実際夜は直ぐに明けた。

――――――――………

校門前に後ろ姿を発見した。

「シンジ君!」

振り向く前に駆け寄って、背中から腕を回そうとして思い留まって、肩を叩いて声を掛けた。

「おはようっ!」
「あ、おはよう」

渚くん、と綻ぶ顔を見て、自分の頬も一気に緩むのを感じる。今朝までの不安定な糸が途端に解れた。
シンジ君!

「シンジ君おはよう!」
「おはよう」
「お早ようっ!」
「おはよう」
「あは!」
「はは」

シンジ君は「朝から元気だなー」と苦笑いの顔で僕の肩をグーで叩くフリをする。くすぐったくて甘い揺らぎに揺れて、こちらも大きくよろけるフリをした。

「渚くん、何だか顔赤いね」
「そう?」
「眼も充血してるし。寝不足?」
「まあそんなとこ」
「珍しいー」
「シンジ君は今日も最後までいるんだろ?学校」
「うん。非常召集がない限りはね」
「じゃあ僕もいるよ」
「君そればっかだな」
「あは」

僕達は並んで歩いて校舎に入った。他の生徒の間を抜け、下駄箱でそれぞれ靴を履き替える。僕は下駄箱に放り込んであった上履きを、シンジ君は鞄の中から取り出した白いビニール袋に入ったスリッパを履いた。

「……」

ビニール袋に脱いだ靴を入れ、それを鞄にしまう様子を横目で眺めて、僕は知らん顔をする。

「行こっか」

うん、と笑ってやる。また並んで廊下を歩いた。
学校に通い初めて今日で9日。
最初は馬鹿馬鹿しいと思っていた学校通いも、毎朝校門前で必ず手に入る笑顔にそう悪くないと感じるようになった。
シンジ君が突然学校に行き始めた理由はどうやら葛城ミサトの命令らしいが、僕には正直そんな事はどうでも良かった。
ただ今は。

――『時は近い』

出来るだけ、長く。

教室の前で足を止めて、シンジ君が窓から中を確認する。彼の席は中央。周りに人はいない。僕も顎を上げて中を覗いた。

「まだあんまり人来てないや」

がらんとした教室。数名しかいない生徒。
僕とシンジ君はクラスが違う。僕のクラスも生徒数は少ないが、ここはもっと少ないようだ。
無意識に綾波レイの姿を探す。

「……いない」

いるとは思ってなかったが。それでも少し安堵した。
……馬鹿馬鹿しい。

「渚くん?」
「あ、うん。じゃあまた放課後ね」
「うん、じゃあ」

またね、という眼をしてシンジ君は中に入った。僕は軽く片手を上げてそれを見送り、彼が何事もなく自分の席に着くのを確認してからその場を離れた。

「放課後か……」

放課後なんて直ぐだ。
僕はシンジ君より一つ上階の自分の教室へと向かった。

午前中の授業は僕にとってただつまらないだけのものだった。
与えられた偽の台本を読み上げるだけのセカンドインパクト以降の歴史。
決まりきった数式を当てはめれば正解というパズルまがいの数学。
今更学ぶ気も起きない英語。
どれもまともに受ける気になどならず、僕は始業からの三時間をだらだらと黒板を眺めて過ごした。
いっその事抜け出してどこかで昼寝でもしていた方が時間の使い方としてはまだマシだ。太った中年教師のあまり正確とは言えない英語の発音を聞き流して、シャープペンシルを指の上でくるくる回しながら思う。

(つまんないな…)

ちらりと前の席の男子に目をやれば、机の中から紺色の短パンがはみ出しているのが見える。

(次の時間は体育か)

面倒だな。確かサッカーだとか言っていた。
腹でも壊すかな、とシャープペンシルを軽く弾いてPCの上に落とし、少し身を傾けて窓の外を見た。
三階の窓際に位置する僕の席からは、窓の真下にホプラの木、斜め前下方には校門が見える。毎朝シンジ君と待ち合わせる校門。朝は生徒達で賑わう校門も、3時間目のこの時間には当たり前だが人はいない。夏のうだる陽気の中に黒い門扉が暑そうに立っているだけだ。
僕はポプラの枝と鉄の門扉を交互に眺め、それからまた教室内に眼を戻した。
中年教師は相変わらず発音を間違えている。

「……」

退屈だ。僕は ”お腹が痛くなる” 事に決めた。

「先生!」
「はい?どうしました?えー、」
「渚です」
「はい渚くん」
「ちょっとトイレ行って来てもいいですか?おなか痛いんでー」
「ぷっ。くすくす」

数名の男子生徒の笑う声がした。

「ついでに保健室行って来ます」

太った英語教師は一瞬怪訝そうな表情をしたが、 「それなら速やかにどうぞ。保険委員はついて行かなくていいですか?」
「大丈夫です」

僕は適当に返事をして席を離れようとした。昼休みまであと少し。それまで保健室で寝ていよう。そう思い、引いた椅子を机の下に戻しながら何気なくまた窓の外に眼を向け、気付いた。

「……?」

(……あれ?)

校門前に見知った少女の姿が見えた。

「……!」

少女は一度門の前で立ち止まり、それからゆっくりと ”こっち” に向かって顔を上げた。

(……ファースト!)

色素の薄い髪が陽の光に透けている。学校では一度も姿を見た事がなかった綾波レイ。ずっと欠席していると聞いていた。

(なんで今になって……)

レイは制服姿で僕のいる教室を見上げている。
いや、ちがう。もう少し、下。
自分の……シンジ君のいる教室か?

「どうしました?渚くん」
「あっ、はいすみません」

中年教師の声で我に返った。やはり周りで笑い声が湧き起こる。

「失礼します」

僕は言い捨てて教室を出た。廊下を進む。
止めた。保健室は、止めた。

早足で階段を降り、朝靴を履き替えた下駄箱へと向かった。
ファースト、今頃学校に何の用だ。
ざらざらしたものが胸の中に湧いた。感情に押され足を早めた。授業中で静かな一階の廊下を進んだ。

「ファースト!」

下駄箱より手前の廊下に彼女はいた。対面からこちらに向かい歩いて来る。
僕は見つけるなり声を掛けた。

「やあ!」

おはよう、と言ってみた。

「おはようファースト。随分遅い登校だね」

レイは無言で近付いて来る。制服姿。足元はソックス。履物は履いていない。
ふぅん…… ”君も” か。
黒いソックスの足が僕の手前で止まった。お互い眼を合わせた。

「やあ、珍しいね。君が学校なんて」
「……」
「君も葛城三佐に何か言われた?」
「いいえ」

僕を見たまま薄い唇が動いた。

「私もここの生徒だもの」

レイは表情もなく言うと、また僕の横を通り抜けようとした。ふわりと風が起こる。

「……待てよ」

僕は彼女の手首を掴んだ。

「なに?」
「待てって」
「だからなに?」
「何しに来たの?」
「授業に」
「嘘つけ」

レイの視線が真横から僕を捕らえる。僕は掴んだ手首を引いて笑ってみせた。
嘘、つけ。

「何が言いたいの」
「……別に?」
「手を離して」
「なんで?」
「痛いわ」
「へぇ?」

痛い?

「自爆は平気でもコレは痛いんだ?」
「!」

腕を放した。

「っ」
「ああごめん!思わず力が入った!」
「……」
「シンジ君なら教室だよ?授業中。君完璧遅刻だから早く行ったら?」
「……あなた」
「ああでも君靴下だし、そのまま行ったら変だよね。購買でなんか履物買ったら?何なら僕の貸そうか?あ、サイズ合わないか」
「フィフス……」
「あのさぁ、君どうせシンジ君に会いに来たんだろ?てことは何か思い出した?それか思い出す気になった?僕に返せとか言ってたアレ、もう諦めたの?」

――『返して』

嫌だね。今更返すものか。ねぇファースト。

「おいどうなんだよ!」
「諦めたわ」

――!

レイは僕が解放した腕を胸の前に庇いながら言った。

「諦めたわ」

あきらめた……。

「諦めたわ。あなたに言っても無駄だとわかったから。その代わり自分で探す事にしたの。もう一度」

もういちど?

「なんで……」
「あなたが言ったのよ。何故忘れたのかと。面白い感情だったと。魂さえ、」 震える程の。だから。 「だから欲しいの。私にも欲しいの。だからもう一度碇君を好きになるの。あなたのように」
「!」

――あなたが言ったのよ?

レイはそう言うと腕を下ろし、僕から視線を外して後ろに下がった。

「あなたもそうして欲しいんでしょう?」
「……ファースト」
「もう行くわ」

黒いソックスのレイが動く。滑るように僕から離れる。
もう、一度?
もう一度好きになる?
思い出すんじゃなくて?
好きに…… ”なる” ?

「ちっ!」

僕は踵を返すと、離れるレイの後ろ姿に言った。

「ねぇ!シンジ君ならいないよ!」

彼女は歩みを止めない。

「忘れてたけど、さっきネルフからの連絡で出てったんだ。君もネルフに行ったら?」
「……嘘だわ」
「嘘じゃないよ」
「あなたさっきは教室にいるって」
「だから忘れてたんだって」
「嘘だわ」
「嘘じゃ、」
「だってあなたがいるもの」
「な、」
「あなたが――」 「“ここ” にいるもの」

レイは少しだけ振り返った。口元に薄い笑みを浮かべ、細めた眼で僕を一瞥すると、また直ぐに背中を向けた。

「さよなら」

彼女が去る。一階の廊下を抜け、階段を登り、やがて僕の視界から姿を消した。僕は消えた彼女の残像をしばらく人気のない廊下に追った。

「好きに……なる?」

もう一度。レイが、シンジ君を。
それとも。それとも?

「シンジ君、が?」

頬の筋肉が歪み、脳裏に白い足がちらついた。教室でレイを見て眼を丸くするシンジ君の姿が浮かんだ。

「……ちっ」

僕は、保健室に向かった。