「嘘だろ……」

部屋に入った僕は、その場に立ち尽くした。
先に入り、黙ってキッチンへと向かう渚くん。その背を眺め、それから直ぐに部屋の四方に眼を遣りぐるぐると見回す。

「嘘……」

俄かに信じられなくて呆然とする。
渚くんの部屋の中は、目茶苦茶に壊れていた。

入り口の外から見えていた室内は、床に散らかるゴミや衣類の山だった。でも一歩部屋に入ってしまえば、そんなものは問題じゃなかった。
――壁。
部屋を取り囲むコンクリート壁。
キッチンとの境目の石膏ボードの壁。
その壁という壁に無数の亀裂がまるで網を叩き付けたかのように四方八方に入っていた。

「信じられない……」

僕は口元に手を当てた。
信じられない。なんでこんな事になってるんだ……。

ベッドサイドと部屋からキッチンへと続く壁は特に酷かった。ガラスを砕いたような細かいヒビの他、大きな地割れみたいな亀裂が数本、コンクリートや石膏ボードをビキビキに割って入っている。
ベッドの上には欠けたコンクリート片がいくつも落ち、ぐちゃぐちゃに丸まった掛け布団はその埃を被ってうっすらと白く汚れている。
壁から続く天井を見上げるとそこにも同様の亀裂が走っていて、取り付けてある照明器具のカバーはなく、むき出しの蛍光灯が埃っぽい室内を白い光で照らしている。
バリバリに割れた部屋の壁。
埃塗れの床。
散乱したペットボトル。
血の付いた……包帯。
以前僕が泊まった時とはまるで別のような部屋。

「なんで……」

どきんどきんと心臓が鳴った。口元に当てた指が汗ばむ。得も言われぬ不安が僕を襲った。
なんだよ、コレ。
何があったんだよこれ!

「あー悪いね。本当に散らかってて」

ミネラルウォーターをぶら下げて、渚くんがキッチンから戻って来た。
立ったままの僕に「はい」と手渡し、自分は僕が渡した紙袋をベッドの上に置き、それから床のペットボトルの容器を足で蹴って転がして、空いたスペースに腰を下ろした。

「シンジ君も座んなよ」

ベッドを背に、胡坐をかいて僕に言う。
僕は驚きのあまり座ることも出来ず、受け取ったミネラルウォーターのボトルをぶら下げて突っ立っていた。渚くんは床に落ちていたエアコンのリモコンを拾い、弄っている。

「渚くん……これ」

どうしたんだよと聞くと、渚くんは片手でリモコンを操作しながらエアコンを見上げた。

「言ったろ?驚くよって」

ピ、ピ、と音がして、風向きが変わる。寒いくらいに冷えた室内にまた強い冷気が漂う。

「シンジ君寒い?」
「いや……」
「そ。まぁ座ってよ」

こっちを見ずに笑う。僕は妙な胸騒ぎを感じて息苦しくなった。
渚くんは身を乗り出して四つん這いになり、僕の足元の空のペットボトルを手で転がして除けた。カラカラと転がる空のボトル。ラベルは今僕が持っているミネラルウォーターと同じ物だ。

「渚……」
「まぁ座んなってば」

僕は渚くんが空けてくれたスペースに膝を付いた。ベッドを背にする渚くんの斜め向かいに正座をして座る。
渚くんはまたリモコンに眼を落とし、怪我してない方の手で弄んでいる。

「……びっくりした?」

弄びながら言う。

「散らかってるだろ?」

散らかってる?散らかってるだって!?

「散らかってるどころじゃないだろっ!」

僕は思わず声を大きくした。

「な、何だよこれっ。ガス爆発でもしたのかよ!」
「あはは、まさか」
「まさかって、普通じゃないだろこれ!」
「んー、だね」
「いつなんだよ」
「えー?何が?」
「いつからこんなになってんだよっ!」

捲し立てると渚くんは「まあまあ」と言って笑う。僕はそれに苛立って怒鳴った。

「何がまあまあなんだよ!」
「何怒ってんのさ?」
「お、怒ってるんじゃない。聞いてるんだよ」
「あーあ、だから言ったのに。散らかってても気にしないんじゃなかったの?」
「渚!」
「知らないよ。油断してたらこうなってたんだよ」

面倒臭そうな声が返ってくる。油断って……。

「何だよ、油断って」

自分でやったんじゃない、のか?

ふと、学校での事が頭に浮かんだ。
―― ”嫌がらせ”
僕と綾波には確実にある事実。もしかして、彼も?
でもここはネルフだ。一般人は立ち入れない。ネルフに入れるのはネルフの人間だけ。ネルフの職員がパイロットに何かするなんて思えない。
なら誰が?誰が一体こんな事を?渚くんが自分でやったんじゃないのなら、誰が……。

「渚くん」

僕は正座のまま渚くんに向かい身を乗り出した。渚くんはリモコンを弄る手を止めて、僕を見る。

「うんー?」
「だっ、誰にやられたんだよっ」

出来るだけ真剣に言うと、彼はまた口角を上げた。

「えー?」
「この部屋だよ。誰かに何かされたんだろ?誰なんだよ」
「シンジ君、」
「相手わかってるのか?その前にちゃんと上の人に届けたのか?君のことだから言ってないんだろ?」
「……」
「君、前に学校で言ってくれたよな。僕に嫌がらせをする奴、相手を見つけて殴ってやるって。僕だって同じだよ。君にこんな事する奴殴ってやるよ。だから渚、」 だから。

そこで一旦言葉を区切った。渚くんはもう笑っていない。ただ僕をじっと見ている。
リモコンを持つのは、さっき僕の腕を痛いぐらいに掴んだ右手。
僕は彼に届くように、出来るだけゆっくりと続きの言葉を言った。

「だからもう、ちゃんと話をしてよ。渚くん」

本当は何か言いたい事があるんだろう?

「……ふぅん」

だけど渚くんは、小さくそう呟いただけだった。その後は無言になり、顔を横に向けて部屋の隅を見ている。
僕は、胸の中に酷く情けない気持ちが湧き上がるのを感じた。
何かあるのに。絶対、何かあるのに……!

――『あの子は、謎すぎるのよ』――

以前ミサトさんが言った言葉を思い出した。
……謎?謎ってなんだ?
これも、この部屋も、ミサトさんの言う謎のせい?
突然学校に来なくなったのも、時々変な顔で笑うのも、全部その謎のせいなの?
言えない秘密?それとも言わない秘密?
言えないんじゃなくて、僕には言いたくないだけ?
悲しさが込み上げて下を向いた。またはぐらかされるんだろうな。そう思って胸が痛くなる。
僕はいつも、友達のピンチに何もしてやる事が出来ない。トウジだって、アスカだって、綾波だって……僕は何もしてやる事が出来なかった。
今だってそうだ
手を伸ばされて、強引に部屋に押し掛けても、話一つ聞いてやることが出来ないんだ……。
本気で情けなくなり、正座の上の拳を強く握った。

「……ほうたい」

……?

「包帯、巻き直してくれるって、本当?」

ふと、渚くんが口を開いた。

「さっき言ったよね」

顔を上げると、彼は部屋の隅を見たまま右手で左手の手首を押さえている。

「巻き直してくれんの?」
「うっ、うん!」
「そう。じゃあさ、頼んでいい?」

巻き直してよ。そう言ってこっちに向けた顔には微かに笑顔が戻っていた。

「りょ、了解!」

僕は勢い良く立ち上がると、散らかる部屋の中をきょろきょろと見回した。
……まだ、あるかも知れない。聞くチャンス。そう思いながら包帯を探す。

「えっと」
「こっちだよ。テーブルの上」

渚くんも立ち上がり、部屋の隅に押し遣られたセンターテーブルに向かったので僕も続いた。
テーブルの上にいくつも放置してあるビニール袋の中から、包帯と消毒薬の入った一つを渡されて受け取る。

「これ、僕が前に持って来たやつ?」
「うん、そう」

まだ残ってたのか。包帯はあと3分の1程残っている。

「じゃあ、指出して」
「ラジャ」

その場に座り込んで包帯を替えてやることにした。渚くんはまた胡坐で、僕はまた正座で、向かい合って座る。

「取るよー」

差し出された左手からぐちゃぐちゃ巻きの包帯を外す。こうやって目の前で見てみると、本当に適当に縛ってあるだけだ。

「ゆるゆるだね」
「血が止まっときゃいいかと思って」

包帯を外すと、血の固まった指の先端が露になった。 一部は生えていたはずの中指の爪は、今はまた完全に無い。
(うわ……)
爪の ”跡地” には赤黒い血液が付着したまま乾いていて、覆うモノのない指先の皮膚は見るからに薄く痛そうで、僕はその痛みを想像して思わず顔をしかめてしまった。

「痛そう~~」
「うん」

両手で彼の左手を包んでまじまじと眺めると、渚くんは爪の無い指をくい、と内側に折った。
僕は彼の指の下に自分の手を滑り込ませて指をピンとさせ、片手で消毒薬のキャップを外してそっと傷口に当てた。

「ちょっと染みるよ」
「うん」
「ちょっと痛いかも」
「うん」

僕は指先に集中し、指先だけを見ながら消毒をした。
前の時は大騒ぎしていた渚くん。今日は何も言わない。
固まった血液に消毒液を垂らすと、凝固は弛んで水分に溶けた。血液混じりの赤い雫が指先に溜まる。傷に触らないように傍にあったティッシュで拭き取り、もう一度消毒液を塗る。

「一度水で洗った方がいいかも」
「いいよこのままで」

言っても聞かないんだろうな。

「渚くん、染みてない?」
「シミテルよ」
「痛い?」
「痛いよ」
「ご、ごめんねっ」
「なんでシンジ君が謝んのさ」
「なんとなく……」
「変なの。手当てしてくれてるのは君で痛いのは僕だろ。謝る必要はないし、痛そうな顔をする理由もない」

またおかしなことを言ってるな。

「変じゃないよ。普通相手が痛かったら『痛そうだな』って思うんだよ。だから痛くしてごめんってこと。それにこういうのって必要があって思うもんじゃないよ」

消毒薬を置いて包帯を取る。端を少しだけ切り三つ折りにし、ガーゼ代わりに傷口に当て、その上を包帯で巻く。

「前にも言ったろ?気持ちはうつるんだって。実際痛くなくても相手が痛そうなら僕も痛い気がするんだよ。これって普通のことで変なことじゃないよ」
「……」
「心配してるんだよ。わかるだろ?」
「……」
「待ってね。もうすぐ終わるから。……よし、はい出来た。いいよ」

巻き付けた包帯をテープで固定して顔を上げた。渚くんはじっと自分の指先を見ている。
僕は彼の手から自分の手を離し、残りの包帯と消毒薬と固定用のテープを元のビニール袋に入れた。

「……気持ち、ねぇ」

袋を縛っていると、呟く声がした。

「……気持ちがうつるなんてさ。酷く厄介だよね」

渚くんは包帯を巻いた方の手首を逆の手で掴み、それをじっと見たまま吐き捨てるように言う。

「面倒臭いよね。冗談じゃない」
「渚くん?」
「君はよく平気だよね。僕も最初は面白いと思ったけど、考えてみれば気味が悪い。他人の感情に振り回されるなんてさ。ぞっとするよ」

口調に刺が交じる。見ると左手首を掴んでいる右手の爪が、皮膚に強くめり込んでいる。

「お、おい!何してるんだよ!」

僕は持っていたビニール袋を投げ出して、慌てて彼の右手を掴んだ。
手首から爪を引き離すと、それはあっさりと離れる。離れると同時に渚くんは顔を上げた。

「シンジ君」

赤い眼で射ぬくように僕を見ながら、唇が一度閉じた。
そしてもう一度開かれる。
“しんじくん”

「話を聞いてくれるって言ったよね」

……!

「聞いてくれるの?」

唇は笑みの形にはならなかった。

僕は、頷いた。