「返して」
「何、またその話?」
綾波レイが僕を睨む。何かが焦げる匂いがした。
「悪いけどもうその話飽きたよ。じゃあね」
僕はネルフを後にした。
――――――――………
ネルフ居住棟の自室に戻った僕は、部屋に上がるなり持っていた学生鞄を床にぶちまけた。
肩掛けの鞄の中からは、教科書代わりのメモリーが数枚と何も記入されていないノートが一冊、数本の筆記具、そしてネルフから与えられた連絡用の携帯電話が床に散らばった。
紙とメモリーを無視して携帯電話を手に取る。
リダイヤルを押し、わずか一件しか登録されていない彼の番号へ電波を飛ばした。
『留守番電話サービスへ接続します』
「くそっ!!」
壁に思い切り携帯電話を投げ付けた。石膏ボードの白い壁が壁紙ごとそこだけ凹んだ。
「くそっ!」
面白くない。
僕は苛々とした思いでキッチンへ向かった。
冷蔵庫からペットボトルの水を取出し、冷えた水分を口に流し込んだ。ググ、とのどを鳴らして飲み込めば、口元から溢れた水がぼたぼたと零れて制服のシャツを濡らした。のどの奥が、熱い。
いくら冷たい水で流しても、イガイガとした気持ちの悪い物が食道の辺りで引っ掛かる。僕は水で濡れた自分の首を右手で雑に擦った。
「……馬鹿馬鹿しい」
息をつく。ペットボトルを持ったままキッチンを出る。濡れたシャツを脱ぎ、制服のズボン一枚になってベッドに座る。
馬鹿馬鹿しい。何に苛ついているのか。
もう一度ペットボトルの口を噛み、残った水を胃の中に入れて足元に空のボトルを転がした。そして座ったまま後ろに倒れ、ベッドの上に上半身だけ仰向けに引っ繰り返ると、両腕を目蓋の上にクロスの形に置いて目を閉じた。
……鳴れ。
「鳴れ」と思う。
馬鹿馬鹿しい。そう思う。
鳴れ。
……くだらない。そう思う、のに。
鳴れ。鳴れ。
たぶん、鳴る。
鳴れ。
たぶん鳴る。
鳴れ。
鳴れ。鳴れ。
鳴れよ。
鳴れよ鳴れ鳴れってば!
「鳴れよちくしょうっ!!」
――ピリリリ
「!」
僕は電子音に跳ね起きた。床を蹴飛ばして壁際に転がる携帯電話を手に取る。耳に当てる前に通話ボタンを押した。
「あはーシンジ君シンジ君っ!もしもしこちら渚!渚だけどー!!」
『うわっと!はは!何言ってんだよ。こっちからかけたんだからわかってるよそんなの』
聞き慣れた声が耳に流れ込み、僕の中の何かが一気に膨らんだ。
ああシンジ君。シンジ君の声だ!
「あは!」
『ははは。あーさっき電話くれてただろ?ごめん気が付かなくて』
シンジ君シンジ君シンジ君
「うん、まぁこれと言って用事はないんだけど。ちょっとかけてみた」
『暇だった?』
シンジ君シンジ君
シンジ君、僕ね。
「まあね。君何してたのさ?」
『食器洗ってた』
「へえ、主婦だね」
『こら、誰が主婦だよ』
僕、ね。シンジ君……。
携帯電話の向こうでシンジ君の声がする。僕はその心地よい声を耳に当てながら、床に胡坐をかいて座り込んだ。
目を閉じて聴覚だけに集中してみると、僕と同じように耳に電話を当てる彼の姿が目蓋に浮かんだ。
背を丸めた。
『渚くん、ご飯食べた?』
「いやまだ。お腹減ったよ。君は?」
『うちはオムライスにしたんだ。僕製の。僕スペシャルの』
「あーいいなーたまご」
『君、玉子好きだよね』
「玉子は食材の神。玉子料理は人の生み出した料理の極みだよ」
『はは。何だよそれ』
「あははー!」
僕達はしばらくの間実の無い話をした。食事の話と今日の訓練の話。マンションにいるというペンギンに餌を買い忘れた話。
携帯を強く押し当てた耳はそのうち縁が痛くなり、僕は何度か耳と持つ手を代えて彼の声を聞いた。
最後に学校の話をした。
「シンジ君は明日も学校に行くの?」
『そのつもりだけど。君はどうする?』
「じゃあ僕も行くよ」
『……思ったより続いてるよね。通い始めてもう一週間……八日?』
「そろそろさぼる?」
『うーんー…いや、いけるとこまでいこうかな』
「了解。優等生」
『悪いね、ふりょう君』
ふふ、と鼻に抜ける笑い声で、電波の先の彼が目を細めたのがわかった。彼特有の困ったようなはにかんだような笑い顔。胸が震える。
ああ、終わる。
声が、終わる……。
『じゃあまた明日、学校で』
「遅刻しないでよ」
『それこっちのセリフだよ』
「あは、冗談冗談。じゃあね」
『ふふ、また明日』
また、あした。
……
あっけなく電話が終わった。
終話ボタンを押し、ただのつまらない機械に戻った携帯電話をぽとんと床に投げた。
床に座ったまま少し汗ばんだ手で耳を触ると、やはり縁の辺りがひりひりと痛い。
――また明日。
明日なんて、直ぐだ。
終わってみれば馬鹿みたいなほんの僅かな電話。何を苛ついていたのか。そう思う。だけど。
――ふふ。
僕は床の上でもう一度目を閉じて、携帯電話の向こうのあの笑い声を思い浮かべた。
僕の中の、
ゼーレの、
セカンドの、
ファーストの、
”声” を消す、彼の声。
僕は胸を押さえて彼を想う。心の中でその名を呼ぶ。
シンジくんシンジくんシンジくん
僕ね、シンジくん。僕……。
「…… よ…」
シンジくん……
END.