「やあ、待ってたよ」

レイが病室に着いた時、カヲルは既にそこにいた。
意識の戻らない惣流アスカラングレーの病室。白い壁、白いシーツ、白いカーテン、銀の医療器具。白と銀、二色の世界に自分と同じ赤い瞳が浮かんでいる。
カヲルは眠るアスカのベッドの傍らに片足を立てて座り、両手で膝を抱いていた。

「メール見た?」

抱いている膝の上に顎を乗せ、唇の端を引き上げて笑う。
嫌な顔だとレイは思った。
……嫌な顔。いつかこの人に言われたことがある。自分は人形みたいだと。どちらが人形だろうか。

「何の用?」

入り口のドアを閉め、その場に立って尋ねる。ベッドには近付かない。
レイはメールなど一度もした事が無かった。自分のメールアドレスすら空覚えだったのに、この男は今までネルフとの連絡用でしかなかった携帯電話にメールを送って来たのだ。意識的に警戒し、レイはカヲルとの間をそれ以上詰めなかった。

「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ。君に話があるだけだからさ」

レイの心中を見透かしたよう言い、カヲルは膝から両手を離した。
立てていた片足を下ろし、すとんと立ち上がって両手を腰に当てる。背を反らせて「うん」と伸びをする。弓なりになった背を元に戻し、両手をポケットに収める。そして首を傾けて言う。

「メール、見た?」
「だから来たわ」

カヲルの一連の動作をレイは芝居でも見ている気分で眺めていた。
初めて開いたメールの受信欄には『セカンドの病室で』とだけ表示されていた。記名も何も無かったが、カヲルからだと直ぐにわかった。
他にはいない。シンジのはずはない。
学校で、昼休みに入って直ぐにメールを受けたレイは、5時間目を待たずに早退した。昼食も摂らずに教室を出て行くレイをシンジが不思議そうな顔で見ていた。
シンジ。
碇、シンジ。
カヲルが固執し、自分もまた心が騒ぐ相手。
一緒にいると、何故だか暖かい。

「話があるんだ」
「ええ」
「場所変えようか」
「何故?」
「ここじゃセカンドが見てる」

意識のないアスカが見ているはずはないのに、そしてたとえ見られていても気にするとは思えないのに、カヲルはそう言ってレイの後ろのドアを指で差した。

「……どこならいいの」

カヲルは一度後ろを振り返り「じゃあねセカンド」と眠るアスカの頬に手を触れてから、ベッドを離れた。

「こっち」

顎をしゃくってレイの横を抜け、ドアを開けて病室を出る。
早足でどんどん先に行くカヲルの後をレイは少しの距離を取って追った。

レイには、渚カヲルという存在がよくわからなかった。
元々三人目になってからの記憶はあちこちが曖昧だ。
自分の中に暗い真四角の空洞があって、そこに色の無いピースを無理矢理はめ込んでいるような感じ。
色が無いのでどこまで埋まっているのかわからない。だが隙間らしい暗い穴から時折ひゅーひゅーと風が吹く。

……隙間はあるのだ。

レイは思う。
隙間がある、欠けているという事はわかるのだ。何もわからないわけではない。ただ、欠けたピースが何だったのか、どんな形をしていたのかはわからない。
三人目の体になって直ぐ、二人目の記憶の一部は赤木リツコと碇ゲンドウから口頭で伝えられた。簡単に纏められた説明だったが、レイはそれで十分だと思っていた。
重要なのは自分の使命と役割。欠けた部分に時折胸が痛む事があるものの、それ以上を自ら求めようとは思わなかった。だが。
自分と良く似た感じのするこの男は、自分の中にかつて面白い感情があったのだと言う。

『君、シンジ君の事が好きだったんだよ』

シンジ君?碇、くん?

『忘れたの?』

好き?好きって、何?
私は碇司令の為の存在。私は碇司令が……。

『本当に忘れちゃったんだ。あんな面白い気持ち』

深淵がざわめいた。男の歪む口元に欠けたピースの形が少しだけ見えた気がした。
好き。私が碇くんを。

『思い出しなよ』

その後カヲルは幾度か『思い出せ』と言った。
何の為か、どういう意図があってそんなことを言うのかわからない。
何故自分に執着するのかも、彼の偽物の笑顔からは伺い知ることは出来なかった。
それでもざわめきに押され、レイは思い出そうとしてみた。それを思い出せば、自分の中の空洞が埋まるのかも知れない。
しかし、いくら思い出そうとしても、わかるのは精々欠けたピースの片鱗ぐらいだ。
“好きだった” 事はぼんやりと思い出した。だが肝心の好きが思い出せない。カヲルの言う魂が震える程の感情がわからない。二人目の自分は使命ではなく、確かにその “好き” によって消えたはずなのに……。
焦れてカヲルに『返せ』と言っても、頑なに嫌だと拒まれる。思い出せと言うくせに、返すのは嫌だと言う。
それはそんなに無くしたくないもの?
かつて自分が持っていた感情を引き継いだと言うカヲルに、レイは苛立った。

――それは私のものだったはずなのに、私にはそれがどんなものか理解する事も出来ない。

自分の前では張り付けた笑顔でばかりいるカヲルが、シンジの前では屈託なく笑うことも理解出来なかった。
自分は人形みたいだとカヲルは言った。
――あなたもかわらないわ。あなたと私は似ているもの。
それならそこで笑っているのも、また私だったのかも知れない。

――私は人形じゃないわ。それはあなたも同じ。
私の前では人形のあなた。彼の前では違う――

それなら、私は?
彼の前で、私は?

思い出せないのなら、もう一度好きになろうと思った。

――――――――………

忙しなく歌う蝉の声が耳にまで暑い。制服のブラウスは汗で背中に張り付き湿っていた。

「どこまで行くの」

ネルフを出て街の未整備地区を歩き回るカヲルは、一度も振り返ることなく前に進んでいた。その後を少し遅れてレイは続く。
引き離されないように背を追いながら、周りに広がる寂れた景色に眼を遣る。
昼を過ぎても太陽は空に高く、遮る物のない日差しは目眩がする程暑い。そこかしこに打ち棄ててある瓦礫の下には、濃く短い影が落ちている。ここは、戦場跡地だ。
あちこちに倒壊した建物が見える。
折れた電柱や建物の残骸は崩れたまま放置されている。
ほったらかしの瓦礫の隙間には、どこにでもある種類の雑草が夏の陽気を吸って繁り放題繁っている。

――『廃墟街』

皆がそう呼ぶ、エヴァと使徒との戦いで壊れた街の暗部。
壊したのは他でもない、自分達だ。

「どこまで行くの?」

無言の背中にもう一度問う。先程からカヲルは口を開かない。黙って前に進むだけだ。レイはふぅと息を吐いた。
……暑い。
照りつける日差しに肌が痛い。眼も、痛い。
前を進む少年の熱を感じさせない白い両腕を眼で追う。汗などかいていないように見えるこの男も、自分と同じくらい暑くて堪らないはずだ。

……どこまで行くの。

三度目は心の中だけで言い、レイは紫外線が染みて痛む眼球を目蓋の上から押さえた。

「こっち」

左右に高いブロック塀が並ぶ細い通りを抜けた所で、カヲルは漸く声を出した。

「こっちだよ」

少しだけレイを振り返り、後は早足で目的地だと思われる建物へと向かう。
急に開けたその場所は、夏草の覆い茂る箱庭のようで、目的地はボロボロに崩れた公共施設跡のようだった。外壁ばかりで屋根は無く、建物としての機能は果たしていないだろう。
ザァと熱いばかりの風が抜ける草道をカヲルは小走りに駆けて壁の奥に消えた。

(ここ……)

足に絡む草の中に立ち、レイは周りをぐるりと見渡した。
ここは学校とネルフとの丁度中間ぐらいの場所だろう。
自分はわざわざ学校からネルフの病室に出向き、そしてまた半分の距離を戻って来たのか。この暑い中を。

(はじめから近くを指定してくれれば良いのに)

少しばかり恨みがましい気分に眉を寄せながら、カヲルの後を追い建物に向かう。
崩れた建物は、床に横たわる十字架のようなオブジェから見るに、どうやら教会の跡地のようだった。

――ポロン

壁の奥にはグランドピアノがあった。屋根の無いこの建物の中で雨ざらしになっていたのだろう。黒い塗装が所々剥がれている。
その煤けたピアノをカヲルは指で弾く。

――ポロン

音は綺麗だ。
カヲルはドミソと弾いてレイに眼を向けた。
レイは教会の崩れた壁際で、病室と同じく距離を取ってカヲルを見つめた。相変わらず笑顔のカヲルの表情は、先程より幾分穏やかに見える。気のせいだろうか。

「ねぇ君、ピアノ弾ける?」

ピアノの脇にあった黒塗りの椅子に腰を下ろしてカヲルは言った。

「弾ける?弾いたことある?」
「いいえ」

弾いたこともない。楽器など、音楽の授業以外で触れたこともなかった。

「僕は弾けるよ。ていうか弾けた。だってピアノなんて最初からご丁寧に音が並んでる。あとは順番に叩いてやれば曲になる。単純で簡単」

カヲルは鼻でフッと笑って再び鍵盤を叩く。

「そう思わない?」

――ポン

ポンポンと一本指でドレミファソラシドを追い、それからどこかで聞いたことのあるメロディを叩き始めた。

「この曲知ってる?」

人差し指一本で奏でる曲は、ベートーヴェン交響曲第九番。
歓喜の歌と言われるその曲は、数あるクラシックの中でも割とメジャーで、音楽に疎い者でも耳にする機会の多い曲だ。 当然レイも聴いた事があった。曲名もそれとなく知っていた。

「第九」

答えるとカヲルの指が早くなった。
一本指が五本指になり、やがて指は両手分の十本に増えた。 指は面白いように鍵盤を滑り、喜びの旋律は派手に騒ぐ蝉の声をかき消した。
自分で簡単だと言うだけあって、カヲルの指はどこにも引っ掛かることなくメロディを追う。

……暑いわ。

レイは額の汗を手の甲で拭った。
今日は特に暑い、そう思った。
じりじりと照りつける太陽に頭痛がしそうだ。

「弾いてみる?」

音の波を唐突に止めてカヲルが言った。

「簡単だよ。弾いてみたら?」

レイは首を横に振る。
それよりも、暑い。

「話って、ピアノのことだったの」

わざわざ人を呼び付けておいて、その理由が廃墟でピアノを聴かせることだったのか。まさか。

「ふん」

カヲルはつまらなそうに鼻を鳴らし、椅子を引いて背もたれにもたれた。

「君って退屈だね」

レイは目蓋を押さえた。皮膚越しに触れる眼球がズキンと痛む。日光に晒される腕や顔の皮膚も熱を持ちはじめて火照っているのがわかる。
せめて日陰に入りたいと思った。カヲルのこの調子では、話を聞くまでにバテてしまう。
そんなレイの様子に、カヲルは漸く気が付いたようだった。

「ああごめん。君、まだ外界の刺激に慣れてないんだったっけね」

からかう風でもなく、しかし軽い口調で言って、カヲルは自分の座る椅子の背もたれに片腕を引っ掛けた。

「今日は良い天気だからね。暑いだろ?」

他人事のように話す。
――暑いわ。でも。あなただって暑いはず。

カヲルの白い肌は見る者に温度を感じさせない。彼の張り付けた笑顔や飄々とした態度そのままに、シンジやミサトより一段低い温度を保っているように見える。
だが、レイがそうであるように、カヲルもまたそう見えるだけなのだろう。
体温も、感情も、人より低く見えるだけだ。
暑さ寒さを感じないわけではない。
勿論、痛みも。
寧ろ白過ぎるその肌は、人一倍痛みを感じ易いと言えた。

「僕らの体は不便だよね。色素が無い分、光に弱い。視力は弱いし病のリスクなんて常人の比じゃない。僕はもう慣れてるけど、君にはまだ強い紫外線はまずかったかな。眼、痛い?」

指を一本伸ばして自分の眼の際をちょんちょんと突く。レイは「ええ」と一言答えると、目蓋を押さえていた手を下ろした。
カヲルが自分のどこまで知っているのかはわからないが、今この状態を理解出来るのは多分彼しかいないだろう。

「光、眩しいだろ」
「ええ」
「皮膚も痛い?」
「……ええ」
「だろうね。僕も痛いよ。日本は夏ばかりで最悪だ。海に行った時なんか死ぬかと思った」

――海?

「あれ?何それって顔だね。聞いてない?シンジ君に。てっきり伝わってるもんだと思ってたけど」

――え……。

ピクリ、と胸の奥が動く。
海。レイにはわからない話だった。
学校に通い始めて、シンジと話をするようになった。他愛もない話の中で、少しずつだがシンジとの距離が近付くのを感じていた。
だが、海の話は聞いていない。シンジの口からカヲルの話題が挙がることは度々あったが、全てを聞いたわけではなかった。

――何かしら。

心がざわめく。自分の知らないシンジとカヲル。

――海に行ったの?二人で?

「なんだ、本当に知らないみたいだね。君らのことだから筒抜けかと思ってたけど、そうじゃないのか。ふぅん」
「……」
「あの時は楽しかったな。夜は火傷で最悪だったけど。幸い変わらない見た目のお陰で周りには気付かれずに済んだ。一々詮索されなくて良かったよ。色々面倒だし」

椅子を引いてカヲルが立ち上がる。その表情は「君ならわかるだろう」と言っていた。

「海のことを知らないのなら、ピアノのことも知らないのかな。さっきの曲、僕が初めてシンジ君に出会った時に弾いた曲だ」

ズボンのポケットに両手を入れ、こちらに近付いて来る。

「あの時のシンジ君は少し驚いた顔をしていたよ。彼の周りにピアノを弾く人間はいなかったのかな。君さえ良ければ、弾き方教えてやっても良かったのに」

目の前まで来て「どう?」と言う。
レイは首を横に振って後ろに下がった。
それを追ってカヲルが前に出る。もう一歩下がると、コンクリートの壁に踵が当たった。
気が付くと壁際ぎりぎりにまで詰め寄られていた。

「ふぅん。興味ないんだ、ピアノ」
「……そうじゃないわ」

そうではない。――あなたのピアノが嫌なだけ。

「それより、話って何?」

焼ける太陽に頭が痛い。カヲルが言うように未だ ”外” に慣れない身体にこの紫外線はきつかった。
――わかっているなら早く終わらせて欲しい。
レイは片手を上げ、もう一度額を拭おうと前髪に触った。
だが指が髪に触れた直後、上げた左手は手首を掴まれ顔から引き離されていた。

「?」

少し驚いて眼を開いた。カヲルは変わらず唇に笑みを浮かべている。そしてレイの手首を掴んだまま、不意に顔を寄せてきた。

「!」

はっとした。
慌てて身を退こうとしたが背中にはコンクリートの壁があった。横に逃げようとしてもカヲルの腕がそれを阻む。
カヲルはもう片方の腕も強引に掴み取ると、身体ごとレイを壁に押し付けた。

「う!」

腰と腰、腕と腕を押し当てられ身動きが取れなくなる。掴まれた腕が強く握り込まれる。痛い。

「ファースト」

血液が回る。

「少しはシンジ君のこと好きになった?」

呼吸を感じる程、唇に唇を寄せられる。

「もう一度好きになるって言ってただろう?」

密着した身体から汗を含んだ熱い体温が伝わってくる。身体を捩って抵抗するが、暑さのせいか足が震えるばかりで力が入らない。
――嫌。
声を立てようと口を開くと、先にカヲルの唇が動いた。

「ねぇファースト。君言ってたよね。もう一度シンジ君を好きになるって。どう?好きになった?」

――フィフス。

「前のことは思い出せないんだろう?じゃあ新しく好きになった?」
「……離して」
「シンジ君が好き?」

――好き?

「前の君はシンジ君が好きだった。で?今は?また好きになった?」
「……」
「なったかって聞いてんだけど」
「……わからないわ」

顔を背け、身を強ばらせて抵抗しながらレイは言った。
わからない。これは本心だった。
シンジといれば温かな気持ちになるものの、これが好きかと言われれば良くわからない。ただ。
わからないと告げた時のカヲル顔は嫌だった。見透かされたような馬鹿にされたような顔。知らずに顔が歪む。

「わからないわ。まだ」

自分と同じような男に、身体だけでなく心の空洞まで覗かれるのは嫌だった。
カヲルはレイの耳元に口を寄せる。耳の産毛をざわめかせ、吐息を吹き込んで囁く。

「まだ?まだって何?まだ好きになってないってこと?これから好きになるってこと?」
「……」
「間に合わないんじゃないの?」

カヲルはレイの耳たぶに唇を当て、頬を滑らせて口元まで戻ってくる。レイは横を向いてそれに耐えた。瞳だけを動かしてカヲルを見ると、赤い視線がぶつかった。
笑っている。

「ぐずぐずしてると間に合わないよ。好きになってる時間なんてない」
「……間に合わないって、何」
「わかってるだろう?君に残されてる時間だよ」
「!」

肌が粟立つ。
――知っている。カヲルは自分のことを。殊の外深くまで。
身体。時間。何をどこまで。まさか、エヴァやネルフの事まで?
カヲルは何を知っている?

「あなた、誰?」

その質問にカヲルは小さくのどを鳴らし、それから静かな声で答えた。

「誰って、僕はフィフスチルドレンだよ。君と同じパイロット。そして大人になれない子供。子供のまま時を止める事を強制された、永遠の子供さ」

――――………

ファースト、君も気付いているだろう?僕達がチルドレンと呼ばれる理由。
僕達は大人になれない。
大人になる前に世界が変わってしまうからね。
そう仕組まれている。
逆らえない。抗えない。こういうのを運命って言うんだろう。
そしてそれは僕と君だけじゃない。

「シンジ君やセカンドも同じ。もっと言えば今存在する全ての子供は皆そうだ。時の流れに巻き込まれて時を止める。そしてその時は、近い」

カヲルはレイの口元から一度唇を離し、今度は正面から顔を覗く。
額に髪の感触。額と額が当たる。

「皮肉なものだね。僕達は命を懸けて命を止める為に戦う。約束の時は近く、子供達は無力。そして無知。僕と君は少しだけ物事の先が見えているが、それでもやはり無力だ」
「あなた、」 ――何を言っているの? 「僕の言葉がわからないかい?それならそれでもいい。だけど時間がないのは事実だ。僕らに残された時間は僅か。君がシンジ君を好きになってる暇はないよ。残念だったね」

クク、と瞳を半月形にして、カヲルは手首を拘束する両手に力を込める。
レイは食い込む爪の痛みに唇を噛んだ。

「やめて」

何とか逃れようと身を捩るが、ぴたりと張り付いたカヲルの体はびくともしない。

「お願い、離して」

離してと言ったところで離してもらえるはずもなく、余計に爪を立てられた。
右の手首に痺れるような痛みが走り、レイは小さく悲鳴を上げた。

「おっと、ごめん」
「っう」
「今のは僕じゃないよ。痛かった?」
「……離して」
「もう少し我慢してよ」
「何をする気なの」
「何をされたい?」
「!」
「あはは。嘘だよ。君にとって悪いことはしないよ。ただ少しばかり痛いかも。だけどそのくらい我慢してよ。折角僕がその気になったんだからさ」

――その気?

「前に君に言われたよね。『返せ』って。僕の中の好きを返せって。返してあげるよ。君に足りない時間を埋めてやる。悪い話じゃないだろ?」

――!

「最初は面白いと思ったんだ。だけど今は苦しいだけ。君に返すよファースト。こんなもの、僕はもういらない」

“好き” なんてもういらない。

カヲルの唇が開くのを見て、レイは本能的に身を縮めた。

「何を……!」
「……君、見てたんだろう?前に僕が病室でセカンドに “してる” とこ」
「!」
「あれと同じことだよ」
「い」

――嫌!

「嫌」と言う声はカヲルに飲み込まれた。
カヲルはレイの口を自分の口で塞ぎ、隙間から舌を差し込んで来た。ぬらぬらと滑る長い舌が無理矢理唇をこじ開けようと動く。

「!」

レイは首を左右に振って抵抗した。しかし右手を掴んでいたカヲルの手が外れ、その手に頬を掴まれ動きを封じられてしまった。
自由になった右手で肩を打っても、体を押さえる力は緩まない。それどころか舌は確実に唇の間を割って進み、固く閉じられた歯列をなぞって動き始める。
あまりの気味の悪さにレイは暴れた。
それでもカヲルはじっとレイの眼を見つめ、尚も舌を侵入させる。

――嫌!

舌に神経が集中する。自分を見つめるカヲルが怖い。
暑い、熱い、あつい、痛い。
暑さと酸欠で目の前が白む。
しかし少しでも気を抜けば、舌は容易く口内に侵入するだろう。

――嫌嫌、碇くん!

効果はないとわかっていても肩を打つ。だが何度打っても唇は離れなかった。
そしてとうとう息苦しさに負け僅かに口を開けた隙に、舌はレイの中に潜り込んだ。

「う、く!」

――あ……!

びくん、と体全体が跳ね上がった。
”舌”。 舌だと思っていたそれは、レイの口内で一瞬にして容量を増し、内側から体内を侵蝕した。

「……ぅ!」

“それ” はレイの口一杯に広がり、舌に絡み付き、蛇のように巻き付きながら食道を下る。食道から胃、それから更に深部まで、激しい痛みと嘔吐感がレイを襲う。

――これは

目の前がチカチカしてカヲルの顔が見えなくなった。
代わりに何かが流れ込んで来るのを感じた。
熱くて大きな固まりが口の中に溢れ、舌を伝って体の奥まで侵入する。内側から外に、それは流動系の根を張るようにレイの体内を侵していく。

「ぁ、」

どくり。カヲルの舌が動く。否、カヲルのではない。
いつしかカヲルとレイの舌は完全に融合していた。
舌は合わせた唇の中で一つに繋がり、どくどくと何かを送り込んで来る。
とりとめのない感覚。
熱くて痛い。
暖かくて、苦しい。

「はぁ……」

いつの間にか力は抜け、唇の隙間から呼吸が漏れた。

――何かしらこれ

気持ち悪いのに、気持ち良くて、今すぐ振りほどきたいのに、振りほどけない。
この温かいもの。
ドロドロしていて、苦しいもの。
これが、好き?
これがあなたの言う、好き?
かつて私が持っていた……。

……いいえ。違うわ。
これは私の好きじゃない。
これは。
これは………