足音と共に名前を呼ばれた。振り向くと同時に足音は駆け足に変わった。
止まると思ったんだ。でもいつもの顔じゃなくて。

「なぎ、」

名前を口にして初めてあの眼に気付いた。
腕が、シャツが、髪が、眼が。笑ってない口元が。何をされるのかわかった。

「シンジくん……っ!」
「!」

広げた腕を背に回され、体のぶつかる勢いで足はもつれ、ネルフの冷たい通路の壁に背中を強く押しつけられ。
左肩を占領する灰色の髪。驚く程の激しさで僕の体は拘束された。
どくり。
血液の音を立てて僕の意識は斜めに揺れる。

「……くん…っ」
「…っ!」

”あの日” 聞いた掠れた声。僕は……
渚くんの腕の中で、どくどくと混乱した。

――――――――………

「シンジくん……」
「な!?」

ネルフの通路。白いコンクリートの壁を背に、僕は渚くんに抱き締められていた。
渚くんは僕の左肩に顎を乗せ、両腕をきつく背中に回し、白い腕と白いシャツの胸で僕の全身を痛いほどに締め上げていた。

――何……!?

僕は混乱した。何が起きたのかわからなかった。

足音が聞こえ、振り返ると渚くんが走り寄る姿が見えた。
『なぎ、』
渚くん、と言おうとしてその表情に気付いた。
あの日。僕が彼の家から逃げ出したあの日。彼が見せた泣き出しそうな赤い眼が僕の視界に入った。
広げた腕に身を縮めた。
予感。同時に上体を激しく包み込まれ、勢いによろけた体は捻れて通路の壁に背中が付いた。
『…っ!』
衝撃。沸騰。
どくどくと回る血液に僕の思考回路はストップした。眼に映るシャツの肩と灰色の髪の一部が、軋む骨の痛みを自覚させては麻痺させる。

「な…」

言葉が出ない。

「…ぎさ」

苦心して声帯を震わせる。

「ど、うし、たんだよ?渚くんっ!?」

漸く言葉を繋いで顔を向けても、表情は見えずやはり髪の色ばかりが眼に入る。どくりどくりと激しい動揺に血が巡った。
何か…あったんだ……!

「ど、うしたんだよ!?」
「……」
「なあっ!」
「……」
「なぎさっ!」
「今日……」
「!」

耳の近くで低い声がした。いつもとは違う、全然違う真剣な声。

「今日……来なかったね」
「え?」
「……猫のお墓のとこ」
「あ…」
「なん、で?」

渚くんは僕を抱き締めたまま、小さな声で僕に尋ねる。
猫の墓。二人で過ごす日課のような朝。僕は今日、あの場所に行かなかった。

「学校に」
「がっこう?」
「……うん」
「行ったの?」
「うん……」

そうだ。僕は今日学校に行った。いや、行こうとした。やめたけど。

「校門まで行って引き返したんだ。あとは街に」
「……」
「そんな事より!君の方こそどうし」
「なあんだ、そっか!」
「!」

不意に明るい声がして、僕を縛る腕が緩んだ。

「えっ?」

驚く僕の目の前に、唐突にいつもの顔が現れる。
渚くんは後ろに軽くトンと飛んで、僕から一歩離れて真っすぐに立って、赤い眼をにこりと緩ませて「あは」と笑った。

「あは!」
「!!?」

な、何だぁ!??

「な!?」
「いや今日君あそこに来なかったからさ、どうしたのかと思って」
「な、な!」
「なんだそっか、学校に行ってたんだ」
「なーー!!」
「ねぇ街では何してたの?一人で暇じゃなかった?僕は暇だったなーやる事無くて。やっぱり一人であんなとこ居てもつまんな」
「渚!くんっ!!」
「ん?何?」

僕はあっけにとられて渚くんを見た。目の前の彼はいつものように笑みを浮かべ、いつものようにいたずらっ子の顔をして首を傾けた。
何だこいつ!?今の、何だよ!?

「どうしたの?シンジ君?」
「どっ、どうしたのじゃないだろ!!」
「顔赤いよ?」
「ば!!何だよ今の!?」
「今のって?」
「今のは今のだろ!!」

渚くんは「んー?」とか言って、さっきまで僕に回していた両手をポケットに突っ込んで、 「何?もしかして驚いた?」 なーーー!!!

僕は一気に血の気が引いた。しかし直後に違う血の気が上がってきて、さっきまでの混乱は違うタイプの混乱にバトンタッチした。
あたりまえだ!

「お、驚いたに決まってるだろ!」
「あは。そう?」
「そう?じゃないよ全く!何かあったのかと思うじゃないか!」
「あは。ごめん」
「何なんだよ、今のっ!」
「あは」

僕の大声にも、渚くんはやはり「あは」と笑っていた。
何だよもう!本当にもうびっくりした!思わず変な汗かいたじゃないか!抱き締められた事もそうだけど、それ以上にあの顔に。揺れるあの赤い眼に。
普通に……泣くかと思ったし。
普通に……心配したじゃないか……。
ばか、やろう。
それでも僕は、その笑顔に少し安心した。
僕を驚かせた張本人はまだ首を傾げて笑っている。漸く落ち着いた頭で見てみると、渚くんはポケットに手を入れたまま時々眼を細めながら笑っている。
笑って……いるよな? なぎさ?

「何だったんだよ今の」
「あはは、まぁまぁ」
「冗談?」
「まあね」

ならいいけど……。

「な、何かあったんならっ、話せよっ」
「えー?何かって?」
「何かは何かだよっ」
「例えば?」
「その……悩み、とか?」

言って僕は少し照れた。こんなこという柄じゃないかな。それでもやっぱり、あんな顔見せられたら。
渚くんは相変わらずの表情で「あは、悩み?」なんて言ってるけど。

――『あの子は……謎すぎるのよ』

ミサトさんの言葉をそのまま受け取るなら、彼には何か秘密があるのだろう。だけどミサトさんの言葉がなくても今は。

「あは」

渚くんの笑い顔を見て、僕は何となくわかった。
きっと彼は何か隠している。今だってこうして笑っているけど、あの表情は見間違いなんかじゃない。
揺れる赤い眼。
痛い程抱かれた肩。
震える声。
本当は何が言いたいの?何と言おうとしたの?
渚、僕には……言えない事、かな。
聞いてはやれない事かな……。

僕は少し考えて、未だ背を付けたままだった通路の壁から体を離した。
そして首をコキコキやって、両手を後ろにうーんとやって、それからわざとらしく渚くんの真横に移動して、 「うわ!?」 ばんっ!と背中を叩いた。

「わかった?」
「いたた。何が?」
「だから悩み。悩みじゃなくても愚痴でも何でも。話したいこと!」
「あ、うん」
「聞くからなって!」
「あ、…うん」
「からな!」

からな!渚!

渚くんはもう一度「うん」と言って、少しだけ眼を細めて笑った。口角は上がってて口元はちゃんと笑顔で、だけどそれだけでその顔はとても頼りなげなものに見えた。

「あは。どうも」

そして彼は少し頭を下げ、さっき顎を乗せていた僕の左肩に軽く額を当てて、でも直ぐに離れて……。 「あは」 また笑った。

――――――――………

その後、僕達はいつものように訓練に向かった。
二人して更衣室でプラグスーツに着替える。着替えながら渚くんは、思い出したように言った。

「ねえさっきファーストがさ、僕の顔見て変な顔って言ったんだよね」
「え゙」

あ、綾波が!?

「き、君の顔見て!?」
「うん」
「嘘だろ?」
「嘘じゃないよ。あなたは変な顔してるとか、不細工とか、ニンニクラーメンチャーシュー抜きとか」
「……」

後半は渚くんの付け足しだろう。でも意外だな、綾波が。そもそも渚くんと綾波の組み合わせっていうのが意外な気がするけど。

「何でまた急にそんな。君、綾波に何かしたんだろ」
「失礼な。何もしてないよ」

渚くんは脱いだ服を適当にロッカーに放りこんで、プラグスーツの腕のスイッチを押した。ぷしゅ、と音を立てて体にスーツが張り付く。
どっかりと長椅子に腰を下ろした。

「僕、そんな変な顔?」

全然気にしてなさそうな口調で言って、渚くんは足を組んだ。
別に変な顔じゃないよな。思いながら僕も手首のスイッチを押した。

「何だろうな。君、顔だけは悪くないのにね」
「顔だけはって何さ……」
「あ!もしかしてさっきのアレって、ソレ?」
「え?ドレ?」
「や、だからアレ。」
「ドレ?」
「あー…」

僕はさっきの渚くんの顔を思い出した。
変な顔?顔?変な?
……顔、じゃないのかもしれないな。もしかしたらさっきの。
表情、とか。

「別に変な顔じゃないよ」
「そう?」
「うん。僕よりは良いと思うよ」
「基準がシンジ君か」
「なにぃ!!?」
「あはは、嘘嘘冗談」

渚くんは組んだ足の上に頬杖を付いた。

「あはは。ごめん」
「もう!人がフォロー入れてやってんのに!君の顔を誉めてやってるんだから素直に感謝しろよ!」
「だよね。僕って結構美少年だよね」
「そこまで言ってないよ」
「まぁシンジ君もそれ程悪くないよ」
「言ってろ」
「あはは」

渚くんは頬杖の上の小綺麗な顔を自分の手の平で揺すりながら冗談を言う。時折下を向いたり、僕を見たり、眼を細めたり。そしていつも以上によく笑う。
僕もしばらくその冗談に付き合った。

ああ、綾波が言ったのは。
この ”顔” だ。
そんな気がした。

その日のそれからはいつも通りだった。
訓練の間、僕は渚くんの言葉が気になって綾波の方をちらちら見てみた。綾波も相変わらずいつもの綾波だった。
”あれ” から ”三人目” の綾波とはあまり話をしていない。僕との事は一部忘れてしまっているみたいだし、僕の方も何となく話し辛くて。必要な事は喋るけど、その程度の関係。
時々、あの何人ものアヤナミを思い出す。
まだ少し……気にしている。本当は綾波のせいじゃないのにな。
でもその綾波が、渚くんの顔の話をするなんて。意外だ。
綾波とは途中何度か目が合った(僕が見ていたからなんだけど)
渚くんと同じ、赤い眼。
初めて出会った頃のような感情の読めない綾波の顔。
綾波もまた、何かを抱えているんだろうか。渚くんが笑ってばかりで心の中を隠しているように。見えないだけで。
そういうところは二人よく似ている。
僕には話してくれないところも。
よく似ている。

――――――――………

その日はそうして終わった。
渚くんとはそのままネルフで別れ(最後にもう一度背中をバンバン叩いておいた)、僕は一人でマンションに戻った。
食事を済ませ、部屋で一人音楽を聞いていると、携帯電話のメール受信音が鳴った。あいつだ。

『明日学校に行くなら黄門で』

「……ぷ」

校門が水戸黄門だ。
僕は耳にしていたイヤホンを外し、ベッドを背に床に座って考えた。
学校、か。
今日は行けなかった。明日は……どうなんだろ。僕だけの問題だとわかっているけど、隣にあいつが居たら。いてくれたら。

「そんなのって、ずるいのかな」

でも僕は少し考えた末、結局メールを打つ事にした。

『じゃあ校門で』

誤字は訂正しておいた。
しばらくすると『ラジャ(ーУー)』と返って来て、そのヘタクソな顔文字に思わず笑った。

「ははっ、どんな顔だよこれ」

『おやすみ』と返した。

送信画面を見ながら、僕は今日の彼を思い出す。
笑うあいつ。泣きそうなあいつ。多分どれも本当のあいつだ。本当はきっと別の事が言いたかったんだ。
そう思いながらもう一度メールを開いた。
渚くんの顔文字はよく見ると笑っているようないないような ”変な顔” 。時々見せる掴めない顔に少しだけ似ている。

「……力、強かったな」

苦しげな声が耳に残っている。震える腕に震えた僕の心臓。
渚くんの顔文字は、当り前だけど表情を変えない。だけどこれがもし、もし『(;У;)』こんなだったりしたなら……。
僕は、明日はやはり学校をさぼってどこかに遊びに行こう、なんて。
言っていたかもしれない。

END.