――――――……
――――……
――……
目の前に、揺れる二本の腕があった。
腕は手のひらを内側に向かい合わせ、小さくぶらぶらと揺れている。
――振り子みたい。
右と左、二本交互に動く腕は規則正しく揺れていて、それは振り子みたいだとレイは思った。
――あら?
気が付くと、振り子の手前にもう一本腕があった。
その腕は振り子の腕より随分と白く、皮膚を通り越して中の血管が透けて見えている。
――アルビノなんだわ。
それなら自分の腕なのだろう。
”私” の白い腕は振り子の腕の手前でじっとしている。
振り子の腕はそのリズムからすると歩いているらしい。
だったら白い腕も振ればいいのに。振り子の隣で歩けばいいのに。
――いいえ、違う。
白い腕は歩いてないわけではないらしい。現に今は、振り子の隣に並んだ。
白い腕は振り子の腕の左側で、振り子を右に見ながらやはりじっとしている。じっとしているが、振り子の歩調に合わせて歩いているようだ。
ぶらぶらとリズムを刻む振り子。
見ているととても面白い。
レイは、白い腕を伸ばしかけて、止めた。
指を動かして、振り子の腕を掴もうとして、止めた。
掴んだらきっと離れてしまう。振り子は止まってしまうだろう。
この腕を伸ばして、その手のひらを掴んで
合わせて
添わせて
自分の手のひらと重ねられたら。
指と指の内側で、その手のひらを感じられたら。
しかし白い腕は動かなかった。動かした指は空気を掻いただけだった。
――もう一度。もう一度だけでいいの。
もう一度触れて。
いつかあなたがそうしてくれたみたいに。
もう一度、ボクノ手を掴んで……。
レイは少し考えて、それから諦めて、白い手をポケットに仕舞った。
――――――――………
「痛……っ!」
舌先に激痛が走った。浮遊していたレイの意識は急激に現実に引き戻された。
――痛い!
鋭い刺激で我に返る。虚ろだった意識を覚醒させたのは、融合した舌から伝わる激しい痛みだった。
見ると口付けるカヲルの顔も苦痛に歪んでいる。
「うぐ!」
痛みの原因はカヲルだった。噛んでいる。舌を。口内で一つに繋がる舌に思い切り歯を立てている。
「ひ!」
――噛み切られる。
咄嗟に予感し、慌てて唯一自由になる右手を顔の前に回した。顔と顔の間に差し込んで、カヲルの頬をガリガリと引っ掻いた。
「やめ……!」
声は直ぐに塞がれる。掻いた爪が皮膚を削る感触はあるのに、やはりカヲルは離れようとしない。それどころか更に深く噛み付いてくる。
「っ、あーー!」
ぎちりと肉に歯がめり込んだ。口内に鉄の味が広がり、それに呼応して体内を侵していた組織の末端が暴れ始める。
レイは悲鳴を上げ、ぼたぼたと涙を零した。
――痛い痛い痛い痛い!
内側からの刺激は、外部のそれの比ではない。
もう爪を立てる力もなく、膝を震わせカヲルの為すがままになっている。痛くて堪らない。
それはカヲルも同じなのか、舌に噛み付きながらも荒い呼吸と呻き声を漏らしている。
「……く」
「ひあ、あっ、ぁっ」
涙と汗が頬を伝う。顎に感じる水気は血液だろうか。
体内で暴れる ”舌” は気道を塞ぎ、呼吸を妨げる。息が出来ない。
――私はここで死ぬのか。
レイは思う。
カヲルは繋がる舌を二つに切り離す気だ。痛みは想像を絶するだろう。
――私に返すと言っておいて、私を殺してしまうのかしら。そんな事をしてももう一人の私になるだけなのに。
だけどフィフス。私が死んでしまったら、今あなたから受け取った感情も消えるわね。きっと今度こそ何も残らないわね。
フィフス。
フィフス。
あなたにピアノなんか習わないわ。
だってあなたの歓喜の歌は。
泣いているみたい、だもの。
堅い歯が鈍い刃物と成って二人を分断した時、レイの意識は暗転する霧の奥に消えて行った。
――――――――………
「はぁ、っ」
気を失っているレイを見下ろして、カヲルは口元を拭った。
切断は思いの外苦痛を伴った。口の中に残る血の味を無理矢理飲み込む。出血は僅かだったが、自分のとも他人のとも判別の付かない血液はやはり気味の良いものではない。
「ふ」
呼吸を整え、改めて失神しているレイを見ると、汗と涙とで顔がぐちゃぐちゃに汚れている。口元には血液が一筋。
カヲルは日光の照り返しがきついコンクリートの床にしゃがみ、指でその血液を拭い取った。
「少しは返せた?」
左手を上げ、指を伸縮させてみる。
腕の中に渦巻いていた無数の蛇の感触は、今はミミズが這う程度の軽さ。
カヲルの中の使徒は感情と共にその組織の大半をレイの体に移したようだ。
「まぁ、記憶までは戻らないかもね」
だが少しは伝わったはずだ。
――ファースト。君の ”好き” は返したよ。後は君の自由にすればいい。
僕も随分楽になった。煩わしいものが無いってこんなに楽なものだったっけ。
「クク。馬鹿らしい」
喉元を押さえてみる。
捉われていた感情が消えたせいか、息苦しさは消えていた。
胸を迫り上げる圧迫感も消え、随分と呼吸が楽になった。
無駄な痛みも苦しさも無い。
――もっと早くこうすれば良かったんだ。
自嘲気味に笑う。
自分は一体何に拘っていたのか。
カヲルは倒れているレイの胸元を触った。制服のブラウスの胸ポケットに指を差し込み、そこに目当ての物が無いことを知ると、今度はスカートのポケットを漁った。
そして指はポケットから目的の物を探し当て、引き抜く。携帯電話だ。
二つ折りの携帯電話を開いてメール履歴を見る。
履歴に残るたった一件の受信メールは、今日自分が送ったものだ。
メールをしないレイはメールアドレスも初期設定のままで、カヲルがレイにメールを送れたのもその為だった。
――シンジ君のアドレスぐらい入ってるかと思ったけど。
少し意外に思ったが、今更考えるのもくだらないとそのまま履歴を消去した。
代わりに新しい文面を打ち込み、暗記していたシンジのアドレスに送信する。
『教会で』
たった3文字だけのメールを飛ばし、眠るレイの傍らに携帯電話を置いて立ち上がった。
「さてと」
空を仰ぐ。教会の屋根の無い天井からは、相変わらず強過ぎる紫外線と蝉の声が降り注いでいる。このままレイを置き去りにすれば熱中症どころでは済まないだろう。
だが、そんな心配は無用か。
「後はシンジ君に助けてもらいなよ。彼の事だから君からのメールだとわかれば飛んで来る。その後は好きにしたら」
足元のレイは何も言わない。聞こえているはずもない。
「聞いてる?」
カヲルはわかっていながらも苦笑する。
――ファーストチルドレン、君って相変わらず。
「つまんないね」
しかしそれも目覚めた時には変わっているのだろう。
指で自分の舌先に触れてみると、まだ微かにちくりと疼く。
アルビノの肌を焼く紫外線のせいか、それともべた付く汗と血の味のせいか、何故か少しだけ苛立つ思いに気付かない振りをして、カヲルは教会を後にした。
END.