「おーいシンジ君ー、どこだー」
現れたのはカヲルである。カヲルは川上から現れた。
Tシャツに綿パン、両手をポケットに入れたスタイルで、一見散歩でもしているようだ。しかしその顔はどこか険しく、落ち着かない様子で時々大きな声を張る。
「シンジくーん!」
カヲルはシンジを探していた。
「おかしいな、いい加減姿が見えてもいいはずだけど。一体どこまで買い物に行ったんだろう」
誰にともなく一人ごちると、カヲルは右手をポケットから出し額に滲む汗を拭った。
暑い。茹だるように暑い。日差しを遮るものが何もない田舎道は肌を焦がす暑さだ。
強すぎる紫外線と照り返しにうんざりしながらも、カヲルはシンジの身を案じていた。
そろそろ……いやとっくに、カヲルはこの道でシンジを見つけているはずだった。こんな一本道、道に迷うはずもなく、しかしまだ姿が見えないとなると、何かトラブルでもあったのではないか。
エヴァの元パイロット達を乗せた一台のワゴン車が川の上流にあるキャンプ場に着いたのは、まだ幾らか涼しい午前中だった。
カヲル、シンジ、アスカ、レイ。
戦いと訓練ばかりだった子供達にたまには開放的な遊びを体験させてやろうと、ミサトの珍しい親心だった。
一泊二日、テントはレンタル。田舎の小規模なキャンプ場にはトイレや簡単な調理設備が整備されている。
夕方からは加持も参加してバーベキューをする予定で、子供達は田舎の空気と非日常なイベントにはしゃいでいた。
食材を積み、ビールを積み、ミサト運転のレンタルワゴン車は田舎道をぐんぐん走ってキャンプ場に着いた。
男子がテントを張っている間に女子は荷物をほどき、ミサトはビールを空け、ここまでは問題なかった。
問題が起きたのは、昼食担当のシンジがカレーの材料を片手に調理棟に向かった時だ。
――水が出ない。
この猛暑の最中、なんと緊急断水が始まってしまったのだ。
『いやあー参りましたわー。今年これでもう3度目の断水ですわー。何でも水源の川に繋がる取水溝の調子がどうたらとか。老朽化ですかなあ。まあーこの辺りの川には河童が住むと言うもんで、河童のイタズラかもしれませんがなぁ』
その時の管理人の呑気な顔を思い出し、カヲルは苦々しい顔をした。
『あんた管理人でしょー!何とかしなさいよー!』
アスカを筆頭に誰もが口を尖らせたが、キャンプ場の管理人に言ったところでどうしようもない。
呑気な管理人は「まあ直に回復しますわー」と気楽なもので、実際復旧するまで待つしかなかった。
さて、こうなると困ったのは昼食である。水がなければカレーは出来ない。
管理人の話によると、使えないのは上水道だけで、キャンプ場のトイレや手荒いは地下水を利用しているため使用出来る。しかし地下水は水質検査にパスしていないので飲用には向かない。
では自販機はどうかというと、キャンプ場内の自販機にはお茶と清涼飲料の類しかなかった。
すでに空腹だったカヲルはお茶カレーを提案したが、却下された。
他のメンバーいわく、キャンプ場の外にも自販機ぐらいあるだろう、水ぐらい売ってるだろう、そもそも米もお茶で炊くつもりか、と。
それもそうだなとカヲルも思ったのだ。この時はカヲルを含め皆まだ軽く考えていた。たかが数時間の断水、水ぐらい問題ないと。
しかし。
『ああそうだ、もし水がいるなら ”近所” にスーパーがありますわ。歩いて30分てとこですなあ。え?自動販売機?いやあー周りは田んぼしかないんで見ませんわ。その点うちは揃っとるでしょう?なんせ3台もありますからなぁわっはっは!』
「……こんな時必ず貧乏くじを引くのが彼の役目、か」
再びひとりごちてカヲルは小さくため息をついた。
簡単に手に入ると思った水だが買い出しとなると話は別だ。片道30分なら往復1時間。ミサト飲酒中につき徒歩でとなればこの暑いのに行きたがる者はいない。
必然的にじゃんけんが行われて、必然的にシンジが負けた。渋るシンジにコーラだのカルピスだのとついでの買い物を押し付けて、皆は彼を送り出した。
それからかれこれ2時間。
管理人の話より1時間は過ぎて、さすがに遅いと皆が気付いた。代表してカヲルが探しに出たものの姿が見えない。カヲルは焦りはじめていた。
「シンジ君ー!」
再度声を張ってから気が付いた。
一本道の先、陽炎に揺れる道路の上に何かが置いてあるのが見える。
小走りに近付くと、それは白いビニール袋に入った何本もの缶とペットボトルの飲料だった。
「これは……」
その飲料がキャンプ場のメンバーのオーダー品だということは一目で気付いた。
異常を察知し素早く周りに目を配ると、河原――道路と平行に流れる川の土手の上――に、探していた少年の姿が見えた。
「シンジ君!」
急いで土手を駆け降りる。シンジは水際に倒れていた。繁る雑草に顔を埋めるように俯せで横たわっていた。
「シンジ君!シンジ君しっかりしろ!」
背中を揺さぶるが反応がない。肩を押して体を反転させ、仰向けにしてもシンジは目を開けなかった。
カヲルはぞっとした。
顔は青白く、苦しげに眉を寄せ、汗だくで横たわるシンジの下半身は何も身に付けていなかった。脱いだらしいズボンは直ぐ側に落ちていて、所々濡れている。
シンジの身に何か異常な事が起きたのは明らかだった。
「まずい、熱中症か」
慌てて日陰を探す。周囲には土手にも道路にも街路樹はない。しかし数十メートル程下流に、河を跨いで架かる橋があった。
「待ってろ」
脇の下に腕を入れ、上半身だけを持ち上げて引き摺りながら橋の下に移動する。むき出しの下半身が痛そうだったが今はそれどころではない。
橋の下の日陰にシンジを横たえ、自分はTシャツを脱いで川の水で濡らし、シンジの首や体に押し当てた。
「ちっ、携帯があれば」
折角アウトドアなんだから、というミサトの提案でテントに携帯を置いてきたことを後悔した。直ぐにでも救急車を呼びたいところだが、周りには公衆電話どころか人も車も見えない。
仕方ない、一旦走って戻るかと考えた時、シンジの口から呻き声が聞こえた。
「う……うぅ」
「シンジ君!」
「う……ん……な、ぎさ?」
「シンジ君!よかった気が付いたんだね!」
「渚、僕、どうし…」
シンジは体を起こそうとして頭を押さえた。
「……っ」
「無理しない方がいいよ。君気を失って倒れてたんだから」
「……え?じゃあ渚が助けてくれたの?」
日陰に運んだだけだけどね、そう言いながらカヲルはシンジが体を起こすのを手伝った。
「そっか……ありがとう」
「驚いたよ。帰りが遅いと思って来てみたら君が気絶してて。大丈夫?気分悪くない?」
「ちょっと頭が痛いかな」
「何かいるものある?」
「水を……」
「水だね。ちょっと待ってて」
カヲルは立ち上がり、土手を道路に向かって登り始めた。
その後ろ姿を眺め、シンジはふうと息をついた。
――僕、気を失ってたのか。すごく暑くて水を飲もうとしたところまでは覚えてるけど。
渚には迷惑かけちゃったな。ここまで運ぶの重かっただろうな。
だけどお陰でだいぶ楽になった。とにかく歩いてる時は暑くて暑くて、だけどここは日陰で幾らか涼しくて、それにズボンも脱いでて風通しが良くて……風通しが……良くて……風……よく……
「えっ!?僕ズボン!?」
シンジはガバリと立ち上がった。立ち上がった際に目眩がしたが瞬時にどこかに飛んで行った。
シンジの視線の先、本来ハーフパンツが見えるはずの下半身は裸だった。
「えっ!えっ!?えええ!?」
両目を見開いても瞬きをしても、やはり下半身は裸。むき出しの両足と両足の間の息子が生ぬるい風に吹かれてスースーしている。
「えっ!?ちょ、えっ何!?」
思いきり血の気が引いて行く。何故こんな野外で丸出しにしているのかわからない。
パニック状態で裸の太股をあちこち触る。触ったところで裸なのだが触って確めずにはいられない。
シンジは太股と股間をアワアワと擦り、そしてその手が臀部に触れたところで悲鳴を上げだ。
「ひいっ!!?」
臀部――つまり尻はぬっとりとした何かで濡れていた。手はぬるりと尻の上を滑り、その手を恐る恐る確認すると白っぽく濁った粘液質のものが目に入った。
「!!」
冷や汗が吹き出す。それと同時に尻の違和感に気が付いた。今滑った手の周辺、尻の頬っぺたがヒリヒリする。いや尻っぺただけではない。
尻の穴も……ヒリヒリする。
「シンジ君!水だよ」
「!!!」
カヲルの声にはっとして顔を上げだ。同時に仰天して目が飛び出た。
白いビニール袋を手に土手を下って来るカヲル。さっきまで意識せずに見ていたカヲルの姿は、改めて見ると上半身が――裸なのだった。
「はいこれ、だいぶ温くなってるけど君が買ってきたやつ。飲むといいよ」
「なっ、なっなぎさっ、なっなぎっなっ」
「ああまだ意識が混乱してるのか。本当に大丈夫?やっぱり誰か呼んで来ようか?」
「な、渚っ、な何で僕っ、ズボン脱いでっ」
「ああそれなら僕が見つけた時にはもう脱いでたよ。君が自分で脱いだんだろ」
「なっ!ぼっ僕そんなことしてないよっ」
青ざめた顔でシンジが否定すると、カヲルはフッと笑った。
「シンジ君、恥ずかしがることはないよ。確かに人前ですることではないけど、どうしても我慢出来ないこともある。幸い人気もない場所だし、河原でこっそり……仕方ないことさ」
「なっ何の話だよ!」
「君はこの暑さでやられてきっと理性が生理的な現象に勝てなかったんだ。耐えきれずにシてしまった。そういうこともあるよ」
「ないよ!絶対ない!」
ポロシャツの裾を思いきり引っ張って股間を隠しつつ、シンジはアワワと怒鳴った。
「そっそれに君はっ、渚はなんで上着てないんだよ!服はっ!?」
「ああこれ?これは君のために脱いだんだよ。ほらそこ」
「!!??」
カヲルは言うと、シンジの足元を指差した。そこにはぐっしょりと濡れたカヲルのTシャツがあった。
「君の体があまりにも火照ってたからね、静めてやろうと思って。お陰でそんなに(川の水で)濡れてしまった。でも君の(首)に当ててやったら(冷たくて)気持ち良さそうだったよ」
「気持ち良……は!?」
「最初は(熱中症で)随分辛そうだったけど、たっぷり濡らしたら楽になったみたいだ。(冷やして)良かったよ」
「ぬああ!!?」
カヲルは再びにこりと笑った。だいぶ言葉が足りてないようだが気が付いていない。
シンジは青ざめを通り越して白ざめた。頭の中が暑さとは別の理由でぐわんぐわん揺れる。
「……な、渚、僕お尻が……ひりひりするんだけど……」
「ああそれも僕のせいだよ。僕が強引に動かしたから」
「……お尻……なんか濡れてるんだけど……」
「それは君のじゃない?君が(トイレを)したやつ。お尻に関しては僕は動かしただけだよ」
「動かした……」
「そう、押したり引いたり」
「押したり……」
「引いたり。少し激しかったかな」
「……」
「あは、(君が無事で)本当に良かったよ、シンジ君」
その瞬間、確かにブチリと音いうがした。
「ななな渚!!渚あああーー!!!」
「うん?どうしたのさ」
「さっ最低!!最低だ君!!サイテーだあああーー!!!」
シンジは真っ赤になった。顔を火山のように赤くして目を吊り上げ、その姿はさながら暴走した初号機のようである。
「さいてーだ!最っ低ーだ!サイテー!!」
「なんで怒ってんの?」
「うるさい!変態!君がそんなにケダモノだとは思わなかった!もう君のことは金輪際信用しない!」
「なんだかよくわかんないけど……」
「うるさああい!さっさと僕のズボンを持って来ーーいうわあああん!!」
「えーー??」
足元の小石を拾っては投げ拾っては投げ、シンジの剣幕にカヲルは慌ててハーフパンツを拾いに走った。
下着ごとパンツを手渡して「これも濡れてるよ」と言った途端蹴りが飛んで来たが、間一髪のところで避けて首を捻った。
「だからどうしたのさって急に」
「うるさいうるさいうるさーい!痴漢変態変質者ー!!」
「??」
その後、濡れたハーフパンツを投げ付けられ、履いていた綿パンを剥ぎ取られたカヲルは、シンジの代わりにパンツ一丁にされた。
シンジはカヲルのズボンを履いてズンズンとキャンプ場に戻り、カヲルはその後を大量のペットボトルを抱えて追いかけた。
「シンジくんってばー」
「渚のバカヤローー!!!」
――――――――………
二人が消えた後、父子の河童は川縁にぷかりと頭の皿を覗かせた。
「……見ただろう息子よ。あの人間の剣幕を。尻子玉を抜かれかかったと知ればたとえ同族であろうと容赦なく攻撃する。あれが人間というものだ」
「うん父ちゃん。あいつ……恐ろしかったね」
「あれが我々に向けられていればどうなっていたことか。とても死にかけていたとは思えん荒々しさだっただろう」
「うん……」
「さあわかったのなら息子よ、やはり尻子玉のことなど忘れて母さんにはカニを捕っていってやろう。そろそろおやつの時間だ」
「オイラタニシにする!」
「はっはっはっ、それなら向こうにたくさんいたぞ」
父子はきっぱりと諦め、顔を見合わせて水に潜ると、スイと川を泳ぎ始めた。
とにもかくにも炎天下である。人も河童もこの陽気に炙られていてはおかしくなるのである。
父河童は泳ぎながら少しだけあの尻を思い出した。結局見ることのなかった夢の玉。出てきたらどんな色だったろうか。
「……そうだ父ちゃん、シュスイコーってやつに詰めた石はどうしようか」
「んなっ!お前はまたそんなイタズラを!」
「だってー面白いんだもん」
「もう良い、放っておきなさい。必要とあれば人間が勝手に取り除くだろう」
「はあい」
「それにしても人間は川の中にまであれやこれやと造りよって。昔は橋一つ架けるのにも河童の機嫌を伺ったと聞くのに今の人間ときたらうんぬんかんぬん」
「あはっ父ちゃん年寄りくさーい!」
とにもかくにも。
炎天下の話であった。
END.