渚くんが学校に来なくなった。
理由はわからない。

来なくなったと言ってもそれは学校だけの話で、ネルフの訓練では変わらず毎日顔を合わせるし、日課にしているアスカのお見舞いでも時々姿を見かけたりする。
つまり、本当に学校にだけ来なくなったんだ。
ネルフや病室での渚くんは至って普通で、別に変わった様子はない。僕がどうして急に登校を止めたのかと聞いても、笑いながら『飽きた』と答えるだけだった。
そもそも学校は僕が半分強引に渚くんを付き合わせてるみたいなところがあったから、そこで飽きたと言われればそれ以上何も言えず、元々サボりがちだった渚くんを知ってるのもあって、その件に関して僕が彼を深く追求することはなかった。
いや、出来なかった、って言うのかな。
本当は凄く気になっていたんだけど。
それは、渚くんが学校に来なくなったのが僕が彼に弁当を差し入れた翌日からだったから。
その時は嬉しそうに食べてくれたけど、やはり有り難迷惑だったのかも知れない。
僕としては、学校に付き合ってくれて、軽いイジメ(みたいなの)にも色々気を使ってくれる彼へのほんのお礼のつもりだったんだけど……。
ちょっと変な事しちゃったかな。そう思って、それは彼に直接聞けないでいる。

だけど代わりに、代わりにと言っては何だけど、綾波が学校に来るようになった。
渚くんが登校を止めたのとほぼ同じ時期、まるで彼と入れ替わるように、”三人目” になってからはネルフ以外で姿を見ることのなかった綾波が、ある日ひょっこり教室に顔を出した。
僕は凄く驚いた。
綾波が現われた時、授業は丁度3時間目で、僕はその時受けていた国語の辞書ファイルをPCから呼び出している最中だった。
クラスメイトがざわついたので教室の入り口を見てみると、そこに綾波がいた。足元はくつ下で。
僕は驚くのと同時に、ああ綾波も僕と同じなのか、と思った。
3時間目が終わって話し掛けた。
話し掛けると綾波は……少し、笑った。
正直 ”三人目” に少し緊張していた僕は、その笑顔に安心した。
前よりずっとぎこちないけれど、それでも久しぶりに見る綾波の笑顔。笑ってくれたのが嬉しかった。
僕はその時履いていた自分のスリッパを脱いで彼女に履くように勧めた。男の僕より女の子の綾波の履物がない方が、可哀相な気がしたから。
すると綾波は『ありがとう』と言って、また少し笑ってくれた。

そうだ。その日だったな。僕が渚くんに弁当を差し入れたのって。
昼休みに彼のクラスに持って行ったけどいなくて、他の生徒に保健室に行ったと教えられて驚いたんだ。心配になって様子を見に行こうかとも思ったけど、具合が悪いのに押し掛けるのも悪いかと思い直して止めにした。
でも結局、その時うっかり教室に置いてきた鞄の中から体操服が消えて、僕は次の授業をさぼって渚くんに会いに行った。
その日の夕方、渚くんは訓練の前に体調が悪いと言い出してネルフを早退し、そして次の日から学校に来なくなった。

結局僕が渚くんと学校に通ったのはたったの9日間。
そして今日はそれから更に9日後。
日曜日。学校も訓練も休みの日。一日フリーの休日だ。
僕は今、ネルフ居住棟内の渚くんの部屋の前で、手にした赤い紙袋の中を覗きながら、片手で携帯電話を弄っている。

――――――――………

携帯画面に出ている渚カヲルの文字が点滅し、やがてそれが留守番電話の文字に変わるのを見届けてから、僕は終話ボタンを押した。

「やっぱ出ないか……」

今朝からずっと留守電だ。寝てるのか、それとも出かけているのかな。
携帯の時計は11時32分を表示している。

「早過ぎるってことはないよな」

いつかまだ二人目だった綾波の部屋に行った時の記憶が蘇る。
やっぱりアポなしの訪問は迷惑かな。寝てたり、用事してたら悪いかも。

「……でも折角ここまで来たんだし」

携帯電話を閉じて、紙袋の中のプリントを指でめくって枚数を確認する。
1、2、3。ちゃんと3枚揃ってる。
うん……。

「よっし!」

僕は大きく息を吸い込んだ。
別にいいよな、このプリント渡すだけなんだし。もし留守だったらメール入れて部屋の前にでも置いて帰ろう。
閉じた携帯をズボンの後ろポケットに収めると、ドアの横のインターホンに指を当てる。ちょっとだけ考えて、一度止めて、それから「えい」とボタンを押した。

――ビー

ビーと鳴った呼び出し音に、人の出て来る気配はなかった。
僕はもう一度ボタンを押し、更にもう一回押し、それからもう一度押そうとして……止めにした。やっぱりいないのかな。
仕方ないので、諦めて頭の中でメールの文面を考える。”渚くんへ。学校からのプリントがあるのでドアの前に置いてます”

「んー……」

届け物をこんな所に置いてて大丈夫かな、と思う。誰かにゴミと間違われて回収されないだろうか。ちゃんと手渡したかったけど、いないしな。
もし彼の手に届かなかったら、困るな。

「やっぱり出直そうかな」

正直、僕は少しがっかりしていた。本当は届け物は口実で、半分遊びに来たつもりでいたんだ。
顔、見たかったな。話もしたかった。
ここ最近あんまり話をしてないから。
別に、特に用事があるってわけじゃないんだけど……。
なんて考えていると。

――ガタガタッ

ドアの向こうから何か大きな音がした。それからカチッとロックの外れる音がして、「え?」と思うのと同時に、僕の前のスライド式ドアはパシュ!と音を立てて勢い良く開いた。

「わ!」
「え、あれ?」
「渚くん!」
「え、うそ」

思わず2、3歩下がってしまった。
開いたドアの向こうには、白いTシャツにグレーのズボン、髪の毛ぐちゃぐちゃで眼を丸くする、渚くんが立っていた。
わわ、渚くん!

「渚くん!」
「……シンジ君?」
「う、うっす!」

僕は条件反射的に片手を上げた。
いないと思った部屋の主がいたので驚いて、思わず上げた手のひらをぴらぴらと振る。

「こ、コンニチハ!」

渚くんはぱちくりと眼を瞬かせ「え、なんで」と不思議そうな顔で口元を触る。
僕はもう一度こんにちはと言ってみた。

「こんちは、渚くん」
「こんちは……え?」

渚くんはますます不思議顔。口元に当てた指にはいつかみたいに包帯が巻かれていて、その指で顎を擦りながら眉を寄せる。
寝呆けているのかな。イマイチ状況把握の出来ていない顔だ。

「良かったーいたんだね。ごめん、寝てた?」
「あ?うん」
「起こしちゃったね。突然ごめん」
「いやいいけど……え、でもなんで?」

なんで君がここにいんの?と頭ぼさぼさで怪訝な顔をする。
僕は(渚くんてあんまり寝起き良くないよな)なんて思いながら、耳まで上げていた片手を下ろし、代わりに逆の手に持っていた紙袋を突き出した。

「えっと、はいこれプリント。君のクラスの先生が僕に君んとこ持って行ってくれって」

はい、と手渡す。
渚くんは渡された紙袋をまじまじと眺め、それを両手で受け取りながら僕に視線を戻した。

「これ、わざわざ?」

少し驚いた顔。僕は、彼の両手に挟まれて紙袋が重さを無くしたので、持ち手から指を外して腕を下ろした。

「うん」
「なんでシンジ君が?クラスだって違うのに」
「僕もそう思ったんだけど、渚くんのクラスメイトじゃネルフの施設に入れないから、だってさ」
「あ、そか」

やっと合点がいったのか渚くんは表情を和らげる。寄せていた眉が解かれ、口元が上がって笑顔になる。

(あ……)

その見慣れた笑顔を見て、僕も漸く張っていた緊張の糸が解れた。

「わざわざ届けてくれたんだ」
「うん」
「昨日の訓練の時にでも渡してくれりゃ良かったのに」
「そのつもりだったんだけどうっかり渡すの忘れてて。進路に関する書類らしくて、こういうの早い方がいいのかなと思って」
「そっか、ありがと」

渚くんは納得した顔でヘラと笑い、ドア横の壁に手を掛けて、それに軽く頭を寄せた。
まだ眠そうな目元。
いや、眠たそうと言うより疲れてるのかな。眼の下が少しシワシワしている。
紙袋を引っ掛けている左手の指には、不器用に包帯が巻かれている。
僕はその包帯に眼を向けた。
雑に巻かれた白い包帯には、あちこちに血らしき赤い物が付着している。
……巻いた時に付いたのかな。
指は以前爪を怪我して僕が手当てをし、今は大分治りかかっていたあの中指だ。またどうかしたんだろうか。

「ああ、これ」

僕の視線に気が付いた渚くんが、自分も包帯の指に眼を遣った。

「またちょっと。爪がね」

ぺりっとね。なんて痛そうな事を言う。

「うわーいつだよそれー」
「んー…昨日?」
「大丈夫?気を付けなきゃ」
「うん」

渚くんは平気平気と軽く笑い、何気ない仕草で肘から下を自分の背中の後ろに隠してしまった。

「へいきへいき」

本当に大丈夫かなこいつ。
包帯だって随分適当に巻いてあるし、そもそも痛いと思うんだけど……。

「本当に大丈夫?」
「うん。だいじょーぶ」
「ならいいけど……」
「それよりシンジ君、今日はどうもありがとう。暑いのに悪かったね」

開いたドアの向こうから、ひんやりとしたエアコンの冷気を感じる。
今日の外は薄曇り。気温はそう高くないけど湿度が高くて蒸し暑い。涼しげな室内に意識を向けると、ペットボトルの空容器がいくつも床に転がっているのが見える。
部屋の中は、随分散らかっているみたいだ。

「渚くん」
「ん?」
「あのさ」

寄って行っもていい?そう言おうとして躊躇った。今まで寝てた相手に悪いかな。

「あのー」
「何?」
「あー…」
「?」
「あ、あのさ渚くん。良かったら僕、包帯巻き直してあげようか?」

それっぽい事を言ってみた。

「そのままじゃ指、動かし辛そうだし」

でも渚くんは「いや、いいよいいよ」と言って、怪我してない方の手を横に振った。

「いいよいいよこのくらい。それに僕まだ眠いし、もう一眠りしたいんだ」
「……」

僕の提案はあっけなく断られてしまった。その上微妙に帰れコールまでされてしまった。
そ、か。そうだよな、寝てたの起こしたの僕なんだし。そうか。
……残、念。

「そっか」
「うん。気遣ってもらって悪いね」

そういうわけじゃないんだけどな。

「じゃあね、シンジ君」

ばいばい、と手を振られて振り返して、僕は渚くんに背を向けた。
ばいばい……。
あんまりあっけなくて拍子抜けする。正直、断られない気でいた自分が恥ずかしくなった。
仕方ないので来た道を戻る。
戻ろうとして、立ち止まった。

……?

右手に軽い圧迫。
振り返ると、赤い瞳と眼が合った。
視線を下げると、僕の右手首を掴む渚くんの腕が見えた。

「え……」

どうしたの、と言う前に腕は自由になった。

「え?」
「あは。嘘、冗談。何でもない」

渚くんは、ぱ、と手を上げてひらひらと振る。

「じゃ、ばいばい」
「あ、うん?」

何だろう?
僕はもう一度背を向けて、でも何歩も歩かないうちに、また動けなくなった。
また、掴まれている。腕を。今度は、
痛いくらいに。

「渚?」

振り向くと渚くんは俯いていた。
彼は僕より少し背が高い。俯いていても表情は見える。
渚くんはさっきみたいに笑っていて、でも ”笑って” いなくて。

(……!)

心臓が鳴った。
手首を掴む力が緩んだので、咄嗟に彼の腕を掴み返した。 腕は驚いたように跳ねてそのまま固まる。
胸が騒ぐ。
何だろう。どうしたの?渚。なぎさ?

「渚くん……?」
「……」
「何か、あったの?」

腕を掴んだまま聞くと、渚くんは首を横に振った。

「別に?何も」

唇の端を上げ、俯いて垂れ下がる前髪を左右に揺らす。

「何も?」
「うん、何も」

普通の声。でも嘘だ。じゃあこの手は?
そう言おうと思ったけど、渚くんの手の力はもう完全に抜けていて、今彼の腕を掴んでいるのは僕の方だった。
気のせい?一瞬そう思って直ぐに自分で否定した。
違う。気のせいじゃない。
だってわかる。だってわかるんだ。
だって……。

「あ、あのさ渚くん。やっぱりちょっと……君んち寄って行っていいかな?」

僕は少しどきどきしながらそう言った。きっと拒否されると思ったから、心の中で次の言葉を用意して。
今ここで帰ってしまったら、彼の口からはもう何も聞けない。そんな気がしたから。

「んー、でも来ても何もないよ?僕寝るし」
「いいよ、それでも」
「部屋、散らかってるし」
「そんなの気にしないよ」
「散らかってるよ?」
「気にしないよ」
「汚いよ?」
「気にしない」
「驚くよ?」
「気にしないったら!」
「……」
「……」

………
……

「……そ、そんなに散らかってるの?」
「……ぷ」

渚くんは下を向いたまま「あはは」と笑った。僕もどう反応して良いかわからず、取り敢えず苦笑する。

「あはは、シンジ君て意外と強引なんだね」
「そ、そうかな。へへ」

渚くんにそんな事言われるとは思わなかったけど、彼が笑っているから僕も笑って、そしてまずこの掴んだままの腕をどうしようか考える。
離して大丈夫かな。
急に逃げたり……しないかな。

「あは、シンジ君」
「うん?」
「部屋、本当に散らかってるよ?」
「うん」
「じゃあさ、シンジ君。」

う、ん。

「少しだけ……」

少しだけなら入っていいよ、そう言った渚くんはやはり顔を下げたままだった。
笑い顔の口元と、笑ってないあの眼。僕を見ない……。
僕は掴んでいた腕をそっと離した。渚くんはゆっくりと手を下ろす。
指が、きゅうと丸まるのが見えた。

「じゃ、どーぞ」

彼に促されて中へ入る。ドアを潜る。
聞いてやりたい。そう思った。いつか君が僕の話を聞いてくれたように、君の話を。
そう、思ってた。
そして僕は部屋の中へと入り、そこで。

愕然とした。