今日ここに来てから何度目かの動悸がしている。そしてそれは今までで一番激しい。
「はぁっ」
上がる心拍数を押さえようと体が無意識に深呼吸をする。顔が嘘みたいに熱い。
なんて……言われた?今なんて……。
『君が好きだ』
僕が?好き?
「……渚くん」
「……」
「冗談だろ?」
渚くんはいつの間にか下を向いていた。目の前には灰色の長い前髪が垂れ下がっている。
僕は、僕のシャツを掴む彼の腕に手を掛けて言った。軽く引いても腕は動かない。
「ねぇ、冗談だよね。君って時々変なこと言うからびっくりするよ」
もう一度、今度は少し強く引く。それでも腕は離れず、僕のシャツは彼の指に引かれて片側に寄った。襟元が苦しい。
「渚くん、苦しいよ」
「……」
「手、離して」
「……」
「ねぇ、離してったら」
「……じゃない」
「離せってばなぎさっ!」
思い切り引いて腕を引き離した。がくんと肩に衝撃が掛かり、腕が離れる。
「……冗談なんかじゃないよ」
「嘘だ!」
「嘘じゃない」
「嘘だよっ!」
だって友達だろ!?僕は言った。
だって友達なんだ。友達だって言ったじゃないか!
「嘘じゃない。冗談でもない。君が好きなんだ」
「そんなの、おかしいよ!」
「なんで」
「男同士だぞ僕ら!君の、君の言う好きは、友達同士の好きだよっ」
『自慰をしたんだ』
……っ!
「違う。ファーストと同じ好きだ」
「君は女の子じゃないだろ!?」
「女じゃないよ。体はね。でも君が好きなんだ。友達?友達だよ。でも好きなんだ」
そう言って渚くんは僕から離れた右手で自分の左腕を抱いた。左手はTシャツの胸元を掴んだまま。
僕はもう一度同じ事を言う。
君の言う好きは、友達の――
「同じだよ。ファーストと同じだ」
「っ!綾波綾波って、なんでそんなに綾波にこだわるんだよ!」
「だって彼女から貰ったんだ。繋がって、そして気付いたんだ。彼女が目覚めさせた。僕の中のココロ」
ココロ……?
「それが……前の使徒と戦った時だって?」
「そうだよ。そう言ってるだろ」
前の使徒の時。あの日。
あの日、侵蝕使徒により僕達の体の一部は融合した。
全部じゃない。体のほんの一部。
綾波の心が流れ込んだと渚くんは言った。だけど。
僕も繋がったけど、そんなものは感じなかった。
僕はただ、目の前の綾波を助けるのに必死だった。
そしたら突然僕の融合は解かれた。
綾波はエヴァの機体内に使徒を押さえ込み、それから、それから……。
「ファーストは自爆して吹き飛んだ。だけど心は僕に残った。そして僕のものになったんだ。今君を好きなのは僕だ。あの日のファーストと同じように、僕は君が」
きみがすきなんだ。
肩を抱いて俯いたまま渚くんは言う。
好き。すき?
綾波のココロ?
自爆した綾波の、彼女から伝わった心?
だから僕が、好き?
そんなの……!
「そんなの、君の気持ちじゃないじゃないか!」
それは ”綾波の気持ち” だろ!
「渚くんはあの時の綾波の気持ちを自分の気持ちだと勘違いしてるだけだよ。君自身の感情じゃない」
綾波が僕を思ってくれてたとしたら。いや、そうじゃなくても。
「綾波は、僕達はあの時極限状態だったんだ。その感情が少しオーバーに伝わっただけだよ」
本当の感情じゃない。
「僕の気持ちじゃないって?」
「そうだよ」
「違う。僕のだ」
「君のじゃない」
「僕のだ」
「勘違いだってば!」
「違う僕のだ!僕の感情だ!ファーストのじゃない!僕は君が好きなんだ。君を好きなのはファーストじゃない、全部僕だ!僕のなんだ!」
そう叫んで渚くんは顔を上げた。
「っ!」
咄嗟に腕を突き出した。手のひらに鈍い衝撃。渚くんの体はバランスを崩して大きく揺れ、床に片手を付いた。
「ごめ……!」
僕は膝立ちになって彼との距離を空けた。
「ごめん」
言葉とは裏腹に体が無意識に彼を避けた。そんな僕を渚くんは瞳を大きく広げて睨む。
「……なんでだよ」
ゆらりと体勢を戻し、再び胡坐で足の間に指を組む。
「僕とファーストの……どこが違うのさ」
吐き捨てるように呟く。
「体も、感情も、どれも同じだ。どこが違う。君を好きなのも、君を想って苦しいのも、全部同じだ。どこが違う」
渚……。
「どこも違わない。僕はファーストだよ。ファーストの心を持ってる。同じ心だ。なら君は?君はファーストの事が好きだったんだろう?」
綾波。
「ファーストの心は僕の中にあるんだ。僕に宿っている。君がファーストを想うこと、それは即ち僕の心を想うことだ。何も違わないのに、僕と同じ心を想ってるくせにっ、なんで君は僕じゃないのさ!」
同じじゃないか!渚くんは叫ぶ。
「全部同じだよ!」
嫌だ渚やめて!
「渚くん変だよ、矛盾してるよ!違うと言ったり同じと言ったり。君は君で綾波は綾波だよ。君はあの時の綾波の感情に感化されてるだけ、それだけだよ!」
彼の言葉を遮るように僕も声を上げた。
こんなの、嫌だ。
「僕はファーストと同じだ」
「もうやめてよ!」
「でも違う」
「やめてったら!」
「君を好きなのは僕だ、ファーストじゃない。でも同じなんだ。ファーストと同じなんだよ!」
嫌だ嫌だ嫌だ!!
「シンジ君、僕は自慰なんてしたくなかった。あんなことしたくなかった。最悪だよ。体が精神を裏切るんだ。気持ち悪くて、嫌で、途中で何度も止めようとしたのに、出来なくて。最後には膿みたいなものが出た。吐き気がしたよ。たかが性器に自分の思考が奪われるなんて。あんなこと二度としたくない。そう思ってた。そう、思ってたのに!」
「ちくしょう!」
渚くんは吠える。
「畜生畜生っ!」
その声に僕の身は竦む。
「気持ち悪い!あんなもの切り落としてしまいたい!制御出来ない体なんて御免だ!ずっと君のこと考えてた。してる間中ずっと。嫌で、嫌で嫌で嫌で、嫌でっ!だけど思ったんだ。君もこんなことしてんのかなって。こんな気味の悪いことを、ファーストを考えながらしてんのかなって。そしたら、そしたらねぇ、どうなったと思う?そしたら――」
ソウシタラ……
「気持ち良く、なったんだよ」
渚くんはのどを鳴らした。
「クク……あはは」
両手で顔を覆い、泣き声みたいな笑い声を立てる。
「あはは、はは。お笑いだよ。心は嫌悪してるくせに体は気持ち良いなんてさ」
なぎさ。
「クク、僕の自制心なんてまるで無いのと同じだ。最悪だ。最低だよ。だけど気持ち良くなった」
なぎさなぎさなぎさ!
「だって君がファーストを考えてるんだ。考えながらシテるんだ。ファーストの心は今僕の中だ。だからつまり、君は僕を考えてシテるってことさ!」
「いやだもうやめて渚!やめてよ頼むから!!」
僕は立ち上がった。もうこれ以上聞きたくない!
「なんでそんなこと言うんだよ!そんなこと、なんで僕に言うんだよっ!」
手のひらで額を抱く彼に叫ぶ。
なんでだよ!聞かなきゃ今までみたいにいれたのに。
「……君が言えって言ったんだろ」
「僕が聞きたかったのはそんな話じゃないよ!」
「……じゃあどんな話?」
「それはっ」
僕はただ君のことが心配で。君が僕に言わない何かを聞いてやりたくて。
「それは……」
「クク……何?もっと面白い話でも聞けるかと思った?自分に都合の悪い話は聞きたくなかった?てことはつまり、僕の話は君にとってあんまり面白い話じゃなかったわけだ」
クク、とのどが鳴る度肩が揺れる。
表情を覆い隠す両手の指が、白い包帯ごと内側に曲がる。
「相変わらずだね。自分から聞いといて、都合の悪い話は聞かない。どんな話なら満足だった?怪我の話?この部屋のわけ?それともネルフか学校の話?そんなものが聞きたかった?そんなものはどうでもいい」
僕にとってはね、と。
「僕の話を聞いてくれるんだろ?僕は君が好きなんだ。苦しくて苦しくて仕方ない。だけどそれは君の望む話じゃないんだろ。それが答えか。よくわかったよ」
「渚、僕は」
「出てけよ。僕にはもう何も話すことはない。君の用事も済んだだろ。出て行け。もう来るな」
……!
「僕がいて良かったって言ったくせに。君の方から来たくせに。ドアを開けたら君がいて、飛び上がるぐらい嬉しいなんて馬鹿みたいだ。でもそれももう終わりだ。どうせ終わる。何も残らない。だから帰れよ、今すぐ」
帰れ――
両手の隙間から低い声が漏れ、そして沈黙した。
僕は足の指の間に波にさらわれ引いて行く海の砂の感触を感じた。
終わる。終わってしまう。
“友達” が。
「……渚、僕は君を友達としか思えないよ。君の言う好きは僕にはわからないよ」
そんな風には思えない。
「今日は君に会いたくて来たんだ。君が心配だったんだ。でも渚、君がそんななら、僕は」
「……」
「も、う」
もう……。
引き潮みたいに足元が引いて行く。頭に上った血液も正常に戻る。
手のひらに顔を埋めたまま渚くんは動かない。
肩も動かない。髪も動かない。泣いてもいない。震えてもいない。
だけどいつもみたいに、笑ってもいない。
そして渚くんは動かないまま、独り言みたいにぽつんと「帰ってくれ」と言った。
「帰ってくれ。僕が眼を伏せている間に」
君が出て行くとこ見たくないんだ、と。
ペットボトルを股越して玄関に出た。履いて来たスニーカーを踏ん付けて引っ掛けた。最後に「医務室行けよ」とだけ言って外に出た。
途端にむっとする外気。一度も振り向けずに部屋を後にした。
ネルフの通路を戻る。来た道を逆に。頭の中が他人事みたいにぼんやりしている。
なんだろう。僕は何をしてたんだろう。
さっきこの通路を通った時には、こんな風にここを戻るなんて思わなかった。
僕は彼に会うのを楽しみにしていた。
苦手なはずだったあいつ。いつの間に友達だと思ってたんだろう。
『君が好きなんだ』
苦しそうに睨み付けられて言われた、嘘みたいな言葉。
知らなきゃ良かった。
聞かなきゃ良かった。
彼の部屋に、入らなきゃ良かった。
そうすれば友達のままでいられたんだ。
白くて堅い床をスニーカーで蹴って早足で戻る。シャツの胸ポケットからIDカードを取り出して確認する。この通路をもう少し行けば外部へと抜けるゲートがある。それを通ればネルフを出られる。 ”あの日” みたいに足が先へ先へと進んだ。
早く帰りたい。セキュリティーセンサーを抜けて、早く。
だけど僕の足はゲートの手前で止まった。
「シンジ君!」
「!」
背後からの靴音と名前を呼ぶ声に振り返った。 僕が通過して来た通路の向こうから、部屋着のままの渚くんが走って来る。
「渚!?」
僕はギクリとして手にしたIDカードを握り締めた。反射的に身を縮めた。
「シンジくんっ」
立ち止まる僕の前に渚くんはアッと言う間に辿り着き、腰を折って両手を膝に当てて、はぁはぁと乱れた呼吸を整え始めた。
「はぁっ、はぁっ、やと、追い付いたっ」
「渚、なんで」
どうして。
たった今置いてきたばかりの彼が、まるで何事も無かったかのようにここにいる。
混乱する頭で彼を見ると、足元はサンダル。随分急いで走って来たみたいだ。
「シンジ君足速いっ」
「な、」
「嘘だよ、全部」
え?
「全部、嘘だ」
そう言って渚くんは顔を上げた。
「嘘だよ、冗談なんだ。君が急に来て驚いたから僕も脅かしてやろうと思っただけさ」
……嘘?
「ごめん、少しやり過ぎたよ。君があんまり真剣に取るからこっちもつい調子に乗った。まさか本当に帰るとは思わなかったんだ」
冗談?
「ここは暑いね。ねぇ、よかったら戻ろ、僕の部屋に。あそこなら冷えてる。まぁ確かにちょっと、っていうか目茶苦茶散らかってるけど……」
「あは」
「!」
ぐちゃぐちゃの前髪に片手を添えて渚くんは笑った。そしてもう一度「戻ろ」と言った。
――『戻ろう』
僕はその笑顔を見て、もう気付いてしまった。
”嘘” なんだ。
嘘だっていうのも。
こうやって笑うのも。
彼の言う ”嘘” は全部嘘なんだ。
「シンジ君戻ろう」
「……渚」
「ねー戻ろ」
「渚、もういいよ」
「部屋なら掃除するよ」
「もういいよ渚!もう、無理だよ。もう元には……戻れないよ」
「シンジ君?」
「ごめん。僕はやっぱり君をそんな風に思えない。君の部屋にも行けない。前と同じにはいられないよ」
「……なんで?嘘だって言っただろ?」
「……」
「冗談だよ。信じないの?」
「……ごめん」
「なんでだよッ!!」
予想していた怒鳴り声に耳を塞ぎたくなる。その先の言葉を聞きたくない。もうこれ以上の言い合いなんてしたくない。
「嘘だって言ってんだろ!嘘だよ、全部嘘だ!信じろよ!」
「じゃあなんでそんな顔してるんだよ!!」
「!?」
振り切るように僕も叫ぶ。渚くんは驚いた眼をして動きを止める。
僕の前にあるのはぐちゃぐちゃの顔。涙が零れてないだけの、今にも泣き出しそうな子供の顔。
何度も見た。
本当は気付いてた。
抱き締められたことだってあったのに、気付かないフリをして誤魔化してたんだ。
「……もういいよ。無理に笑わなくていいよ。もうわかったから。だけど僕の好きは君と同じ好きじゃない。君と同じには、思えない」
渚くんの唇が何か言おうとして動いて、止まった。
そして表情が消える。
「ごめん、渚」
サンダル履きの足を後ろに引いて、何も言わずに背を向ける。僕も背を向けた。
彼の背中を見ないで、もう一度ごめんと言った。
足音が聞こえる前に走りだした。
ゲートまでの距離を一気に走って通過した。
そのまま外に飛び出して、耳を塞いだ。
眼も塞いでしまいたかった。
友達が欲しかったのは僕だ。誰かを求めていたのは僕。
だって僕にはもう誰もいない。
アスカも、トウジも、ケンスケも、委員長も……。
「……あやなみ」
話を聞くよと言ったのに、聞かなきゃ良かったと思うなんて。
僕は偽善者だ。
だけど。
だけどやっぱり思う。それでもやっぱり……。
渚、なぎさ。
聞かなきゃ良かったよ。
なぎさ――
END.