「返して」
「え?」

カヲルはチリリと表情を歪めた。
何?こいつ。今何て言った?

「何言ってんの?」
「返してって言ったの」
「馬鹿じゃない?」

はん!と笑った。意味がわからないね、と。

セカンドチルドレンの眠る病室前。ネルフ施設内の無機質な通路に白い二人は対峙していた。
色素の薄い透ける肌。血液を思わせる赤い眼のチルドレン。
渚カヲルと、綾波レイ。
二人は僅か一歩の距離に向き合い、互いに互いの赤を睨みつけていた。

「返すって何さ?僕は君に何も借りた覚えはないけど?」

カヲルは口元に笑みを浮かべ、しかし憎々しげに顎を上げてレイを見据えた。無表情な少女。しかしその眼は確実にカヲルの最奥を捕らえていた。

「あなたが言ったのよ。私のものだったって言ったもの」
「ちっ」

カヲルは舌打ちすると、灰色の前髪を軽く揺らして横を向いた。

(こいつ……)

ぎりぎりと胸の奥に不快感が湧いてくる。それはかつてカヲルが感じたことのない不快感だった。

「返して」
「嫌だね。コレはもう僕のだよ」

借りたんじゃない、 ”貰った” のさ。そう言ってまた口元で笑う。
レイは相変わらずの表情だ。

「君ってまるで人形だね」
「人形じゃないわ」
「そう?」
「返して」
「なんで?」
「私のものだわ」
「違うね。僕のものさ」

再び顎を上げてレイを上から捕らえる。胸が熱い。

「確かにコレはかつて君のものだったのかも知れない」

右手で自分の喉元を押さえる。

「でも今は僕のものになったのさ。君の分は無いよ」

首筋を滑らせて胸元に下ろす。カヲルはぐしゃりとシャツの胸元を握った。

「残念だったね」

クク、とのどを鳴らし、カヲルは胸を掴んだまま前に出た。二人を隔てる距離が縮み、顔を突き合わせる形になる。更に顔を寄せる。

「ねえ?どうしたのさ?急に」
「あなたが言ったのよ。あなたのソレは」
「ねえ」
「私のものだったと」
「君」
「あなたが言ったの」
「煩いよ」

唇と唇が触れる程の距離で、カヲルは止まった。

「それ以上言ったら舌を噛むよ」
「返して」

ドン!とカヲルはレイの肩を押した。衝撃でレイはよろめき、前屈みになって肩を押さえた。

「……乱暴ね」
「僕は思い出せと言ったんだ!」

ゆらりと元の姿勢に戻るレイとは逆に、今度はカヲルが数歩下がった。

「忘れてるものを思い出せってね!」

右手を胸から外し、空を斬って振り下ろす。

「さっさと思いだせよ! "好き" を、思い出せよっ!!」

カヲルは叫んでいた。

――ファーストチルドレン。君が僕に教えたんだよ。
好きという事。
命を賭ける程好きだということ。
どろどろして、もやもやして、暖かくて苛々する心の色。 アルミサエルを通して見た、繋がった腕から入ってきた君が ”彼” を想う感情。僕の中に眠る何かを呼び起こした。
……なのに。
忘れてしまったの?ファースト。本当に忘れてしまったのか?
どうして忘れてしまえるんだよ?魂さえ震える程の感情だっただろう!?
量産される肉体。在るべき魂を入れる器。代替の効くただの入れ物。
そんなものに宿る好き?
ならば……
ならばいずれ粉々に弾け飛ぶ肉体の、その先にこの感情は残らないのか?
魂の行き先の定められた運命。与えられた各々のシナリオ。魂は還り、時の輪は回り、滅びゆく者と生き延びる者。
しかしそのどちらも元の肉体を持たないのなら、この感情は消え失せ、他者の無い世界なら、再び産まれる事もなく。 ただ消え失せ、二度とは産まれず、ただ存在し、二度とは自覚せず。
いや、それとも。
人が人を想うという事。もしも生き延びる者がヒトならば、それは再び産まれる感情だろうか。
しかし、もしもそれが〇〇ならば、それはもう二度と……
そんなの。

「面白くない……!」

だからさっさと思い出せ!

感情のままに言葉を吐き出して、カヲルは少し呼吸を荒くした。
眉を寄せ、はぁと息をつき、それからいつの間にか消えていた笑みを作ろうと唇を引いた。

「ファースト」
「あなた……」
「思い出してみせてよ」

レイは肩を押さえていた手を下ろした。そして数歩前に歩み、カヲルとの距離を再び詰めた。

「何を言っているのか、良くわからないわ」
「思い出せるって証明してみせてよ」
「あなたは、どうしていつも変な顔をするの?」
「何?」

カヲルは笑みを消した。

「何?今何の話してるかわかってる?」
「わかってるわ」
「ふざけるなよ」
「ふざけてないわ」
「だったら!」
「あなたは」

レイは腕を上げた。両手でカヲルの両頬を挟み、親指で口元を触った。

「あなた、笑ってもいないのに笑うのね」
「!」
「変な顔だわ」
「この……っ!」

ふい、と離れた。
白い廊下。人の気配のしない白い病室。その前でカヲルはぎりぎりと苛立ちを噛んだ。不快感は苛立ちを通り越して怒りに似ていた。

――この女……っ!

――――――――………

半時前。セカンドチルドレンの眠る病室で、カヲルはレイに声を掛けられた。

「何をしているの?」

別に。と答えアスカから離れた。

「何もしてないよ」
「そう」
「君もお見舞い?」
「……ええ」

レイは静かな声で言うと、アスカの傍らのカヲルの傍まで近付いて来た。

「今日は……碇君は一緒じゃないのね」

その言葉に、カヲルは顔を輝かせた。

「気になるの!?」

気になるの?シンジ君の事気になるの!?
ねぇ、少しは思い出した?好きだったって事思い出した?
君の持っていた ”好き” は今僕の中にある。あの使徒越しに伝わって来たからね。
胸の中がもやもやするよ。面白かったり苛々したりするよ。
君も思い出しなよ。無くなるなんてつまんないだろう?
ねぇ、ファースト。
僕、シンジ君の事が好きなんだよ。
まるでかつての君みたいに。
だからファースト。君も早く思い出しなよ。

「好きってこと思い出しなよ!」

しかしレイは少し首を傾けただけだった。
カヲルは、がっかりした。

「……そう、残念」

つまらなそうに言って、カヲルはアスカのベッドから離れた。そしてもうここには用はないとドアを開けて廊下に出た時、後ろからレイが追って来た。
振り返った。

「あなた、碇君が好きだって言ったわね」
「言ったよ。興味ある?」
「前は私が碇君を好きだったと言ったわ」
「そうだよ」
「使徒を通して伝わったのだとも言ったわ」
「まあね」
「それなら」

――「その気持ちは、私の気持ちだわ」

「……は?」
「碇君を好きなのは、あなたの中にある私の心。あなたのではないわ」
「……あのねぇ、君」
「返して」
「!?」 ”私の気持を” 「返して」

左手のアルミサエルが疼いた。

――『気持ちはね、ヒトに移るんだよ?渚くん』――

――――――――………

無機質な通路で二人は睨み合っていた。カヲルは左腕の内側でぐるぐるとアルミサエルが渦巻くのを感じた。
返せだと?変な顔だと?お前は人形のような顔をしているくせに。
しかし自分を睨む視線は決して人形のそれでなく、確実に自分を捕らえ、意志によって自分に侵入し……
違う!この ”気持ち” は僕のだ!!

「……君の言っている事の方がよっぽどわからないね」

カヲルはレイから離れた。レイが思い出さないのならもうここには用はない。

「大体人の顔見て変はないよね。失礼だろ?」
「……」
「君もかわんないよ。無表情だし」
「……」
「僕達って似てるよね」
「……」
「見た目もね、中身もね。でも違う。全然違う。似てても、同じ物質で出来てても同じ個ではない」

カヲルはレイに背を向けた。
もう行こう。これ以上話してもつまらない。シンジに会いたい。

「悪いけど行くよ。お互いもう話す事もないだろう?」
「待って」

まだ何か用?と、カヲルは顔だけ振り返った。数歩の距離で、やはりレイは同じ顔で見ている。

「何?」
「あなた、さっき何をしていたの?」
「は!」

カヲルは再び前を向いた。やはりもう行こう。
片手を耳の位置まで上げ、ひらひらと振った。

「別に何も」
「あなた、惣流さんに」 ――何をしていたの? 「バイバイ」

赤い視線を後ろに、カヲルは振り返らずに立ち去った。
病棟を抜け、いくつかの通路を抜け、この施設のどこかにいるはずのシンジの元へ。捕まえて、話がしたい。
両手をポケットに入れて歩く。

『変な顔だわ』

人形のような、しかし決して硝子玉ではなかったあの瞳。
一体僕がどんな顔をしてるって言うんだよ。

ぶらぶらと歩いた。散歩のように。シンジを探して。ただ歩いた。
それでもカヲルはこの世に生を受けて初めて。
逃げ出していた。

END.