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個の違いは遺伝子が握っている。塩基配列の果てにヒトという個があるのなら、シトと呼ばれる個もまた違う配列の果てなのだろう。
この世には宗教的な魂や霊なんて存在しない。魂とは観測出来ない物質であり、霊とは化学反応の副産物だ。
科学で解明出来ない謎があるのではない。解明出来る程我々の科学が追い付いていないのだ。
我々はあやふやなまま手に入れた魂を、副作用もわからぬまま人形に入れた。敵の塩基配列も解き終わらないままに、希望と信じて過ちを積み上げた。
――『何を願うの?』
我々の願いはただ一つ。
全てを見る目となること。
科学の力で、己の罪すら見通す人類の目(アイン)となることだ。
―――――――……‥
「部長、部長!伊吹部署長!」
「……ん、へっ?はっ!」
穴が空くほどPCモニターを睨んでいたせいで、眉間に嫌な縦皺が寄っている。慌てて顔を上げたマヤだったが、眉間はそこだけファンデーションがよれていた。
「ご、ごめんなさい気が付かなくて。えっと……田中さん、でしたっけ」
「根岸です」
「ねっねぎしさんね!それでええと……」
「お客さんです。対策部の偉い人が第2応接室で」
「偉い人?」
日向くんかな?そうアタリをつけて、マヤはデスクの端から旧式の携帯電話を手に取った。
「ありがとう根岸さん。でもこの部屋は部外者立ち入り禁止よ。表でコールしてくれたら良かったのに」
「コールしました。でも反応がなくてドアを開けたら開いたんでー」
「……そういう時はノックでもいいのよ」
マナーモードの携帯にはいつの間にか日向からの着信が入っている。作業に没頭するあまり気が付かなかったのか。しかし呼び出しのインターフォンまで気が付かないとなると、些か没頭し過ぎたかもしれない。
「表のコール壊れてますよ。ここと、あと東エリアの統計室も。ボロいから取り替えた方がいいですよ」
「……どうも」
どうやら低予算で備え付けた備品の不具合だったらしい。重要研究室がこの様とあればかなりの問題だが、マヤにしてみれば二十歳そこそこの小娘職員の態度の方が問題に思えた。
「じゃあ伝えたんでー」
早足で去っていく根岸を横目に、マヤは研究室を施錠して第2応接室に向かった。
応接室とは言ってもそこは自販機と長椅子が置いてあるだけの8畳程の部屋だ。休憩室に毛が生えた程度のそこに、日向はコーヒーをすすりながら立っていた。
「ようおつかれ。忙しいのに悪いね」
「お疲れさまです。すみません電話気が付かなくて」
並んで長椅子に座ると缶コーヒーを手渡された。言わずとも好みの銘柄を把握している距離感に、マヤは何処と無くほっとした。
「今日はどうしたんです?対策部はお休みですか?」
「まさかまさか。休みなんてないよここんとこ。休日出勤も出来ないくらい休日がない」
「ですよね。うちもです」
「聞いたよ。タイプアスカから使徒が消えたんだって?リリンに戻ったって話だけど」
「さすが情報が速いですね。その通りです」
誰に聞かれて悪いという話ではないが、二人はお互い声を落とした。甘い香りのコーヒーを中心に、内緒話をするように頭を寄せた。
「アスカの体に融合していた使徒の細胞が消滅しました。一週間前、突然にです」
「前触れはなかった?」
「ありません。何度も検査しましたけど間違いありません。今のアスカはヒトです。多分直に成長も再開すると思います。来週の会議で報告するつもりだったんですけど」
「ううーん、ミステリーだなあ」
日向は長椅子の背もたれにもたれて天井を見上げた。マヤにもその気持ちがよくわかった。確かにミステリーだ。
「同化使徒が消えたとなると、タイプアスカに関しては我々対策部のターゲットを外れたってわけか」
「そうなって欲しいです」
「いやそうなるよ。僕がそう判を押すから」
「良かった……」
「アインの対策部は ”敵対生物対策部” だからね。敵対する生物が消えたなら問題ないさ。タイプシンジとタイプリリスは?変化なし?」
「いえ、シンジ君は相変わらず原因不明の成長停止状態ですが、レイは、また……」
「肥大化してるのか。まずいな」
今や直径10メートルを越えるレイの下半身は、アイン及び日本政府にとって大きな不安材料となっていた。球体はあらゆる器材を使っても中を透過出来ず、その体内がどうなっているのかわからない。
4年前人類を赤い海に変えたリリスの再来を人は恐れていた。
「タイプリリスの肥大化が始まって半年。それまで ”ゼロ” だったものがここまで急成長したとなると……これはいよいよ対策部への移送命令も近いな」
「酷いですよ。レイのお陰で使徒やサードインパクトに関する多くの謎がわかったんですよ?リリスの記憶は使徒の持つ知識です。人は使徒に智恵を授けられたっていうのに」
「それはそれ、これはこれなんだろ。元々上層部にはリリスの記憶自体を疑問視する声もある。我々人類を欺くための作り話じゃないかってね」
「私はレイを信じます。対策部にとっては監視対象でも、海洋部にとっては大事な仲間ですから。もちろん、アスカもシンジ君も」
マヤは再会したばかりの頃のレイを思った。
アインが発足して間もない頃、赤い海の中で漂うのを発見した時、レイには下半身が無かった。当時のレイには上半身しかなく、腰から下は腹の周りにゼリー状の粘膜があるだけだった。
その異形化したレイにマヤ達は色々教わった。
使徒のこと。サードインパクトのこと。リリス、アダム、人類補完計画。
レイの言葉はリリスの記憶と呼ばれ、使徒の知識だとされた。その知識欲しさに政府が組織の吸収を持ちかけてきた。
――体の形が変わったから何だというのだ。
今のマヤにとってレイは同士であり友人だった。
「ま、お偉いさんには下っ端の言い分なんか通らんさ。いくらネオネルフ、海洋ネルフなんて言われてても、アインの実態は政府の資金援助がなけりゃ人助けどころじゃない無職の集まりだからね。命令されりゃ従うしかない。表立って逆らうのは得策じゃないよ」
「……ドライですね」
「だからまあこれを見てよ。表立てないから裏から入手したものだけど」
「?」
日向は着ている制服の胸ポケットから小型タブレットを取り出した。
「これって……何かの演習記録ですか?場所は……南極?」
「場所は南極海。演習はそう見せかけてるけど違う。想定自衛隊(※)と国連海軍とのデート記録。二人でこそこそお出かけしてる」
「想自が?初耳です。海軍が絡むなら海洋部にも一報入るはずなのに」
「知られたくないことなんだろ。南極なんて理由もなく行く所じゃない。そこに何度も、表には出ないスケジュールで行ってる」
ハンディサイズのタブレットには、想定自衛隊と国連軍が辿った南極までの航路図、日付と船の数などが表示されている。
(※想定自衛隊……再生後の日本政府がつくった新しい自衛隊。戦略自衛隊は解体され現在は存在しない)
「この怪しい南極デートが始まったのが約半年前。リリスの肥大化が始まったのも丁度その頃。この二つに何か関係があると思う?」
「それは……偶然では?」
「でもその頃、日本政府からうちの対策部に復原弐号機の再起動要請が入っている。これも半年前だ」
「……!」
「偶然にしちゃあ重ってると思わないか?特に弐号機の再起動実験なんてそれまでずっと予算が下りずに焦げ付いてたんだ。それが急に実験してね金なら出すよだもんな。ラッキーだけで済む話ならいいけど」
「……何か裏があるってことですか?」
「まあ俺達下っ端は推測するしか出来ないけどね。けどこっちは昔散々お偉いさんに痛い目見せられたクチだ。警戒ぐらいはさせてもらうさ」
「それでこのデータですか。危ないことしますね」
日向は「よく言われてたよ」と笑いながらタブレットを仕舞った。
マヤの頭には南極に集まる何隻もの船と、爆心地から回収され継ぎはぎだらけの復原弐号機、そしてレイの膨れ上がった下半身がパズルのピースように浮かんだ。しかしそれを当て嵌める型も枠も、これだけの情報では思い付かない。
「……赤木先輩なら何かわかったんでしょうか」
「どうかな。死んだ脳より生きた脳だよ。マヤはどう思う?」
「私は、これだけでは何とも。弐号機の起動実験だけなら万が一を想定したリリスへの抑止力かとも思えるんですけど」
「問題は南極のやつだよなぁ」
「南極に何かあるんでしょうか?まさか、使徒ってことはないですよね?使徒はもうレイ以外いないはずだし」
「違うと思いたいけど、どうだかね。とにかく上はエヴァを再起動させてリリスを近くに置きたがってる。そして対策部にも海洋部にも隠れて何かをしてる。それだけは確かだ」
「そんな……」
「現段階ではあくまでも推測だよ。本当にただの偶然かもしれんし。でももし南極の理由が使徒だったら、今度こそ人類は終わりだな。まあその時はさっさと諦めて、仕事なんか辞めて温泉にでも浸かりに行くよ。君もどう?」
「変なこと言わないでください。加持さんみたいですよ」
睨んでみせたマヤだったが不思議と嫌な気持ちにはならなかった。寧ろその時は自分もそうしようかと思った。
何しろ今はもう使徒に対抗する手段がない。弐号機の再起動実験は失敗続きで、各国の軍も以前程の統一性を保っていない。
サードインパクトから4年、世界はまだ再生を始めたばかりなのだ。
「そいじゃまた何か情報が入れば連絡するよ。シンジ君達によろしく」
すっかり温くなったコーヒーを飲み干して、日向は去って行った。
対策部最高責任者の彼がわざわざ海洋部まで出張って来たのは、あのデータを共有するためか。
――死んだ脳より生きた脳。
今生きて、考える意思を持つ者。
遺体で戻ったリツコやミサトには出来ないこと。
対策部と海洋部、部署は違えど同じアイン上層責任者のマヤと日向の意思は一つの方向を向いていた。その先にはあの赤い海のリリスの言葉が常にある。
――『何を願うの?』
我々の願いはただ一つ。
しかしその前に、まずは壊れたインターフォンを直し、最近入った若い職員に言葉使いを教えること。
休みはまだまだ遠いな、とマヤは思った。
END.