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ダイエットすると言っていた綾波の半身は、2週間後には更に大きくなっていた。
―――――――……‥
「んもーやりにくいわね!もっとこっちに寄りなさいよ!」
「痛い。アスカちゃん痛い」
アスカに髪の毛を引っ張られて綾波が斜めに傾いている。
アスカの手の中のショートヘアーは、その一部を可愛らしく編み込まれて髪飾りを付けられている。それを何個もやろうとするもんだから、昇降橋の上から無理な体勢に引っ張られた綾波は、フラスコ状の上半身を斜めにしたり前屈みにしたり。
僕はプールの壁際に設置された長椅子に座って、膝に乗せた書類を捲りながらそれを眺めていた。
「ほーら可愛くなった」
「本当?」
「このアスカ様がやってやったんだから本当に決まってるでしょ。ほら鏡」
「本当。キレイ」
可愛い三つ編みも4房もぶら下げたら何だか締め縄みたいだが、髪飾りに付いたプラスチックの真珠が気に入ったのか、アスカの手鏡を覗き込んだ綾波は満足そうに微笑んでいる。
女の子ってのはわかんないな。以前はあまり仲が良さそうではなかったこの二人は、再会してからは割と気が合うようで、今ではこうしてお洒落?したり、ガールズトーク?で盛り上がったりしている。(ある日呼び名がアスカちゃんになっていた時は正直仰天した)
僕は綾波に頼まれて毎日他愛もない日常を話しに来てるけど、正直僕と話しているよりアスカとこうしてる時の方が楽しそうと言うか……。
「ほらシンジー!見てー!」
「碇君、どう?」
……ここで微妙な反応でもしようものなら後が怖い。
僕は出来るだけニコニコと笑って手を振った。
「ちょっとーいつまで書類眺めてんのよ。こっちに来てあんたも少しは手伝いなさいよ」
「手伝うって何をだよ。僕は三つ編みなんか出来ないよ」
「手伝うのはリリス女子化計画に決まってるでしょ。ここはもっとこう、とかアドバイスくらいならあんたにも出来るでしょ」
「リ、リリス女子化!?」
僕の知らないところで何かの計画が進んでいる……。こっそり進行する計画ほど恐ろしいものはない、と思うのは僕だけかな。
「あら、今日は三つ編み?可愛く編めてるわね」
「マヤ」
「マヤさん、お疲れさまです」
モバイルPCを片手にマヤさんがやって来た。マヤさんは綾波の側に行って髪を誉めた後、僕の方を向いた。
「シンジ君、その書類は?」
「南日本の帰還者データです。まだ一部ですけど。あっちはまだ居場所が特定されてない人が多くて、データが揃わないんです」
「マーヤー、プールにまで仕事持ち込むこいつになんか言ってやってよー。トロいのよってー」
「そんなこと言わないの。統計班はデータが命なんだから。だけどシンジ君、悪いけど一度中断して来てくれる?三人に話があるの」
「はい?」
何だろう?
書類の束を長椅子に置いて三人の元に向かうと、マヤさんは「ここだけの話だけど」と、いつになく厳しい顔をした。
「皆聞いて。まだ正式決定ではないんだけど、近々レイを敵対生物対策部本部に移送します」
「えっ!?」
「はあ!?どういうこと?」
思わず身を乗り出した僕とアスカをマヤさんは「落ち着いて」と制した。
「上からの命令なの。今までレイは人と共存可能な使徒として海洋部で保護してきたけど、現在の体型変化を危険性があるものと判断されてしまった。危険があるかもしれない以上、対応設備のない海洋部には置いておけない、そう言われてしまったの」
「危険って……綾波は何もしてないですよ」
「そうよ!この子日がな一日ボヘーっと浮いてるか、時々変なことしゃべってるだけじゃない。大体上なんてたまに視察に来て文句言って帰るだけでしょ。この子の何を知ってんのよ」
「それはその通りなんだけど……でも命令が出た以上どうしようもなくて。私も日向くんも粘ったんだけど……レイ、ごめんね」
綾波に謝るマヤさんは心底悲しそうな顔だった。
――綾波が対策部に?
僕の胸の中に小さな波が立った。正直全く考えていなかったわけじゃない。だけどいざそうなると気持ちが追い付かない。
だって対策部は ”敵対生物対策部” だ。そこに移送となれば今までの監視対象扱いでは済まない。完全に”敵”として扱われるということだ。
「納得出来ません。確かに今の綾波は以前の姿とは違いますけど、特に危険な行動を取ったわけでもないのに」
「……シンジ君。シンジ君は地下の巨人を知ってるわよね?」
「!……はい」
「上は今のレイが地下の巨人、つまり巨大化したリリスと同じ姿になろうとしているんじゃないかと考えてるみたいなの」
――!
「レイの肥大化がそのうち全身にも及んで、巨大化してフォースインパクトを引き起こす。上が危惧しているのはそれよ。だから対策部に隔離して常時監視態勢に置こうとしているの」
「そんな!そんなこと聞いたら益々納得なんか出来ませんよ。リリスは単体ではフォースインパクトなんか起こせないはずです。閉じ込める意味がない」
「あたしも反対ー。危険性だったらあたしと使徒が同化してた時の方があったはずでしょ?リリスと使徒の接触こそフォースインパクトじゃなかったの?今になって突然移送を言い出すなんて変よ。マヤ、何か隠してるんじゃないの?」
「アスカ……」
マヤさんは困った顔をして目を伏せている。
マヤさんを責めるのは検討違いだ。マヤさんは僕達元パイロットが円滑に生きる道を探せるように尽力してくれた人だ。
だけどこのまま綾波を対策部に渡したくない。今の綾波は海と繋がって生きている。海から離れて長く生きられるとは思えない。
「マヤさん」
「……ごめんなさい。私がもっとしっかりしてたら良かったんだけど」
「本当に何も隠してないの?」
「実は移送の話自体は以前から出ていたの。でもその時はまだ私達でブロック出来ると思ってた。私もレイがここまで大きくなるとは思っていなかったから……」
「――大丈夫」
それまで黙って話を聞いていた綾波が口を開いた。
「大丈夫。対策部には行かない。私、ダイエットするもの」
綾波?
「私、ダイエットして痩せる。痩せて陸に上がる。問題ありません伊吹部署長」
「あんたねぇ!今更そういう問題じゃないでしょ!大体この前からダイエットするする言ってるくせに痩せるどころか巨大化してるじゃないの。痩せる前にリバウンドしてどうすんのよ!」
「アスカちゃん」
「あんたがそうやってブクブクブクブクでかくなるから危険生物だって思われるのよ。本気で痩せたいならボヘーっと浮いてないで、その辺の海でも泳いでカロリー消費してきなさいよ!」
「ア、アスカさすがにそれは」
「碇君、大丈夫。ありがとうアスカちゃん」
綾波……。
口は悪いけど心配しているらしいアスカの隣で、マヤさんが微妙な顔をしている。僕もたぶん同じような顔だろう。
綾波はしきりに「ダイエット」「痩せる」と言っているが、この巨大な球体がどこまで縮むかなんて想像もつかない。
それにもし以前の姿に戻ったとしても、今の綾波には下半身が無いんだ。
はじめてここに連れてこられた日、プールに浮かぶ半身だけの綾波を見た時は驚愕した。
綾波が生きていたことにも驚いたけど、体半分の姿で話したり泳いだりしていることにも衝撃を受けた。
綾波がもしその姿に戻ったとして、大きくなったり小さくなったりする不安定なリリスを上が放っておいてくれるだろうか。
「綾波、綾波は陸に上がりたいんだよね?」
「ええ」
「本当にその、ダイエット?出来るの?」
「ええ」
本気なのかな……。
「レイ、あなたにの助言には随分助けられてきたわ。だから出来るだけのことはしたい。もし対策部に行くことになっても酷い扱いはしないように最善を尽くすから」
「マヤー、対策部でのこの子の居場所はどうなるの?あっちの本部には海はないでしょ」
「LCLのプールが建設中よ。あそこには弐号機があるから、別に注水路を引いて」
「ふぅん結局格納庫みたいなもんじゃない。牢屋じゃないの」
「……」
暗い空気が立ち込める中、綾波だけが平然としている。
「大丈夫」
その言葉を信じたいけど、現状目の前にいるフラスコの姿を見ると何も言えない。
――このまま見送るだけなのか。
僕の中にどこかで感じたことのある感情が湧き上がってくる。それは無力感のようにも、諦めのようにも感じる。
「……ま、お上の命令じゃどうしようもないわね。レイ、行くまでにちょっとは絞っときなさいよ。向こうのプールに入らないなんてことになったら恥ずかしいわよ」
「大丈夫。きっと痩せるから」
「マヤさん、移送はまだ正式決定じゃないんですよね。決定を遅らせてる何かがあるんですか?」
「日向くんが粘ってくれてるの。次の弐号機の起動実験が終わるまでは待ってくれって」
弐号機か。
「はいはい、私が頑張ればいいんでしょ。でも何度やってもあの弐号機はもう動かないわよ。乗ればわかるわ。そうよねシンジ」
「うん」
「起動実験の結果は問題じゃないの。だからただの時間稼ぎ。もうそのくらいしか出来なくて……」
「それで充分です。それまでに終わりますから。碇君」
「うん?」
「お話、聞かせて」
いつものお話の催促がかかった。
アスカは諦めたように「はいはいお邪魔ね」と言い、マヤさんは「また来るわね」と沈んだ声で言った。
アスカとマヤさんが去った後、プールには僕と綾波だけが残された。僕はいつものように昇降橋の上で胡座をかいて座った。
いつもだったら穏やかに過ごせるこの時間も、今日はさすがにもやもやとした暗いものが胸の中に沈んでいる。
「ええと、今日は何を話そうか」
「海の話」
「いいよ。どこの海がいい?」
「砂浜の海。電車で行った」
「電車で?ああ、あの海」
こんな時にこんなことしていていいのかな。
「綾波はあの話が好きだね」
「ええ。もう一度聞かせて」
「うん」
海の話――
綾波の好きな海の話は、以前僕が行った小さな海岸の話だ。
僕達は学校をさぼって電車に乗り、道に迷いながらその海に着いた。
海では泳いだり砂に埋まったり、コンビニで買った水を分けあって飲んだり。それなりに楽しく過ごして帰りにもう一度電車に乗った。
砂が熱かったこと。潮のにおいがしていたこと。帰りの電車で僕の肩に乗せた髪が、さらさら揺らいでいたことなんかを覚えている。
ずっと海にいる綾波が頻繁に海の話を聞きたがるのを最初は不思議に思っていた。だけどこうして何度も話しているとその理由が何となくわかる。
この話をしていると波の音がする。赤い海とも、アインのプールとも違う、遠い遠い本当の波の音が。
「――で、家に戻ったはいいけど、借りてた水着を洗おうとしたら何故か相手のパンツが入ってて、結局水着じゃなくてトランクス洗ってアイロンまでかけて返したんだ」
「ふふふ」
「これでおしまい、って知ってるよね。こんなので良かった?」
「ええ、とても楽しかった」
「良かった」
「碇君も楽しかった?海」
海。
「うん、楽しかったよ」
「そう」
うん。楽しかった。楽しかった、はずだ。
「お話ありがとう。心配かけてるみたいだけど、私は大丈夫。ダイエットがんばるから」
「うん。僕も出来る限り力になるよ」
「碇君、私が陸に上がってデートする時も、今のデートみたいに楽しんでくれる?」
「それは勿論……って綾波、僕のあれはデートじゃないよ。海には行ったけど、さすがにその、はは」
「デートじゃない?」
「うん。男同士で出かけるのはデートって言わないよ。あれはそうだな、遠出?」
「そう、あれは碇君にはデートではないのね。とても楽しくても、こうやって詳しく覚えてても、碇君にとってはデートではないのね。それなら碇君、碇君にとってのデートって何?」
「?」
「仲良く海に行くのがデートではないなら、碇君にとってのデートって何?いつか私と碇君とアスカちゃんで行くデートを碇君はデートだと思ってくれる?ねえ、いかりくん」
「え……?」
――『ねえ、×××くん』
「誰と行ったの?」
――え?
「海、誰と行ったの?」
誰と?
「碇君、その人の名前、言える?」
名前?その人の名前。名前は……
「えっと……」
「碇君、今日もありがとう。デート楽しみにしてる。お仕事頑張って」
お話の時間は唐突に終わった。
綾波はサヨナラと言い、そして最近では珍しくプールの中に沈んで行った。
―――――――……‥
「碇班長!良かったあ探してたんスよ。これチェックお願い出来ますか?」 「あっすみません。すぐやります」
持ち場戻ると、待ち構えていた職員に書類の束を手渡された。
統計班という帰還者のデータ管理が主な仕事の僕には、一応名ばかりの班長という役職が与えられている。しかし見た目が14歳の僕に威厳なんてものは当然なく、僕の班長としての周りの評価は、雑用から書類チェック、綾波のお話係まで何でもこなす何でも屋。雑用長という扱いだった。
「班長またプールだったんスか?」
「はい、まあ」
「大変スね班長も。リリスのご機嫌取りとかプレッシャー半端ないっしょ?俺は無理だなぁ。リリス顔はそこそこ可愛いけどあれは無理」
僕より5歳は年上の職員にいじられつつ追加書類に目を通す。僕は頭の中で綾波の言葉を反芻していた。
『大丈夫』
『ダイエットするから』
『デートではないのね』
『誰と行ったの?』
『碇君、その人の名前、』
名前。どうして綾波はあんなこと言ったんだろう。何度も話した話なのに、名前なんて綾波も知ってるはずなのに。
「……言えるけどなぁ」
「え、何スか?」
名前は言えるに決まってる。誰と行ったかも覚えてる。ただ綾波が大変な時に、今更名前なんか言う必要がなかっただけ。
忘れてはいない。いない、はずだ。
『ねえ、碇くん』
球体に引き寄せられるように真っ直ぐ海に沈んだ綾波が怖かった。
書類のチェックを済ませて職員達に指示を出し、自分の仕事に戻った。
PCのデータベースと睨めっこする僕の頭の中には、不安と綾波の言葉と波の音が、長い間打ち寄せていた。
END.