海から上がるとすっかり腹ペコだった。
僕は自分で作った弁当を、渚くんはコンビニで買ったパンを食べた。
暑い日差しを避けて、海岸から遠い木陰で。それでも海は見える。一面に。
暑いけど気持ちいい。
「日焼けしちゃったな」
「葛城三佐にバレバレだね」
「う……」
「プールで焼けたって言いなよ」
「……だね」
「バレないって」
「君はあんまり焼けてないよね」
僕のこんがりした肌とは対照的に、渚くんの表面(?)は少し赤くなっているだけであまり焼けていなかった。
「僕あんまり日焼けしないんだ」
白イルカだ。僕は自分の焼けた腕と渚くんの白い腕を見比べた。そして何気なく彼の胸元に目を向けて、それに気が付いた。
「え?」
……何だろう、コレ?
僕は渚くんの胸の中心を凝視した。
「ん?どうしたのさ?」
「これ、どうしたんだよ?」
渚くんの胸の中心には、鎖骨の拳一つ下の所からおへその下まで、うっすらと真っすぐに縫った跡があった。それは目を近付けて見なければ気付かない程、薄い縫い跡だった。
「ああコレね」
渚くんは自分の胸に視線を落として言った。
「切腹のあと」
「え゙え!?」
「手術のあと」
……こっちだな。わかってたけど。
「君、何か病気なの?」
「あはは。まさか違う違う」
僕が真面目な顔で言ったからか、渚くんは大げさに手を振った。
「ちっちゃい頃のだよ。もうずっと前のやつ」
「でも……」
それにしては立派な、と言うかなんと言うか。跡自体は目立たないけど。
「検査のあと。僕んところは爺ぃさんが心配症でねぇ」
「え」
お爺さんがいたのか……。
「ちゃんと入ってるか心配だったみたい」
「入ってるか、って何がだよ」
僕は胸元から目線を上げた。思わず近付いて凝視していたので距離が近い。
「おっと」
後退して間隔を空ける。渚くんは何だか愉快そうな顔だ。
「たましい」
「え?」
「こころ」
「?」
「とか全部。肉眼で確認しないと心配だったんだってさ。爺さん達は」
そう言って渚くんは、へら、と笑った。
「どういう事?」
「んーつまりだな。内蔵やら血液やらその他もろもろの体内器官をいっぺん開いて検査して、また元通りに戻しました、ってこんな感じ?」
「な、何だよそれ」
「さぁ?」
「何だか良くわからないけど……つまりどこか悪くて、でもその場所がわからなくて、悪いところを探す為に検査したっていうこと?」
「それでいいんじゃない」
「治ったの?」
治ったんだろうな。エヴァのパイロットやってるぐらいだし。
しかし渚くんは「さぁ?」と言って立ち上がると、腿に付いた砂をぱんぱんと払った。
「どうでもいいよ」
そして遠くの水平線を眺める。少し笑って、少し眼を細めて。
僕は……渚くんの事は良く知らない。だけど。
彼にも色々あるんだろうな、と。その横顔を見てそう思った。
それから僕達はもう一度海で遊んで、砂に埋まって、最後に海水で砂を流して帰り支度を始めた。
「うへえー体がベタベタするよ」
「仕方ないよ、海水なんだから」
「シンジ君」
「んー?」
「パンツ貸して……」
「……」
結局トランクスで泳いだ渚くんは、僕の前でぺろんとお尻を出して、僕に後ろ頭をどつかれた。
濡れたパンツを二つコンビニ袋に突っ込んで、すっかりヌルくなった水を飲んで、僕達は海を後にした(渚くんは宣言通り、のーぱんで)
「あー楽しかった!」
田舎道を並んで歩きながら、渚くんは両手をうーんと上げて伸びをする。
「シンジ君も楽しかった?」
「まぁね」
「海、来たかったんだー」
「良かったね」
「君と」
「ん?」
「君と来たかったんだ」
渚くんは笑う。
「君は僕とで良かった?」
「う、ん」
まぁね。
「君とで良かったよ」
「やった!」
なんか恥ずかしい奴だな、こいつ。知ってたけど。
「ねぇ、シンジ君」
「何だよ」
「手を、」
え?
「……何でもなーい」
「な、何だよ」
「あ、早く行かないと電車来るよ」
「わ、ちょっと待てよ!」
慌てて乗り込んだ電車はガラガラに空いていて、僕達は適当な場所に適当に、また二人並んで座った。
外の日差しはもう午後で、携帯を覗くと時計表示は3時を少し過ぎていた。
「丁度いい時間だね」
「召集かからなくて良かったよ」
「だから言ったろ?」
「勘で、だろ?」
「でも当たった」
「はいはい、凄い凄い」
ふふ。まぁ、いいか。
電車は田舎町を抜け、街に戻る。この後はアスカを見舞ってネルフに行く。いつもと同じ。同じ午後。
海。いつかアスカとも来れたらいい。アスカも綾波もケンスケも委員長も。渚カヲル、も。
皆で来れたら。だけど。
たぶん、きっと。
きっと無理。
なんだろうな。
「ねぇシンジ君」
「うんー?」
「君が死んだらさ」
「は?」
「君、死んだら海に還んなよ」
「へ!?」
「だってさ、海だったら潜ったり泳いだりして遊べるだろ?土に還って腐ってただの地面になるよりはずっといいよ」
「な!」
「あれ?でも水の中でも腐るのは腐るのか」
「ちょっと!」
「あ、じゃあ魂の話か、還るのって。なんだ同じか。僕と」
「ちょっと!勝手に人を殺すなよ」
僕は呆れて惚けた声を出した。
「ん?なに?」
「何じゃなくて。ただでさえ死と隣合わせなのに、そんな事言うなって」
「えー?だって多分、僕は海には還んないと思うから」
渚くんはきょとんとした顔。
「僕だって簡単には死なないよ」
「そうかな?」
「渚くんは僕を死なせたいの?」
何て話してるんだろ。
「でもいつかは死ぬ」
「でも今じゃない。ずっと先。渚くんも僕もお爺さんになった頃だよ。だからその頃には君も海でなんか泳げないよ、ヨボヨボで」
そうでありたいと僕は思う。前はこんな事思わなかったけれど……今は思う。
「君が爺さんになった時、僕もそこに生きてんの?」
「当たり前だろ?早死にしたいのかよ」
「ふぅん」
僕がそう言うと、渚くんは楽しそうな顔をして眼で笑った。
「それもいいね」
電車はガタゴト揺れて走る。窓の風景はまだ緑。到着まではまだしばらく。
「死ぬとか、簡単に言うなよな」
僕は窓の外を眺めながら言った。
「もう誰も死なないよ。その為に戦うんだろ?」
「使徒と?」
「うん」
使徒と。自分と。僕はまだ臆病で、何も見つけてはいないけれど。
「だからさ、また」
「ん?」
「また来よう」
海。
「……うん」
また、来よう。
僕は窓の外を見ていたので、この時彼がどんな顔をしていたのかはわからない。
しばらくすると、はしゃぎまわってた疲れが出たのか、渚くんは僕の肩にもたれかかって寝息を立て始めた。顔を見ると鼻のてっぺんが少し赤い。
僕は渚くんの頭を肩に乗せたまま、再び窓の外を見た。
まだ明るい空の色。だけど夕方が近い空の色。
こんなに笑ったのはどのくらいぶりだろう。
楽しかったな。とても。
――ガタンゴトン ガタンゴトン
電車が揺れて、渚くんの髪が僕の肩にさらさら当たった。日差しに乾いた灰色の髪からは、潮風と太陽の匂いがした。
「たまにはこんな日もいいな」
僕は今日何度目かに思ったことを。電車が街に戻る前に。
今度は口に出して言ってみた。
END.