「アスカ?」
名前を呼ばれたような気がした。
――――――――………
「あなたの言う事はいつも正論ですねミサトさん。僕に逃げ場はない」
僕はテーブルの向かいに座るミサトさんを睨んだ。
冷めた夕食の乗るダイニングテーブル。目の前の女性に笑顔はなく、食事に箸も付けられていない。
僕は多分今情けない顔をしている、と思った。
「わかってますよ。これが自分の我儘だって事ぐらい」
「だったら行きなさい。逃げてばかりじゃなく」
「でも、そんなに学校が大事ですか?」
僕達が殆ど壊したのに?
情けなさを隠すため、わざと厭な言葉を吐く。
街の形も友達の命も、皆僕達が壊してきたんだ。今更学校になんか行けないよ、と。
「それにもう学校に行ってる子供なんてきっと殆どいませんよ。皆家を失って疎開してる。だって街を一つ吹き飛ばしたんだからね」
「……」
「大体今までは何も言わなかったじゃないですか。僕がさぼってるのだってとっくに知ってたんでしょう?知ってたんですよね」
「……」
「バレたら開き直るの?」
「開き直ってるのはそっちでしょう!」
僕の子供騙しの精一杯の抵抗は、大人の女性には通用しなかった。ミサトさんは強い口調で僕の口を封じる。
ああまた言い合わなけりゃいけないんだと、悲しくなった。
「シンジ君。嘘は、お互い様でしょう?」
お互い様?そうか。そうだよ。
僕もミサトさんも ”嘘” をついてたんだ。でも。
「確かに私のやり方は卑怯だったとは思ってるわ。でも今はなりふり構ってる場合じゃなかったの」
「だから手段は選ばなかったってわけですか?」
「あの子は……謎過ぎるのよ」
だから知りたかった?あいつのことを?自分の為に?仕事の為に?
僕の鞄に発信機を取り付けてでも?
海に行った事はあっさりバレた。日焼けのせいなんかじゃなくて。
『シンちゃん今日遠くに行ってたでしょう。駄目よー学校さぼっちゃ』
その時はその理由がわからなかった。
一昨日。折からの通り雨にすぶ濡れになった僕が、鞄の中まで染み込んだ水を拭いていたら。
出てきた。小さな丸いおもちゃの機械みたいなヤツが。
見た途端にハッとした。誰かに聞かなくても、何も教えられなくてもそれが何なのかわかった。
ネルフに行ったらミサトさんは驚いていた。僕が発信機の ”信号” とは違う場所に現われたからだ。彼女は言った。
『どうしたの?今日は彼とは会わなかったの?』
「僕が最近彼と一緒にいたからですか?僕の場所を辿れば彼に繋がると思ったんですか?僕ら四六時中一緒にいるわけでもないのに?」
発信機は一つだけではなかった。
ズボンの裾、ペンケースの中。僕が外出時に持ち出しそうな物の中に幾つも仕込んであった。全てが同じ機械なのかどうかはわからない。けれどどれもわかり難い小さな物だった。
不審に思って問い詰めれば、渚カヲルの名前が出てきた。僕ではなく、渚カヲル。彼を調べているのだと。
そして言われた。協力しなさい、と。
学校に行ってない事はとっくにバレてた。僕は毎朝嘘をついて家を出て、ミサトさんは嘘をついて見送ってた。その後ずっと監視してたんだ。僕といるであろう渚カヲルを。
お互い様?本当に?知らなかったのは僕達の方だけじゃないの?
だって僕を泳がせてたんじゃないか。
「ミサトさんは彼がスパイか何かだとでも思ってるんですか?」
「素性の全くわからない人間を放置しておく程、私は甘くないわ」
「パイロットだよ。僕と同じだ」
「彼は外部の人間だわ。きっと何かを知っている、我々の知らない何かを」
「……加持さんみたいに?」
「シンジ君」
「直接聞いてみればいいのに」
はは、と少し笑った。聞いてみればいいんだ。あなたは何者ですか?って。あいつはきょとんとするだろうな。
「何かあるなら簡単に口を割るとは思えないわ」
「何かって何?やっぱりスパイ?まだ子供なのに?まるで映画だね」
「シンジ君聞いて」
「ミサトさんは彼が忍者とかだったら満足するの?」
「これは遊びじゃないのよ!」
「僕達だってっ!!」
僕は立ち上がった。
「僕達だって遊びじゃないよっ!!」
腹が立った。腹が立った。ミサトさんの言葉が悲しくなった。
あいつも僕も死にかけた。綾波もアスカも傷ついた。
大人の命令で動く僕ら。一番傍で見てくれてると思ってたのに。パイロットを疑うなんて……!
「あいつは……普通の中学生ですよ。少し変わり者だけど。たまたまパイロットの資格があっただけだ」
僕達と同じだ。
「それにもしあいつがスパイとかでも」
何か秘密があるとしても。
「それって結局、大人がやらせてるだけじゃないかっ」
結局大人の命令で動くんだ。パイロットはモノじゃないのに。
僕はテーブルに手を付いて立ったまま、下を向いて一方的に感情を押しつけた。かなり厭な喋り方をしたと思う。怒鳴る事も出来なくて、口調だけで感情を吐いた。
「シンジ君……」
「……」
「そうね。悪かったわ」
「……」
「友達、なのね」
ともだち……。
――昨日、渚カヲルの部屋に泊まった。
『こうしてると友達って気がしない?僕達』
そうかもね、と答えたら、あいつはベッドの向こうを向いた。僕も逆の方を向いてたけど、顔を背けたのは気配でわかった。
しょうもない様な冗談を言い合って、少し話して眠りについた。
ただの雑談。他愛もない話。
でも話している間中、彼がずっと照れているのがわかった。
暗かったけど。向こうを向いていたけど。
何だかこっちも照れ臭くなった。
手を繋いで寝た。
不自然じゃなかった。
僕が酔っていたせいもあるけど、二人して小さな子供になったような気がした。
「友達……」
数日前。僕の携帯にメッセージが入った。
『碇、僕だよ。ケンスケ』
『悪いけど、君には会わずに行くよ。っていうか、もう二度と会うことなんてないだろうな……』
ケンスケも、委員長も、クラスの皆も、家を失って他の所へ行ってしまった。僕の友達はもうあの学校には残っていない。本当は僕を咎めるような人間は、もう学校にはいないんだ。
友達はいない。
アスカもいない。
綾波は、きっとまだ友達になる前の綾波だ。
学校に行けばそんな穴ばかり目に入るだろう。
留守電を聞いた時は悲しかった。ひどく頼りない気持ちに心が萎んだ。一人になったんだ、と。
でも。
教会に行ったらアイツがいた。いつもと変わらず「やあ」と笑った。
自分でも驚くくらい、心が埋まった。
渚カヲルで埋まった。
都合がいいけど。自分勝手だけど。少し前まではあいつの事嫌っていたのに。
一人じゃないような気がした。
笑ってくれて嬉しかったんだ。
だから余計に腹が立った。ミサトさんに。
あいつは……普通だよ。
ガタンと音を立ててミサトさんが立ち上がった。ダイニングテーブルを避けてほんの数歩、下を向いて突っ立っている僕に近寄って来る。そして肩に手を掛けて言った。
「シンジ君、でも学校には行って。出来るだけでいいから。あなたの為よ」
僕の為。それは本心ですか?ミサトさん。
「どうしてリツコさんの事は黙ってたんですか?」
「あなたに心配かけたくなかったからよ」
「あの時の、アヤナミのせい?」
「まだ、わからないわ」
「……生きてますよね」
「……まだ、わからないわ」
「二人は友達でしょうっ!?」
激しく振り向くと反動で肩に掛けたミサトさんの手が振りほどかれた。
「心配じゃないの!?」
「心配よ」
ミサトさんは少し悲しそうな顔をした。
「生きていてほしいと思ってるわ。本当よ」
友達だから。失いたくない。
それは本心ですよね?ミサトさん。
「学校には行くのよ」
ミサトさんはもう一度そう言って僕から離れた。
「ネルフだけを思い出にしないで」
そして手を付けなかった夕食にラップをかけて、明日食べるわね、と冷蔵庫に入れた。
「遊びに行くのもいいけど、携帯ぐらい繋がるようにしときなさいよ」
そう言って部屋を出て行った。
僕はテーブルに残る自分の分の夕食を眺めた。冷めた夕食。一人で食べてもきっと味気ない。
「ネルフだけを思い出にしないで、か」
それはミサトさんの優しさ?それとも嘘?
ミサトさんの追う真実にあいつはどう絡むのか。僕には何もわからない。
だけどあいつを追わないと言って欲しかった。傷つけないと、言って欲しかった。
『ふぅん、でも気にすることないんじゃない?僕は別に気にしないし』
全てを話せなかった僕。
『人には人の事情ってもんがあるんだろ?』
黙って話を聞いてくれた。
『気にしてても仕方ないって』
そう言ってくれたんだ。
「なぎさ……」
もしもあいつが何か話してくれるなら、僕も聞いてやりたいと思う。きっと冗談や軽口ばかりで変なことを沢山言うんだろうけど。それでもあいつが話してくれるなら。
僕は自分の食事を片付けた。既に食欲は失せていたので、中身を捨てて食器を洗った。
だけどこの時、本当はあいつの携帯に電話をかけて「一緒に夕食をとらないか」と。
言いたかった。とても。
言いたかったんだ。
END.