この建物『海洋環境研究所』にはプールと呼ばれる場所がある。
元々ここは造船所だったらしい。サードインパクトで多くの沿岸部が破壊された中、奇跡的に残った造船所を買い取り、大幅に増改築して研究施設に造り替えたものだ。
造船所には造った船を海に降ろすための場所があり、ここ海洋環境研究所ではその湾のような場所を建物内に引き込んでいる。その場所を僕達はプールと呼んでいた。
綾波はプールの中に住んでいる。
「綾波」
「こんにちは、碇君」
プールでは綾波がいつものように上半身だけを海面に出して浮いていた。
「お仕事、今日はお昼からなのね」
「うん、午前中はマヤさんのところでスクリーンしてもらってたんだ。血を4本も抜かれたよ」
「そう。何かあった?」
「僕じゃなくてアスカがね。ええと……たぶん本人から何か言ってくると思うよ」
さすがに僕の口からアスカの身体の話をするのは気が引けるな。僕はプールサイドを歩いて昇降橋に乗った。
このプールというのは、25メートル四方の室内にある港のようなものだと思ってくれたらいい。
プールの中央には昇降可能な橋が架かっていて、それを上下させることにより、僕達は潮の満ち引きで変わる海面のスレスレまで下りることが出来る。
つまり、海に浮かんでいる綾波のすぐ近くまで寄ることができるんだ。
「ところで綾波、何か見せたいものがあるって聞いたんだけど」
「ええ、これ」
綾波が指で押さえたのは鎖骨の辺りだった。見ると白いビキニの胸元に、黒いラメ(?)で蝶(?)の模様が描いてあった。
「わ、これどうしたの?」
「昨日の帰りにアスカちゃんが」
「えっアスカが?」
「ええ、あんた馬鹿の一つ覚えみたいに同じ格好なんだから少しはお洒落しなさいよ、って」
へえ。アスカらしいな。
「どう?」
「うん、良く似合ってるよ。可愛い」
「良かった」
「これどうやったの?」
「貼ってるの。タトゥーシールって言うみたい」
胸元のシールは室内灯を反射してキラキラしている。マヤさんが言ってたのはこれだったんだな。
僕は昇降橋の上にあぐらをかいた。海面の綾波との距離が近くなって、綾波が嬉しそうにしている顔も近くなった。
「綾波、調子はどう?」
「いつも通り。また少し太ったみたいだけど」
「あはは、綾波はスリムだよ」
「アスカちゃんは大丈夫?」
「うん、たぶん悪いことじゃないと思う。まだ検査をしてる途中なんだ」
「そう。碇君は?」
「僕は君達よりいつも通りだよ。今は血を抜かれたばかりでフラフラだけどね」
僕は僕の冗談にニコニコしている綾波の下半身を見た。
サードインパクト以降成長の止まっている僕達にとって、体の変化は重要だ。だから今日のアスカの変化は重大ニュース。そして綾波の『太った』も。
昇降橋の上から海中を覗くと、肌色の巨大な球体が見える。球体はプールの中にゆらゆらと浮いていて、その一部は綾波の上半身と繋がっている。
フラスコ、と言えばわかるだろうか。
直径10メートルもの球体の上にちょこんと人の上半身が付いている。足はない。
『太った』というのは球体が大きくなったということ。綾波本人が言うのだから間違いないのだろう。
――また、大きくなったのか。
これが綾波が海から上がれない理由。今の綾波はそんな姿をしていた。
「碇君、今日はお話はいい」
「え、いいの?」
「ええ、今日はいい。ありがとう」
「綾波がそう言うならいいけど……」
「お仕事頑張って」
「うん」
「碇君、毎日お話してくれてありがとう。私、碇君に陸の話を聞くのが楽しみだった。アスカちゃんに時々こうしてお洒落してもらうのも」
「綾波?」
「私、少しダイエットする。ダイエットして、私も陸に上がってみたい。もし上手く痩せることが出来たらデートに連れて行ってくれる?碇君とアスカちゃんと私と、三人で」
「えっ、あ綾波!?」
思いがけないことを言われてびっくりした。綾波は楽しそうに笑っている。
最近はよく笑うようになった綾波だけど……ダイエット?デートって……冗談かな?
「えっと……」
「駄目?」
「だっ駄目じゃないよ。そうだね、デート?しようか」
「ありがとう。ダイエットがんばる」
「うん、楽しみにしてるよ」
何だろう。今日の綾波、ちょっと変だな。
アスカの体の変化といい、綾波の冗談(?)といい、今日は朝から驚くことが多い日だ。
僕はずっとニコニコしている綾波に「また来るね」と言ってプールを後にした。頭の端では徐々に大きくなっているプールの中の球体に不安を抱いているのに、デートと言った時の綾波の表情は、やけにリアルな楽しい想像を掻き立てた。
「デート、か」
綾波と僕とアスカの三人で。
本当に出来たら、きっと楽しいだろうな。
「ダブルデートには一人足りないな」
何となくと口に出した言葉に深い意味はなかった。
だけどやっぱり、もう一人。
持ち場に向かいながら空想したデートは、楽しいけれどどこかぽかりと穴が空いていた。だけどそれが何なのか、その時の僕にはわからなかった。
END.