待機室にはアスカ一人で入った。
「後で送りの人を行かせるから、それまで休んでてね」
マヤが立ち去ってしまうと、途端に手持ち無沙汰になった。
広い待機室には何もない。あるのはロッカーと鏡と数冊の雑誌。雑誌は女性が興味をひかれないような情報誌だ。
やることのないアスカはメールを打つことにした。
送り主はシンジ。『先に戻るね』と入れた。
こういうやり取りをしているから仲が良いとからかわれるのだろう。
やめてよね、と思いながら文の最後に小さなハートの絵文字を入れる。
返信は戻って来ない。仕事が立て込んでいてメールの着信に気が付かないのか。
携帯ぐらい身に付けときなさいよね、そう思ったその時。
『緊急警報緊急警報。海洋部新生本部にパターン青を検知。総員持ち場にて指示待機してください。繰り返します。海洋部新生本部にパターン青を検知……』
「えっ!なに!?」
突然警報が鳴り響いた。慌てて待機室を飛び出すと、通路はけたたましい警報音と持ち場に急ぐ人々で騒然としている。
『緊急警報緊急警報』
「どういうこと!?パターン青って、使徒!?マコト、マヤ!」
アスカは来た廊下を走った。
ーーどうして?どういうこと?パターン青って使徒じゃないの?
使徒はもういないはず。今のあの子を除いては。
だったらあの子が?まさか、まさかそんなーー
ーー『何を願うの?』
「アスカ!」
「マヤ!一体どうなってるの!?」
格納庫の手前でマヤと合流した。マヤも随分慌てている。
「わからないわ。海洋部でパターン青が検知されたの」
「そんなのアナウンス聞いてりゃわかるわよ!なんでパターン青が出るのよ!レイのパターンはイエローのはずでしょ!?」
「今調査中よ。あなたは指示室で待機してて」
「待機?弐号機はもう動かないわよ!まさか……兵器を使うつもりじゃないでしょうね!?人が、シンジがいるのよ!」
「判断は日向君が下すわ。今はパターン青がイエローに変わるのを願うしかない。レイの理性があるうちはイエローを維持できるはずだもの」
「悠長なこと言ってるわね!大体さっきと言ってることが違うじゃない。どうするつもりよ対策部長様は!」
慌ただしく職員の行き交う通路を指示室へ急ぐ。
日向に怒っても仕方がない。しかしパターン青の正体がレイなら何らかの措置が取られてしまう。
「司令!日向司令!」
「どうされますか司令。弐号機の起動準備は。パイロットを搭乗させますか」
「パイロットは必要ない。弐号機は動かない、無駄な人員は削いで各自持ち場にかかれ。モニター音声波形グラフ全て海洋部とリンク。先に情報収集する、指示を出すまで待ってろ」
「日向くん!」
「マコトっ!やめてよ!」
「お二人さん……落ち着いて、マヤ手伝ってくれるか?」
マヤがオペレーションシステムに移動すると、職員の一人が席を空けた。
対策部のメインシステムはネルフよりずっと規模が小さい。機材は最新だが核となるマギがない。
全ての行動判断は既存のコンピューターと人の頭で行われていた。
「全データこっちに回して。プールとプール周辺はどうなってる」
「映像出ました!リリスはプールです。シンジ君もいます」
「シンジ!?警報鳴ってるのに何やってんのよ!離れなさいよリリスから!やだいやだシンジシンジ!」
「アスカ大丈夫だ、波形が青からイエローに戻ってる。彼女は正気だよ。彼も無事だ」
「……っえ?」
前面のモニターを見ると使徒を示すグラフがイエローに変わっていた。
パターン青は使徒、オレンジは未確定。レイには特別にイエローの領域が設定され、その領域を越えない限りは安全とされていた。
そのなだらかな波形を見た途端、アスカは急に力が抜け、同時に頭に血が上ってきた。
ーーあんの馬鹿っ……!
「マヤどうだ、データ上の問題は?」
「問題ありません。検知されたパターンはイエローで安定しています」
「一時的な暴走か?いや警報の誤作動?映像を見る限り海洋部の警報が鳴った形跡はないが……いや違うな。なんだこれ?」
解析を急ぐ彼らの脇で、ふつふつと怒りを沸騰させる。
「……馬鹿、あの馬鹿っ!バカシンジ!!」
「アスカ?」
「バカバカバカ!何よあいつ何やってんのよ!警報鳴ってるのになんで逃げないのよ!そんなにあの子がいいっていうの!?さっさと逃げなさいよ死んじゃうかも知れないのに!」
「アスカ落ち着け、シンジ君は大丈夫だ」
「落ち着いてるわよ!なによあいつ、あの子だって何なのよ。散々協力してやったのに今更パターン青ってどういうことよ!そんなに使徒になりたいなら勝手にすればいいのよ!」
「海洋部で警報は鳴っていない。シンジ君はこの騒ぎに気付いてない、知らないんだ」
「……!」
日向はメインモニターに映像データを映し出した。
「見ての通り海洋部に警報の作動は確認出来ない。騒いでる人間もいないだろ」
「……どういうこと?こっちの警報器の誤作動だったの?」
「そうとも言えないわ。海洋部でもパターン青の検知は確認されてる。でも一瞬だけ。本来ならその一瞬で警報が鳴るはずだけど、作動してないの」
「わかんない……わかるように説明してよ!」
「対策部と海洋部の検知器はリンクしてるんだ。だから海洋部のパターン青に反応して警報が鳴った。だが火元の海洋部の方には警報が鳴らず、そのうちパターン青も消えちまったってことだな。たぶん」
アスカは目を大きくした。それはそれこそ誤作動ということではないのか。それとも。
「まさか……他に使徒がいるの?」
検知されたのはリリスではなく、その使徒の方ではないのか。
「それは考えにくいな。使徒なら真っ先にリリスを目指すはずだ」
「じゃあやっぱりわかんない。こっちの誤作動じゃなきゃあっちの誤作動なんじゃないの?パターン青なんて最初からなかったんじゃないの?」
「俺達にもわからないんだよ。ただ……」
ーーただ?
「ただ外界を全て遮断出来る使徒なら前にいた。リリスも同じことができるのかも知れない。おっと、ちょっとごめん」
日向は立ち上がって職員達に指示を出した。
警報はカットされ、しかし全モニターを海洋部に繋いだまま解析班による分析が行われる。マヤも青ざめた顔で手を動かしている。
「……遮断?前にいたって……」
「まいったなー上になんて説明すりゃいいんだ。アスカ、悪いけど残ってもう一度弐号機に乗ってみてくれるか?こりゃ本腰入れて頑張るフリしなきゃ俺のクビがヤバいみたいだ」
アスカの問いかけに答えることはなく、日向は数人の職員を連れて指示室を去った。
彼らが海洋部へ向かったのは明白だった。
きっとプールは閉鎖され、移送までの間厳重管理となるだろう。しかしこうなるともう異を唱える意味もないように思えた。
警報が誤作動でないのなら、何らかの理由で鳴らなかったのだ。
その理由がリリスではないとも言い切れなかった。
――――――――………
「何を願うの?」
アインに初めて来た日、アスカは半身だけの姿のレイに問われた。
「何を願うの?」
「なんであんたにそんなこと言わなきゃなんないのよ。あたしの願いなんか関係ないでしょ」
アスカとシンジを連れてきたマヤの話では、二人に会いたがったのはレイだという。まさかこんな姿だとは思わなかった。
「それよりあんたの願いは何なのよ。あんた、人に聞いてる場合じゃないと思うけど」
「……私?」
「そーよあんたよ。人のことよりまず自分のこと気にしたら?」
「私は……デートがしたい」
「デート!?あんたも意外なこと言うのね」
「デート。碇君と」
少しカチンときた。
「ふーん、だったらシンジに頼んでみれば?あいつあんたが生きてて喜んでたからOKするでしょ。でもあんた、その姿じゃどこにも行けないわよ。体が半分だけならまだしもお腹のとこなんてスライムじゃない。そもそも海の中から出られるの?」
半分意地悪のつもりだったがレイは考えているようだった。
「だったら私、足をつくる。足をつくって陸に上がる。それが私の願い」
「まるで人魚姫ね。いいんじゃない?つくれるもんならつくってみなさいよ。世界を復活させたリリス様なら足ぐらい楽勝でしょ。デートでも何でもすれば?」
「あなたは来る?」
「は?」
「デート、あなたも来る?」
「はあああ!?」
「ダブルデート。私、デートしたことないから教えてほしい」
あんた何考えてるのとか、3人のデートはダブルデートじゃないでしょとか、アスカは色々と言って結局了承した。
二人に混じってデートがしたかったわけではない。足をつくると言ったレイの言葉と、初めて自分に向けられた彼女の笑顔に興味を持ったのだ。
「ダブルデートじゃないなら、何て言うの」
「ただのデートでいいでしょ。それよかあんた、少しは見た目気にした方がいいわよ。胸も丸出しじゃなく水着かなんかで隠して……そうね、少しは協力してあげる。デートまでにもう少し女子にしてあげるわ」
ーーもうデートどころじゃないじゃないの。
再び搭乗準備をしながらアスカは思った。
大体足をつくると言ってたのに、出来上がったのは巨大な球体じゃないの。失敗もいいとこ。
けれど現実とは全てが思い通りにならないものだとも理解していた。
世界は確かに再生した。しかしそれはリリスが存在し、弐号機は動かず、シンジの成長が止まった世界だ。自分は運良く元の体に戻れたが、そうでない者もいるのだろう。
どうなるのが正解でどれが不正解なんて、誰にもわからない。
「あら?」
起動用のスーツに着替えようとした時、携帯にメールが入っているのに気が付いた。
メールはシンジからで『了解』と入っていた。きっと騒ぎの前にアスカが送ったメールへの返信だろう。
今頃何よと思いながら『やっぱり遅くなる』と送ると、すぐに『了解』と返ってきた。
「絵文字ぐらい付けなさいよね」
しかし海洋部は今頃大変なはずだ。
文字だけの画面に呟いて、アスカはそっとメールを閉じた。
END.