと思ったけれど。
だから今日だって、ミサトさんの伝言じゃなければ行ってない。そもそも僕は最近知った綾波の ”三人目” の事実で手一杯で……正直、彼の事なんて忘れていたんだ。
「綾波……」
布団の中で僕は思う。
巨大な水槽の中でもろもろと崩れ消えて行った綾波。彼女を壊したリツコさんは、さっきまで僕を診てくれていたらしい。
あの時一緒にいたのはミサトさん。ミサトさんも今まで僕の傍にいてくれた。どうしてミサトさんはこの時間に家にいたんだろう。
綾波の件以来、ミサトさんは毎日朝早くから夜遅くまでネルフにいる。何かを調べているだろう事はこの僕にもわかった。
綾波の事実を知る。それはきっと父さんの、エヴァの真実に近付くということなんだ。
でも……真実ってなんだ?
知って、どうなる?
アスカはいまだ意識が戻らない。トウジも死んだ。 ”二人目” の綾波も死んだ。きっと加持さんももういない。沢山の綾波は僕の前で……。
僕の周りには ”死” ばかりだ。
僕は、いっぱいいっぱいだった。
それなのに――
初めは嫌味に笑っていた渚くんの顔が悲しそうにゆらゆら歪んで、最後には泣き出しそうに僕を見た。
『君の過呼吸がうつった』
『君の事考えると苦しいんだ』
『君を思うと苦しいんだよ』
『ファーストが生きているとわかったあの日、』
『あれからずっと苦しいんだ』
待ってくれ!君は何を言っているの?
『息がうまく出来なくて』
『君の事ばかり思い出す』
僕が過呼吸をおこしたのは綾波のせいだ。君の事なんて考えなかった。君の事なんて忘れていたよ。
僕が考えなきゃならないのは綾波の事。アスカの、父さんの、エヴァの事。君の事なんかじゃない。
どうしてそんな眼で僕を見るんだ。何でそんな顔するんだよ?こんなのまるで……まるで……。
気が付けば僕は激しく動揺していた。動悸は激しく、手のひらに汗が滲んでいた。みっともない位に顔が熱くて、自分が赤面しているんだと自覚した。
何を言われたんだろう。何を言われたんだろう。
嫌だ。嫌だ。
あんなの、男が男に言う台詞じゃない。
”カララ”
グラスに入った炭酸飲料の氷が溶けた音が耳に残っている。僕は早く帰りたかった。
「ふくろ。試してみたんだよね?」
『あ、うん』
「過呼吸だよ。やっぱりそれ」
早く帰って一人になりたかった。だから適当に彼に同調した。嫌だった。こんな所で時間を潰して、みっともなく動揺して。
僕は口をぱくぱくさせて言い訳紛いのことを言った。彼が不審に思ったのも無理も無い。急に態度を変えた僕の事を。
そして僕の顔を覗き込んで……
『もう、何なのさ?』
――ねぇ、人が人を好きになるって、
――どんな感じ?
赤い眼。その眼に弾かれて僕は。
逃げ出した。
――――――――………
目を開ける。視界にはいつもの天井と蛍光灯。
僕は布団から出てふらつく足で部屋の角まで行き、電気のスイッチを押した。
灯りが消える。薄暗い部屋。
布団に戻って横向きになると、カラカラと水枕の氷が動いた。
「……あんなに取り乱す事、なかったな」
枕の冷たさに思考が落ち着いてくると、冷静さが戻ってきた。
最近混乱する出来事が多かったとはいえ、彼の言葉であんなに動揺する事はなかったんだ。
あれは、僕の勘違いだったのかもしれない。
考えてみれば渚くんだってネルフには最近来たばかりなんだ。僕は彼の以前の生活は知らないけど、きっとここに来る前は親や友達だっていたはずだ。それが突然、見知らぬ土地に一人で行かされて。
「心細かったのかも」
僕はただ自分の事で手一杯で。ただただ手一杯だっただけで。
”友達になりたい”
そういう意味だったのかもしれない。あの言葉。
たぶん、きっと。
「恥ずかしい……」
一人で余裕をなくして慌ててしまった。ミサトさんにも変に思われたろうな。
「恥ずかしい」
僕には考えなきゃならない事がたくさんある。こんな事で頭を一杯にしてる場合じゃないんだ。
今度、渚くんに会ったら普通に話しかけてみよう。当たり障りなく、今までそうしてきたように。
布団を引き上げてくるりと寝返りを打つと、また水枕の氷がカラカラ鳴った。それはあのグラスの氷の音に少し似ていて。
僕は深く目を閉じて、揺れるあの赤を消した。
END.