「おおーい!大丈夫かぁー?」
「う、わっと!!」

突然声がして驚いた。
保健室のベッドの上。眼を開けると黒い髪。僕の顔を覗き込む黒い瞳と眼が合った。

「シ、シンジ君!?」

黒い眼はパチパチと二度大きく瞬きをした。

「うす!」

どうやら僕はウトウトしていたらしい。
シンジ君はベッド横の折畳み椅子に腰掛けて、片手を胸の前で振っていた。
わ!びっくりした!

「大丈夫?渚くん」
「あ、うん。え?ていうかなんで?」
「うん?」
「授業は?」

あれ?もう昼休み?

「5時間目」
「え?もう?なんで?」
「なんでって、渚くんがお腹壊して寝てたんだろ?」
「いや、じゃなくて君。なんで授業中に君がここにいんの?」

???

どうなってんの?今一状況が把握出来ない。未だ覚醒しきらない頭に血を巡らせてみた。
5時間目。起きる予定は昼休み。それはとっくに通り過ぎたようだ。それはわかる。が。

「??」
「渚くん寝呆けてるだろ?」

そうかも。だってシンジ君がここにいる理由がわからない。
僕は素直に返事をした。

「うん。寝呆けてるみたい」
「君さぁ、4年も寝てたんだよ?」
「え゙!?」
「はは、冗談だよ。5時間目って言ったろ?」
「うん??」
「まだわかってないね」

シンジ君はそう言うと、 「サボったんだよ」 苦笑いの顔でへへ、笑った。

「実は昼休みに渚くんのクラスに行ったんだよ。そしたら君はお腹壊して保健室って言われたから、一旦は戻ったんだけど……」

でも結局5時間目サボる事にしたからさ。と、シンジ君は座った折畳み椅子の両足の間に両手を付いて体を前に傾けた。

「どうせ暇だしお見舞いに来た」
「え」

サボった?シンジ君が?僕の

「ぼ、僕の為にっ!!?」
「君の為じゃないよ」

あれ?どうやら頭はまだ完全に起きてはいないらしい。
僕は中途半端に寝そべった体勢から、ちゃんと垂直に体を起こした。

「僕、五時間目はたまたまサボったんだよ。そしたら君が保健室にいる事思い出したから来てみたんだ」
「あ、なるほど」
「お腹大丈夫?」
「うん」

聞いてみたら何の事はなかった。つまりはシンジ君も僕と同じくサボる目的で保健室に来たのだ。そこで僕がたまたま寝こけていただけで。
あれ?でも。

「シンジ君、君さっき僕のクラスに行ったとか言ってなかった?」
「うん」
「何か用事だった?」
「んー用事って言うか……」

わざわざ別のクラスに来るぐらいだから何か用があったのだろう。僕は無駄足を踏ませてしまったようだ。しかしシンジ君は、 「うんー、でも君腹痛だからなー」 と、首を捻って椅子の足元を見ている。

「シンジ君?」
「……やっぱいいや」
「いいの?」
「君が珍しく病人だからね」
「ハライタ?それなら仮病だよ?」

僕はベッドの上に投げ出した自分の足を引き寄せて胡坐をかいた。

「腹痛はサボる口実さ」

両手でシャツの腹部を摘んでみせた。

「……ふりょー」
「あは。シンジ君もだろ?」
「ふふ、まぁね」
「で、何の用?」
「うん」

何かな。何か急用だろうか。僕はシンジ君の方に体を傾けた。

「渚くん、お昼ご飯食べた?」
「いや、まだだけど」
「いつから寝てたの?」
「3時間目の途中」
「そっか。じゃあいいかな。あのさ、」

そこでシンジ君は少し決まりが悪そうな顔をして僕を見た。そして、 「弁当、作ってきたんだけど……食べる?」 そう言った。

――――――――………

5時間目のシンジ君のクラスは体育らしい。
こっそり忍び込んだ教室には誰もいなかった。代わりに各机上に脱いだ制服が畳んだり脱ぎ散らかしたりして置いてある。
僕達は腰を半分屈めてこそこそと机の間を移動した。

「あった、これ」

シンジ君は自分の机の中から紺色の布の包みとペット緑茶を取り出すと、 「っしゃ。屋上だー」
「ラジャ」
天井を指で指してまた移動を開始した。

そのまま腰を屈めて廊下を進む。僕の前で ”靴下” の足が動く。それを眼で追いながら後に続く。
階段でやっと姿勢を戻してばたばたと屋上に走った。

「ふはー、誰にも会わなかったね!」
「だね」

屋上に鍵は掛かっていなかった。扉を開くと視界一杯に陽光が飛び込んで来た。
僕は陽の下に出ると、フェンスまで走って「ここにしよう!」とシンジ君を呼んだ。シンジ君は「はいはい」と言って近付いて来た。
二人向き合って胡坐をかいて座った。
日差しは暑いけど青い空がキレイだ。

「晴れてて良かったね。でもちょっと暑いか」
「うん、うっわお!」

差し出された紺色の包みを解くと、中にはプラスチックの弁当箱。透明の蓋から中の食材が透けて見える。何だか可愛らしいおかずが詰めてあって、僕は凄く、凄く凄く嬉しくなった。
今まで意識してなかった食欲が湧いた。

「わ!たまごだ!」
「うん」
「これって君が作ったの?」
「うん」
「食べていい?」
「どうぞー」

割り箸を割って卵焼きを摘んだ。口に放り込むと甘くて優しい味が広がった。

「んまい!」
「はは、良かった」

僕は……なんだかのどに甘い卵焼きがつっかえたような感覚を覚えた。いつかみたいに座る胡坐の下がふわふわしてきた。
もぐもぐと卵焼きを頬張る僕にシンジ君がペット緑茶を差し出してくれる。栄養剤の、飲み慣れたカプセルとは違う味。これは水で流し込まなくても大丈夫そうだ。
僕は緑茶を受け取ってキャップを外し、それを傍らに置くとウインナーを口に入れた。

「もぐもぐ」
「美味しそうに食べるなぁ」
「だってうまひもん」
「昨日電話で君が玉子玉子言ってたから、たまごやき」
「んん。ありがと」
「どおも」

少し照れ笑い気味のシンジ君の前で、僕は他の食材を箸で摘んだ。
おかずは甘かったりしょっぱかったり酸っぱかったりする。
食道から胃に落ちる際は味など感じないはずなのに、それでも僕はのどまで満ちた。
半分平らげて水分を取った。
シンジ君を見ると、彼は胡坐の足に手を添えて僕を眺めている。
組んだ足は、黒いソックス。
履物は…… “また” 無い。

「……」

僕は、君も食べる?と聞いてみた。

「シンジ君も食べる?」
「僕は自分の分食べたんだ。多かったら残していいよ」
「多かないよ。んまい。それより初めてだよねシンジ君」
「うん?」
「学校で弁当一緒に食べたの」

廃墟では何度かあったけど。

「そういやそうだね」
「君の料理も初めて食べたよ」
「渚くんいつもパンだったよね」
「実はいつもくれなくてケチだなーこいつと思ってたんだよね」
「……」
「実はめちゃくちゃまずいのかと思ってた」
「……残り没収」
「あはは!やだ、んぐ!」
「はっは、落ち着けよ」

シンジ君は笑いながら僕の肩を叩いた。叩かれた肩を意識する。シンジ君の黒い眼が柔らかく緩んでいる。
足元に眼をやる。足には黒いソックス。
サードチルドレン。
エヴァ初号機のパイロット。
黒のリリン。
碇シンジ…‥。

学校に通い始めて間もない僕と違い、彼のパイロットとしての知名度は校内でもかなりのものだ。
良い意味でも悪い意味でも。彼は憧れと嫌悪の対象。そしてそれは、どちらかと言うと後者の対象にされる事の方が多い。
特に零号機自爆の際に家を失った人々の子供らは、碇シンジを街の破壊者として認識している者も少なくない。
また同じ学校の生徒だったフォースチルドレンの死にも彼は関与している。極秘とされるはずの情報はどこからか漏れ、彼の立場は一層悪くなっている。
直接的な暴力のイジメがあるわけではないが……シンジ君の持ち物は、油断すると消える。
僅か9日で、色々消えた。

「……」
「渚くん?」
「んっ?んへ?」
「いつまで沢庵噛んでるの?」
「んん!ごっくん」

思わずぼんやりしてしまった。僕は噛みすぎた沢庵を飲み込んでお茶を飲んだ。シンジ君はやはり苦笑している。

「面白いな奴だなぁ」
「そう?」

返事をしながら白飯をつっついた。
シンジ君。ねぇ、君さ……。

「……ねぇシンジ君」
「うん?」
「弁当ありがとう」
「ふふ、うん」
「あのさ、シンジ君」
「ん?」
「君も体育嫌いなの?」
「えー?」
「5時間目だよ。サボった理由。君も僕と同じでかったるかった?面倒だった?珍しいよね、ここ最近真面目に優等生やってたのに」
「あ……」
「僕はかったるくて寝てたけどね。君もそうなの?」
「……」
「そうじゃないよね?」
「……」
「そうじゃないだろ」
「なぎさ……」
「昼休みに僕の教室行ってたならその間だろ?体育の前なんだから体操服だろ?あのさぁシンジ君」

一々物の無くなるシンジ君。もうさ、君、 「君損してるよ。なんかさぁシンジ君、きみさぁ、もう、」 もう…… 「もう犯人見つけて殴ってヤレよそいつらっ!!!」
「!」
「!!」

最後は思いがけず大きな声が出た。シンジ君は驚いた顔をして眼を丸くしている。
僕も少し……自分の声に驚いてしまった。

「ん、んむ!」

残りのおかずを箸で挟んで口の中に放り込んだ。白飯もついでに放り込んだ。

「んぐんぐ!」
「渚くん……」

がつがつと残りを飲み込んでお茶を飲んで、僕は弁当箱を下ろした。

「んん…ぷは!ごちそーさま!」

カチャリと蓋をした。

「あー美味しかったよシンジ君、ごちそーさま」
「……どういたしまして」
「君、料理人になれるよ」
「お、大げさだな」
「ほんとほんと。今度また何か作ってよ」
「うん」
「犯人探すのも殴りに行くのも手伝うから」
「……」
「ま、そういうわけだから。あ、ハイこれ弁当箱。ああ洗って返そっか?何なら下の水道で洗おうか?それか、」
「……ふふ」

――?

「ふふ…あはは、あっはは!」
「???」

突然シンジ君が笑い出した。体を前に倒して肩を揺らしている。

「あはは!」
「??」

僕は彼の笑いの意味がわからず、取り敢えず手に持っていた弁当箱を紺色の布で包み直した。

「ふふふっ」

シンジ君は体を起こすと、右手の人差し指と中指で軽く目元を擦りながらこっちを見た。

「……ぷっ!」

また吹き出した。なんなんだ?一体。

「ははは!」
「……なんなのさ急に」
「あはは!あー、ごめんごめん」
「僕なんか変な事言った?」
「ううん?くすくす」
「なんか僕の顔に付いてる?」
「うん」
「え?」
「ばっちりご飯粒付いてるよ」
「え?どこ??」
「ははは、ここだよもー」

シンジ君はひょい、と腕を伸ばして僕の鼻の頭を人差し指で触った。

「ほら」

ちょい、と擦られてその指を見せられると、指の先には白いご飯粒が二つくっついていた。

「ぷぷぷ」
「……いつから?」
「最後ガツガツ顔突っ込んで食べてる時から」

……言ってくれればよかったのに。
僕が半眼で抗議すると、シンジ君は面白そうに眼を細めて、 「ぷぷ。二粒も付いてるのに気付かないいんだもん。しかも鼻に」 そう言ってご飯粒をえいっと指で弾いて飛ばした。

「ああ面白かった!」
「君も人が悪いね」
「だって渚くん真顔でマヌケな事やってんだもん。ウケた!」
「まぁいいけど……」
「ふふ」

僕は布に包んだ弁当箱をシンジ君に手渡した。シンジ君はそれを受け取って脇に置くと、胡坐を崩して足を投げ出し、フェンスに背中を当ててもたれかかった。僕も同じように体を崩した。
二人で並んで晴れた空を見上げた。

「あっついねー」

シンジ君が言う。

「こんな暑い日に体育なんてしなくて良かったよ」

僕は眼だけで彼を見た。黒い眼は空を見ている。
空を見ながら唇が動く。

「僕さぁ、実はあんまり気にしてないんだ」

唇は、微笑みの形に弓を引いた。

「気にしてない?」
「うん」
「今僕が言ったやつ?」
「うん」
「そっか……」

なら、いいけど。
僕は眼を空に戻した。

「なんかさぁ、渚くん」
「んー?」
「僕達って、何だかんだで一緒にいるよね」
「そう?」
「そうだよ。廃墟でもネルフでも学校でも、最近ずっと一緒にいる」
「ああ」

まぁ、言われてみれば。

「前は泊めてくれたし」
「あは。あの時は楽しかったね」
「うん……あのさ、渚くん」
「うん?」
「君が、」

え……?

「君がいてくれて、良かったよ」

空の青さが。消えた。

「最初はやっぱりショックだったんだ。靴が無くなったり物が無くなったりするの」

シンジ君の声がする。

「覚悟はしてたけどね」

でも外したヘッドフォンから聞こえるみたいに遠い。

「でもなんかいつも君が横にいたし、いなくてもすぐに顔を合わせたし、君が全然変わらないから僕も別にもういいやって」

シンジ君

「ふふ。あーなんか改めて言うと照れるな」

シンジ君シンジ君シンジ君

「でも、僕は君がいてくれて…」
「…ッ!」
「!!」

気が付くと僕は、隣に座るシンジ君の片腕を掴んでいた。心臓が壊れたみたいに激しく鳴る。

「わ!」

横にあったはずのシンジ君の顔は目の前にあり、僕は無意識に腕を引いて彼を引き寄せたのだと気付いた。
掴んだ右手の感覚はない。しかし左の手の平に肩の骨の当たる感覚がした。
僕は、いつの間にか彼を抱き締めていた。抱き締めてしまってから、やっと自分が彼を抱いていると気付いた。
頭が……漸く腕に追い付いた。
シンジ、くんっ!

”ドッドッドッドッドッ”

胸が早鐘のように鳴る。
僕は不自然な体勢で彼を抱いていた。彼もまたおかしな体勢で僕の胸の中にいる。頭は胸に、投げ出した足は横に。お互い捻れた姿勢で固まっていた。
そしてそれが認識出来るということは、僕は眼を開けているのだ。
なのに。
なのに何も眼に入らない。腕の中の彼でさえ。
ただ胸だけが可笑しな程動いている。
こめかみに血液の音だけがする。

「……さ」

………

「……なぎさー」

シンジ、くん

「渚ー、苦しい」
「……あ」
「苦しいぞー渚ー」
「あ」
「おーい、なぎさー」
「あっごめん!」

シンジ君の声にやっと頭が回り始めた。
僕は肩に回していた腕を緩め、今度は逆に肩を押して彼を胸から遠ざけた。

「ふー」

不自然な姿勢から解放されシンジ君は下を向きながら軽く頭を振った。僕も下を向いて制服のシャツのボタンを首元で一つ外した。いつの間にか汗が首を伝っていた。あつ、い……。
僕と彼は下を向いたまま座り直し、お互い何となく口を閉じた。
こめかみにまだ血液の余韻が残っている。
変な感じだ。
離れたのに、熱い。

先に口を開いたのはシンジ君の方だった。

「渚くんさぁ、君、ああいうのってクセなの?」
「え?」

僕は聞き返した。

「癖?」
「うん。抱きついてきたりするやつ」

くせ……。

「いや、そういうわけじゃないけど」
「ふーん……」

シンジ君はそっか、と言うと前に投げ出した足を片方開いて 「ま、君にも色々あるよな」 と、同じく僕の投げ出した片足にコツンと当てた。揺れる足先にまた心臓も揺れる。
片足を添わせたままシンジ君は言った。

「まぁ確かに言いにくい事ってあるよなー。僕にもあるしー」

おどけた調子で続く。

「言えない事もあるんだろうけどー」

僕の、言えないこと?

「でもなんかいつも僕ばかり聞いて貰ってる気がするからー、だから、」

それは、

「まぁ弁当で良かったらいつでも作るから、さ」

それは……。

「うん」
「ん」

聞いて、くれるの?
本当に?

「……ぷふっ」

その後シンジ君は、またさっきの僕のご飯粒を思い出したと言って笑い出した。僕は憤慨したふりをして彼に合わせたが、本当は上がりっぱなしの体温で目眩がしそうだった。
僕の言いたい事。僕の言えないこと。
聞いてくれるの?言っていいの?
それは、それはねシンジ君。
それは……。

6時間目が始まる前に校舎に戻った。

「じゃあ渚くん、また放課後」

僕達は放課後の約束をして別れた。
放課後。放課後なんて直ぐだ。
そう思っていた。僕は熱の余韻に侵されていた。実際放課後は直ぐに訪れたんだ。
だけど。

――――――――………

だけど放課後、待ち合わせた下駄箱にはシンジ君と綾波レイの姿があった。
シンジ君はレイの横で僕に手を振っていた。
レイは彼が朝履いていたスリッパを履いていた。白い足の、黒いソックスの上に。

三人でネルフに向かった。
僕は訓練には出なかった。

END.