驚いた事に、それはバイクのパンフレットだった。
パンフレットだけじゃなくて、明らかにパソコン画面をプリントアウトしてご丁寧にホチキスで留めたような、お手製ミニ冊子みたいな物まである。そのどれもがバイク。中型バイクと原チャリ。
僕が押し込もうとしていた雑誌を見てみる。
『月刊・バイクキング』
「うわ」
驚いた。渚はバイクの情報誌を読んでいたんだ。
「ふぃ~さっぱりした。シンジ君、ごはんごはんっ」
しばらくして、びしょびしょ頭のTシャツ一枚パンツ一丁で戻って来た渚は、ソファの上でバイクのパンフレットを広げて眺める僕を見て、慌てた声を上げた。
「あわ!!あわわわシンジ君!」
急いで掻き集めて僕から取り上げようとする。
「シンジ君返して!」
「なんでだよ。見てるのに」
「いいから!あわわ!」
挙動不振だ。僕には見られたくなかったのかな。雑誌は堂々と読んでたくせに。それとも見られたくないのは――
「ねぇ渚、この印の付いてるこれって、君が欲しいバイクなの?」
パンフレットにはいくつか赤丸が付けてあった。その全部が原付バイクだ。
「う、うぐ!」
「渚ってバイクに興味あったっけ?」
「うぐぐ……」
「なんで原チャリなの?中型とかのが格好良くない?」
「うぐー!いいからもう返してよっ!」
パンフレットを取り上げようとする渚を、僕がひょいひょい腕を振ってかわしていると、 「うがー!もうっ!」 とうとう痺れを切らしたのか、シャツの下に両手を突っ込まれてくすぐられた。
「だはー!やめろなぎさっ!」
「うりぁ!」
「ぐはー!」
ごちょごちょと豪快にくすぐられて体を捩る。僕はくすぐったがりだ。それを知っている渚に脇の下を重点的に攻められて、両手をバタバタさせた拍子にパンフレットが飛んだ。
渚はすかさずそれを拾いに行く。
「あー卑怯者!」
「返さないシンジ君が悪い」
そそくさと拾い集めてベッドのマットレスを捲り、その下に全部投げ入れて上からまたマットレスを被せてしまった。そしてその上にどっかり座り込む。
……目の前でそんな所に隠しても意味ないぞー、渚。
「なんで隠すんだよ」
「か、隠してなんかないよ。それよりシンジ君、ごはんー!」
「君がバイク欲しいなんて初めて知った」
「そんなんじゃないってば!ごはんんー!」
あくまでも白を切るつもりらしい。
「別に隠さなくてもいいのに」
君だって19歳の男だ。この齢の男なら、普通に車やバイクに興味があっても不思議じゃない。
「渚も免許取れたら良かったのにね」
渚には免許がない。免許どころか、殆ど何の権利もない。
学校に通う権利、資格や免許を取る権利、成人してからの選挙権。
あるのは生きてる権利ぐらいのものだ。
『生きてりゃ十分だろ』
かつてサードインパクトで人を滅ぼそうとしていた使徒は、今は青春映画の主人公みたいな事を言う。
『それに君を好きでいる権利ならある』
……恋愛映画の主人公みたいな事も言うけど。
僕も一度は殲滅する立場だったから、彼が生きてるならそれでいいかと思う事はあるけど、やはりもう少し人並みの事が許されてもいいんじゃないかと思う。選挙権は無理でも、せめて運転免許ぐらいは。
僕は18になって直ぐに運転免許を取った。
車は高価だからまだ買ってなくて、今の愛車は専ら例の自転車。でも時々ミサトさんの車を借りてドライブしたりする。車って結構いいもんだ。
「二種や大型は無理でも、普通免許ぐらい取れてもいいのにねー」
「だからそんなんじゃないってば」
「じゃあせめて、原チャリ免許ぐらい」
「もーシンジ君っ!」
そんなんじゃないない!ごはんごはん!
渚は子供みたいなはぐらかし方で話題を逸らそうと必死だ。
確かに、こんなのが運転してたら危険かも。でも渚カヲルとバイク、ビジュアル的にはサマになると思うんだ。
「やっきそば!やっきそば!」
……いや、どうだろう。
僕は仕方なしに床に置いていたトートバッグを手に取った。そしてベッドの上に座る渚に「君も来る?」と言った。
「君も付いて来る?スーパー」
「なんで?焼そばは?」
「君んち麺しかないじゃないか」
「焼きそば麺しかないって言ったじゃん」
「……あのねぇ、君」
こいつは僕の事、呪文で食料を出せる魔法使いか何かとか思ってんのか。
「麺のみの焼きそばなんてありえないだろ。ソースもないのに。材料買いに行くんだよ」
「えー、今からー?」
あからさまに不満気な声が上がる。今からって言ってもまだ夕方だ。タイムサービスだってやってるぞ。
「疲れてるならいいよ。僕自転車で行って来るから」
「疲れてないよ」
「外食って気分じゃないから買って来る」
「面倒じゃない?僕もシンジ君の焼きそば食べたいけど」
「僕も今日は作ってやりたいからいいの。面倒だけど」
「へ!?」
赤い両目が真ん丸になった。
僕は構わず「じゃあ行ってくるね」とガラスのはめ込み扉を開けようとした。
「あ!待って待って、ちょっと待って!」
後ろから慌てた声と、白くて細身だけど力仕事のお陰で筋肉質な腕が伸びて来て、僕を引き止めた。
「何だよ。やっぱり一緒に来る?」
「あった、あれがあった」
そのまま背中を押されてキッチンに連れ込まれた。
「えーと確かここにー」
渚はブツブツ言いながら、五畳程のダイニングキッチン(実際は『台所』って感じだ)の、流しの上の備え付け戸棚の中をごそごそ漁り始めた。
「あ、やっぱりあった!」
買い置きのスポンジがぼろぼろ落ちてくる中から、缶詰らしきものが2缶出てきた。ふー、と息を吹き掛けると表面の埃がふんわりと舞って、いつの缶詰だよって感じだ。
手渡されて見てみると、それはミートソースの缶詰だった。
「ミートソース?」
「挽肉たっぷりタイプだよ」
「まさかこれで焼そば作れって?」
「どう?挽肉たっぷりタイプは」
挽肉たっぷりタイプの『隠しブイヨンでうま味とコク!ミートソース』の賞味期限は来年の2月。食べられることは、食べられる。でも焼そばに使えるかと言えば……
「そばゲッティでいいだろ。上からかけて」
「……」
その後暫らく思案した結果、そばゲッティは実行されることになった。
僕がフライパンで焼そばを炒めている間に、渚は鍋で缶詰の中身を温める。
結局一緒に作ってる。
「麺は茹でても良かったんじゃない?」
「君んち鍋一個しかないだろ」
「あそっか」
狭いキッチンにでかい男が二人(僕はそんなにでかくないけど)立って、怪しげな料理を試作する。
大丈夫かな。焼そばも麺は麺だから、まずくはない……はず。たぶん。
「んーでもやっぱ鍋が一個しかないのは不便だな。よし、もう一個買うぞ、渚」
「えー?」
完成したそばゲティは部屋に運んだ。テレビを点けて、部屋が狭くなるから折り畳んでいた小さめのローテーブルを広げて、角を挟んで座る。
「あ。意外とおいしそう」
湯気を立てる出来たてそばゲティの前で手を合わせて、いただきますを合唱。
「いただきまーす」
渚は胸に十字まで切っている。
「……むむ!こ、これはっ!」
「ん。まぁふつうに食べれるね」
「いやうまい。ぐんにゃりとした麺、妙に濃いソース。イケルよ山岡君!」
「誰が山岡君だ」
某料理漫画の主人公の名をパクる渚は、熱々のそばゲティを美味しそうに食べる。
実際ミートソースかけ焼そばは、まあまあ美味しかった。ソース焼そばとは根本的に何かが違うけど、まぁこれはこれで。
「やはりソースを手伝ったシトが上手いからね」
「君、温めただけだろ」
「シンジ君だって炒めただけだろ」
「……もう二度と作ってやんない」
「あは嘘!シンジ君天才!」
弾力のない麺を器用にフォークに巻き付けて、渚はあっと言う間に完食した。
「ごちそうさま」
ペロリと平らげて満足そうな満腹顔。
昔は『食事なんて栄養摂取の手段だろ。味がどうとか見た目がどうとか僕には関係ない』なんて言ってたのに。今は君のごはんが一番好き、なんて言う。
「シンジ君のごはんは世界一美味しいよね」
今も言ってる。
世界一は大げさだけど、そこそこ男前の整った顔が子供みたいに緩む様子は見ていて悪い気はしない。
こんな顔、ずっと見てるのも……悪くない、かな。
うん。
「渚、美味しかった?」
「美味しかった美味しかった」
「でも僕の本物のソース焼そばはもっと美味しいんだよ」
「シンジ君の焼そば食べたことない」
「じゃあ今度作るから手伝え」
「やった。豚肉たっぷりね」
「他に何食べたい?」
「えー?玉子焼き」
「じゃ、それも手伝え」
「あ、うん」
「洗い物も手伝えよ」
「うん」
「でもたまには君も作れよ」
「うん?」
「家事は分担。ゴミ出しは君。アイロンは君下手だから僕。あとは全部半分」
「え」
「門限は無し。でも連絡は入れること。くつ下は裏返したまま洗濯機にいれない。電気は点けっぱなしのまま寝ない。それから、」
「え、ちょ、ちょっと待って!何なにそれシンジ君?それって……」
僕は残りのそばゲティをぱくりと口に入れた。大体想像の付いてる渚は、ほんのり頬を赤くして口をぱくぱくさせている。
久しぶりに見たな。君が赤くなるとこ。
少しだけ勿体付けてそばゲティを飲み込む。
ティッシュで口元を拭いて手を合わせて「ごちそうさま」と言う。
渚はまだ待っている。
僕が言うのをうずうずして待っている。
ふふ。そうだよ、渚。
「ミサトさんがさ。いいって。ここに一緒に住んでも」
「うわわ嘘!!マジで!?マジでーー!」
みるみるうちに目の前のシトは、見ているこっちが恥ずかしくなるぐらい真っ赤になった。咄嗟に万歳をしてしまった両手の行き場がないらしく、空中で固めたまま眼をぱちぱちさせている。
そんな彼を見ていると、僕もちょっとだけ頬の内側が熱くなる。
ああ、なんか僕も久しぶりだ。赤面するの。
「なんでなんで!?なんで急に?三佐、君が成人するまでは絶対駄目だって言ってたのに!」
「僕が説得したんだよ」
そう、僕がお願いしたんだ。前に二人で頼んだ時は駄目だったから、大量のビールを差し入れて、僕一人で。
――ミサトさんミサトさん。
大学にはちゃんと行きます。
渚にもサボらせません。
使徒パワー使わないように見張ってます。
定期検診にも行かせます。
勿論僕も、ちゃんとミサトさんに連絡します。
だから――
「うそ……もしかして僕、シンジ君に愛されてる?」
「……ミサトさんにやっぱりやめるって言って来ようかな」
「もしかして愛されてる!?」
「……」
「愛されてるー!??」
万歳したままの渚は自分のセリフで固まっている。僕はそんな彼を無視してそばゲティのお皿をキッチンに引いた。
戻って来ると、彼はまだ固まっていた。
カチコチの両手にちょんちょんと触る。片方の手のひらを重ねると、指先だけできゅっとされた。
「……いつから来んの?」
「いつでもいいよ」
「明日から?」
「明日はちょっと早過ぎだろ。準備があるから、君の次の休みにでも」
「休み貰おうかな」
「それは駄目」
上げっぱなしの両手にもう片方の手のひらを重ねる。
もう片方もきゅっ、とされる。
「シンジ……」
「うん?」
「このまま抱き寄せて、変なことしていい?」
「ばか」
「やだだめ。変なことする」
「馬鹿馬鹿駄目だったら!」
手のひらを離して渚から離れる。渚は万歳を下ろして両手を頭に当てて、情けない声を出している。
「シンジくーん」
眼だけは真剣でじっと僕の顔を見てるから、僕はガラスのはめ込み扉を開けて、体半分だけキッチンに逃げた。
「なんで逃げるのさ」
「渚がまだ夕方なのにエロいから」
「エロくないよ、清く正しいって。こっちに来なさい」
「ふふ、やだ」
「もう一緒に暮らす仲ではないか。ささ、近う寄れ」
「そんなエロ代官やだよー」
「シンジ君てば!」
「ははは、嘘嘘冗談だよ。だからその、待っててってこと。その、ね、」
「シャワー浴びてくる、から」
……渚はそのまま後ろにひっくり返った。