「君は、自慰をしたことがある?」
唐突に言われ、僕は思考が停止した。
「……は?」
「自慰だよ、自慰。英語で言うところのマスターベーション。君はそれ、したことがある?」
――は?
「え、」
「基本的に人間の雄はするもんなんだろ?ならやっぱり君もすんの?君にも当然生殖の欲求があるんだろ?」
「な」
「それともまだ君はそこまで成熟してない?体が精通まで迎えてない?どうなの、シンジ君」
「な、な、な、」
な、何ーーー!?
!!!???
そこまで言われて漸く頭が回りだした。
な、何?なんだ?なんで急にそういう話になるんだ!?
「なっ、なぎさくんっ!」
「答えてよ」
こ、答えてよって。
「なんでそんな話になるんだよ!」
「聞いてくれるんじゃなかったの?なら答えてよ」
「いっ、意味わかんないよ!」
「なんでさ。自慰の意味ぐらい知ってるだろ。性教育ぐらい受けただろ。わからないはずがない」
「そ、そのわからないじゃなくて!」
その意味ならわかるんだけど。
「だったら教えてよ。君も、アレをすんの?」
突然変なことを言われて僕は耳まで熱くなった。
な、なんだそれ。自慰とか、するとかしないとか、今する話じゃないだろ。それとも本当に猥談がしたかったのか?
からかってるのかと思い渚くんを見るけど、彼の赤い眼はにこりともせず僕を見ている。
(う……)
一気に居心地が悪くなり、正座を崩して後ろに下がった。飲んでないペットボトルに腕が当たり、ボトンと倒れて音を立てる。
「答えてくんないの?」
「し、質問の意味がわからないよ」
彼の視線から精一杯眼を逸らして言い返す。
「それって……今からする君の話と関係あるの?」
あるとは思えない。だけど視界の端で渚くんが頷くのが見えた。
「話を聞いてくれるんだろ。なら答えてよ。逃げるな」
「うっ!」
逃げるなと言われ、余計耳の端が熱くなった。
そうだ。聞きたいと言ったのは僕だ。この部屋に入ったのも僕。
ボロボロの室内。怪我をしてる渚くん。
理由を知りたいのは……僕。
(…く、そ)
僕は目を逸らしたままどうにか頷いた。途端に渚くんの「へえ」と言う声がする。冷めた声でそうなんだと言われ、やはりからかわれている気分になる。
「へぇ、やっぱりするんだ」
やっぱりってなんだよ。男なら……する、だろ。たぶん。
気まずい思いに耐えていると、渚くんは更に続ける。
「ねぇ、それって気持ちいい?」
「なっ」
「気持ち悪くない?」
「何言ってんだよっ」
「生殖行為の真似事をさ、自分でして気持ち悪くない?」
「もういい加減に、」
「僕は気持ち悪かったよ。吐き気がした。ねぇシンジ君、君ってさ、一人でする時やっぱり――」
「死んだファーストのこと考えてんの?」
一気に、全身に血が回った。
「馬鹿なこと言うな!」
僕は顔を上げて怒鳴った。
「なんで綾波が出て来るんだよ!」
「だって好きだったんだろう?」
渚くんは淡々と言う。
「シンジ君、死んだファーストの事好きだったじゃないか」
「何を」
「だから当然アレの時はファーストの事考えてるんだろう?考えてるよね。だって普通セックスは好きな人とやるもんなんだろう?自慰はセックスの疑似なんだから、その相手なら当然ファーストだ」
「いい加減にしろよ!」
思わず床を叩く。
「するとかしないとか、そんなの綾波に、仲間に対して言うことじゃないだろ!」
「なんでさ。君の空想なんてファーストは知る由もない。言わなきゃ誰にもわかんないだろ。それに君のファーストはもう “死んでる” 」
「!」
わかりっこないよ。そう言い放つ渚くんの声は、ひどく冷たいものだった。
「……!?」
僕はこの部屋に入った時と同じ不安に襲われた。
なんだ、こいつ。
誰だ、こいつ。
こんなにあっさり綾波を『死んだ』と言えるなんて。
今の渚くんの眼は初めて会った頃みたいな冷たい眼。部屋も、彼自身も、僕の知らない何かみたいだ。
「……渚、どうしたんだよ」
「なにが?」
「なんでそんなにイライラしてるんだよ」
赤い眼が煙たそうに細められる。
「別に?苛々なんてしてないよ」
嘘だ。
「それよりねぇ、質問に答えてよ」
「……」
「もしかしてファーストに遠慮してんの?心配しなくても君のファーストは君を庇って死んだんだ。君が何をしても、たとえ自慰をしててもバレないから安心しなよ」
「綾波は死んでなんかいない」
また怒鳴りつけたい気持ちを抑えて言う。
「綾波は、生きてる。学校にも訓練にも一緒に行ってる。渚くんだって知ってるだろ?」
しかしその言葉は直ぐに苛々した声に否定された。
「今のファーストは君の知ってるファーストじゃないよ。それこそ君が知ってるだろ」
「綾波は綾波だよ。記憶や体の一部が違っても、どんな彼女だって綾波には違いない」
確かに前とは違うけど、これが今の僕の本心だ。
綾波は生きてる。だって笑ってくれるようにだってなったんだ。
しかし渚くんからは、変わらず否定の言葉が返される。
「違うね」
「違わないよ」
「違う」
「なんでだよ!」
「だって彼女には心がない。あったとしても新しい心だ。君のことを好きじゃない。君のことを好きだったのは死んだファーストの心だけ。もっとも、今のファーストも君の事を気にはなっているらしいけどね」
もっとも、の部分で声を大きくし、左手を自分の胸に当てる。
「ファーストは学校にも行ってんだろ?それで?それで何か思い出したって?何も思い出さないだろ?君のファーストはもういない。見えるとこにはね。いるとしたらそれは君の勝手な頭の中か、それとも――」 「ここ、か」
そう言って、白いTシャツを掴んだ。
「……どういうこと?」
「……」
「それ、どういう事だよ」
「……」
「渚くん、君何か勘違いをしてるよ。僕が綾波を好きだとか綾波が僕を好きだとか。君はそう思ってるのかも知れないけど、僕達はそんなんじゃない。大体なんでこんな話をしてるんだよ。君の話じゃなかったのかよ」
こんな話をする為に僕はここに来たわけじゃないのに。
「僕の話?」
「そうだよ」
「これだって僕の話だ」
「どこがだよ!」
「全部だよ。自慰の話も、ファーストの話も “僕の話” だ」
「そういう意味じゃないよ!」
「僕の話だよ。君がファーストを好きなのも、ファーストが君を好きなのも、全部僕の、僕の話だ!」
「渚、」
「シンジ君、僕前に言ったよね。前の使徒と戦った時ファーストの思念が流れ込んで来たって。あの時の心は今どこにあると思う?君のことを死ぬ程好きだった心は、今どこにあると思うんだよ。ねぇシンジ君!」
突然彼の手が僕の肩を掴んだ。ギリ、と骨ごと圧迫されて思わず身を引く。
「痛っ!」
声を上げると痛みは直ぐに消えた。代わりに彼は僕のシャツを掴む。
「っ!」
「ねぇ」
左手で自分の胸を、右手で僕のシャツを掴み渚くんは僕を見る。縋るような、泣きそうな眼。
「どこにあると思う?ファーストの心」
――ドクン
体が強る。
何かを思い出しかける。
なんだろうこれ。
彼のこの表情。これってどこかで?
綾波の心。どこに、あるか。
それは。
それは……。
「それは僕の中だよシンジ君。死んだファーストの心は、今僕が持っている」
「!?」
「あの日、ファーストと繋がった僕は彼女から感情を貰ったんだ。貰った感情は僕のものになった。シンジ君、僕はね、僕はこの前、」
――『君ノコト、考エルト』
「僕はこの前初めて自慰をしたんだ。君のことを考えてした」
……!
「僕は、君が好きなんだ。シンジ君」
僕は消してしまっていた “あの日” を思い出した。逃げ出したこの部屋を思い出した。 彼の眼はあの日と同じ。あの日の、揺れるあの赤と同じ。
「君が好きだ」
嘘、だ。
視界がぐらりと揺れた。