高濃度酸素水の注水が始まった。かつては気分の高揚を覚えたこの時間も、今はただ水に浸る感覚があるだけだった。
肺が液体で満たされると自動的に息苦しさはなくなる。陸上で生きるために肺呼吸に進化したのに、わざわざ水を入れて息をするなんて本末転倒のような技術だ。
エヴァに乗ることが誇りだった頃には思いもしなかった冷めた気持ちでアスカは弐号機の深くに意識を向けた。
――『何を願うの?』
「注水完了しました。身体グラフ全て正常値。問題ありません」
「アスカ、お願いね」
「はいはい今やってまーす」
弐号機とのシンクロが上手くいかないことはわかっていた。アスカとシンジで交互に乗って今日で5回目。今までの再起動テストは毎回失敗している。
成功なんてするはずがない、とアスカは思う。
今の弐号機はサードインパクト後の爆心地からバラバラの状態で回収され、復原されたものだ。いくら上手に繋ぎ合わせたところでバラバラ死体が生き返るにはフランケンシュタイン並の奇跡でも起きなければ無理だろう。
それに何よりも今の弐号機にはパイロットを受け入れる為の何かがない。その何かの正体をアスカは知っていた。
――『エヴァは心を開かなければ動かないよ』
ふん、その心がこの弐号機には入ってないのよ。
きっとママの心はサードインパクトであの赤い海に溶けて戻って来なかったんだ。
空っぽの機体にいくらシンクロしても動くはずがない。魂の抜けた死体に祈ったところで死んだ者が甦らないように。
私もシンジもそれを知ってるけど、乗れと言われれば乗るしかないわね。
だって私達は自らの意思でここに来たんだから。この組織で、人と関わって人として生きるって決めたんだから。
命令されたら従うしかないのは皆同じ。私もシンジも、マヤもマコトも。
今マイペースを貫いてるのはあの子ぐらいのものだわ。
――『何を願うの?』
「アスカ、どう?」
どうと言われても答えようがなかった。
以前のアスカなら悔しさで溢れかえっていたに違いない。指一本動かない弐号機の中で、アスカはあの血の色の海とそこに浮かぶ半身だけの少女を思い浮かべていた。
―――――――……‥
「ふうー疲れたっ」
「お疲れ様」
ロッカー室から出ると「あら」と思った。労いの声を掛けるマヤの隣に日向がいる。顔を見るのは数ヵ月ぶりだ。
「何よマコト、対策部長様がわざわざパイロットの失態を見に来たわけ?こっちの部も案外ヒマねー」
「久しぶりに会ったのにきついなぁ。アスカの顔を見に来たんだよ。晴れてリリンに戻ったんだろ?おめでとう」
「ふうん?どうもー」
苦笑いのマヤに促されて場所を移動する。
海洋部より遥かに整った施設の通路を歩きながら、日向は気さくに話しかけてきた。
「最近調子はどう?」
「見ての通りよ。弐号機は動かないしエリートパイロットが形無し。嫌になっちゃう」
「まあ仕方ないよ。あのバラバラ弐号機がここまで復原出来たのだって奇跡なんだ。乗ってくれるだけ御の字さ」
「いいんですか日向くん?そんなこと言って」
「いいのいいの。今日は起動実験じゃなくて本当にアスカの顔見に来ただけだから。で、体の調子は?どう?」
「はーん、そっちの様子伺いに来たってわけね。お生憎様、私は絶好調よ。対策部が気にしてる使徒はキレイさっぱり消えちゃったわ。って言っても私自身は生理以外何の変化もないけどね」
日向はそれは良かったと笑っている。
アスカは日向のことが嫌いではなかった。
日向は割と遠慮なく物を言う。軽口ではあるが時にズバリと切り込んでくる物言いは、思いやりや気遣いでコーティングされた耳当たりの良い言葉にはない率直さを感じる。
つまりデリカシーが足りないのよね、と思うが案外それも悪くないとも思う。
ここではアスカに気軽に話しかけてくる者は多くない。海洋部、対策部共に旧ネルフの職員が多くを占めるアインでは、元パイロットでかつ先日まで半使徒化していたアスカの扱いは腫れ物に触るようなものだった。
そんな中で気軽に話せる日向の存在は、シンジやマヤと同じようにアスカの心を軽くさせた。
「でも不思議だよなぁ、使徒が勝手に消えてなくなるなんてな。勿論アスカにも人類にもその方が良いに違いないんだろうけど」
「あたしだって驚いてるわよ。大体自分の体に使徒が融合してたこと自体気付かなかったのに。ホント、使徒ってどうなってんのかしら」
「融合は以前使徒と戦った時に何かされたんだと思うけど……でも侵食系の使徒ではなかったはずだから、本当のところはわからないのよね。アスカには色々無理させてたもの。私達大人の責任よね」
「別にー?私は好きで乗ってたんだし、何かされる隙があったんならこっちのミスでしょ。気にしてないわよ」
「リリスは何て言ってたんだっけ?使徒の――寿命?だっけ?」
「はい。レイの話では、人と交じり合った使徒の細胞には一定の寿命があって、アスカの場合はその寿命が切れたから、ということらしいです」
「リリスの記憶か。つまり使徒は老衰で死んだってことだよな。使徒に寿命があったなんてなあ。知らなかったよ」
「細胞レベルでの融合で使徒だけが消えてしまうなんて通常なら考えられません。でもそれが使徒なんでしょうね。人と相性が悪いのかもしれません。共存が出来ている今のレイが特殊なんだと思います」
自分の体のことなのにこうやって他人が話しているのを聞くと文字通り他人事のように感じる。
大人二人の会話に適当に相づちを打ちながら、待機室へと移動する。
起動実験の後はいつもそこで少し休んだ後海洋部へ戻るが、今日は日向がいる。
アスカは気になっていることを聞いてみた。
「ねえマコト、そのリリス様のお部屋はどこにあるのよ?」
日向はとぼけた顔をした。マヤの顔色がわかりやすく曇る。
「なんだアスカ、気になる?」
「まあ一応ね。これでもここ2年は毎日顔合わせてたわけだし。リリス女子化計画も途中だったしね」
「リリス女子化?なんだそりゃ」
日向は笑いながら床を指差した。
「地下だよ。ここの地下を掘り下げてプールを造ってる。場所で言うと弐号機格納庫の真下だな」
「地下?そんなとこにあの子を閉じ込めるの?」
「レベルAの管理対象だからね。何かあれば弐号機が床をぶち抜いて地下のリリスに対応するって算段だよ。まあ弐号機は動かないから、一応形だけだけどね」
「はあ!?何それ!」
アスカは歩みを止めた。
「聞いてないわよそんなの。弐号機をガーディアンにするつもりだったの?」
そもそも何度も起動実験で足を運んでいたのに、その足元に隔離施設が造られていたことを知らなかった。
「動いてたらどうしてたのよ。あたしかシンジを弐号機で送り込んだわけ?」
「そう言うなよ。結果として動かないんだ。動いてたなら……そうだな、勿論二人に頼んだだろうな。アスカはどうなんだ?当然乗っただろ?」
「ちょっと日向君!」
「誤解するなよ。対策部はリリス個体への恨みつらみで動いているわけじゃない。我々は敵対生物対策部だ。人類に敵対するものなら、それが何でも、たとえ同じ人類や仲間であろうとも対処する。マヤも覚えてるだろ?俺達の最後の敵が何だったのか」
日向はいつになく厳しい顔をマヤに向けた。
「リリスに恨みはない。だが脅威となるなら止めるのは俺達だ。ここで止められなければまた部隊が出て来るぞ。想自と国連軍と連携されればここなんてあっという間に制圧される。そうなればどうなる?俺達は死んでリリスだけ生き残るさ」
「……」
「ま、そういうわけだよアスカ。対策とは何も戦闘するだけじゃない。リリスを抑えておけば防げる争いもあるのさ。頑張ってるフリでもしとかないとオレたちも危ないしな。レイには酷いことはしないよ。とりあえず上には今日の起動実験の結果を怒られてくるよ」
「……わかったわよ。悪かったわね動かせなくて」
ドンマイという日向に「おっさん臭い」と返し、この話を切り上げた。
地下のリリスとその上のエヴァンゲリオン。ネルフの時と何も変わらないのに、こうも心持ちが違うのは馴れ合い過ぎたせいだろうか。
でもこの対策部長も馬鹿ではないのね、とアスカは思った。
確かに力でレイを抑えたいなら、今の動かない弐号機の側に置くより適切な場所があるだろう。
日向が抑えたいのはリリスではなく、リリスに関わる様々な権力と思惑だ。
やはり彼は多少言葉選びにデリカシーが足りない。しかしそれもまた、嫌いではなかった。
「じゃあ俺はここまで。二人はこの後どうするんだ?海洋部に戻るなら送らせようか?」
待機室の前で日向が聞いた。
いつもなら同行の職員達と海洋部に戻る。車で来ているので送られても、というところだ。
「丁度良かった。アスカを送ってあげてください。今日はもう直帰でいいわよアスカ」
「あれ、マヤ達は帰んないの?」
「私はこの後まだ用が残ってるの。疲れてるだろうから家でゆっくりしてね」
「ふーんラッキー、お先に上がらせてもらうわ」
「あれ、シンジ君はいいのか?海洋部に寄って拾って行こうか?」
日向はニヤリと笑った。
「なんでシンジが出てくるのよ。何よその笑い、やめてよね」
「またまたー上手くやってるんだろ彼と。仲が良いって有名だよ」
「やめてったら。あいつとは一緒に住んでるだけよ。ミサトの家でもそうだったでしょ」
「すっかり夫婦だって噂だけど?」
「ホントやめて!マヤもちょっと否定してよ」
「え?ううーんそうね……仲が良いのは悪いことじゃないわよね」
「ちょっとマヤ!」
ニコニコ笑う二人に憤慨してみせる。
何なのよもう、と思うが仲が良いということも嘘ではない。
けれど夫婦ではない。恋人でもない。少なくとも今は違う。
「あたしはもっと大人の男の人がいいの!シンジなんて万年中学2年生じゃない」
「アスカだってそうだろ……あ、もう違うのか」
「そうよ、あたしは普通に戻ったんだから。成長してるし胸だって大きくなるんだから。いまだに止まってるシンジと一緒にしないで」
「ははは冗談だよ。姐さん女房もいいもんな。シンジ君によろしく」
「ちょおっと!」
結局ニヤニヤ笑ったまま日向は去って行った。
「まったくもう」
「ふふふ」
マヤもニヤニヤしていたが、ジロリと睨むと慌てて口元を押さえた。