それからの僕は浮遊している。
中庭で別れてからきっちり一時間後。
僕の部屋に現われたシンジ君は、来るなり僕の左手を取り上げた。
「……何でハンカチ濡れてるんだよ」
「風呂掃除してたから」
「……君、馬鹿だろ」
そして持参した小さなビニール袋から包帯やら消毒薬やら色々取り出すと、僕の中指はあっと言う間にぐるぐる巻きのミイラにされた。
「ちょっと染みるよ」
「シミルッ!」
「ちょっと痛いかも」
「痛ーーい!」
「大げさっ」
「あははー」
どうやらわざわざ医務室まで行ってくれたらしい。「君が大人しく行かないからだ」と笑いながら怒られた。
僕は包帯で動き辛くなった中指見た。
消毒は結構染みたけど、何だかそれも悪くない。
ほっぺの内側がこそばゆくなった。
「ありがとう」とお礼を言って「どういたしまして」と返されると、余計に顔が締まらなくなった。
「何またニマニマしてるんだよ」
そう言われたので、もしかしてまた照れてたのかもしれない。
「洗って返すよ、ハンカチ」
「別にいいよ」
「じゃ、新しいの買って来る」
「だからいいって」
「それどうすんの?いらないの?」
「もしかして欲しいの?」
「うん」
「こんなのが?なんで?」
シンジ君は僕のベッドに座って聞いた。カバンと携帯電話をその辺に放る。
「うーん何となく?」
「血、取れないかもよ?」
うん。いいよ。
「変なヤツ」と言いながら、シンジ君はカバンに入れようとしていた濡れたハンカチを僕にポンと投げて寄越した。
「洗剤に浸けときなよ。少しは落ちるかも」
「ラジャ」
まるで主婦(夫)だ。
僕は鼻歌交じりでバスルームに行くと、洗面器に水を張って中に洗剤とハンカチを入れた。
「包帯濡らすなよー」
濡らさないように右手でかき混ぜると、水っぽい泡がぶくぶく立った。
くるくる回る薄水色のハンカチ。乾いた血液はもう取れないかもしれないけど。
「ま、いっか」
何だか足元がふわふわしてきて、フンフン歌いながら部屋に戻った。
それからはもう、びっくりするくらい楽しくて。
僕達は食事を摂る為に食堂に行き(僕の部屋はネルフの施設内にある)、やっぱり味気ないってんで ”外” に出て、二人でファストフードをパクついた。
コンビニでおやつと雑誌とトランプを仕入れ、暗くなった街をぶらぶら歩き、ゲーセンの格闘ゲームに熱狂した。下手くそなシンジ君に一回わざと負けてやると、余計むくれて小突かれた。
夜の街を更に歩く。
コンビニ袋を引っ提げてネオン街を覗く。
酔っ払いとおねーさんを眺めてへぇ、と言い、オネエさんを見つけておお!と言った。
ストリートミュージシャンを立ち聞きした。帽子に小銭を入れてみた。
テレビで見るような怪しい外国人。誘惑の粉。魅惑の家出少女。
補導員を避けて裏道に入った。イカガワシイお店の看板を見学した。黒服のボーイに声をかけられる僕をシンジ君が引っ張って走り、表通りに戻って地べたに座った。
お菓子を開けてシンジ君が放った。僕が口で受けて食べた。
楽しい、楽しい。凄く、楽しい!
足元がずっとふわふわする。
浮遊感。高揚感。
歩いても走っても飛んでるみたい。空気の入った分厚い靴が足元の着地を妨げている、そんな感じ。
シンジ君は、はしゃいではいないけど楽しそうで、僕は「テンション高いなー」と言われたのではしゃいでたみたいだ。
「制服で来ちゃまずかったかな?」
「自販機ならバレないさ」
最後にこっそり甘いお酒とビールを買った。
そして今は――
「男だらけの神経衰弱大会っ!イン、ネルフッ!」
「何だそれ?」
「どんどん!ぱふっ!」
二人してまた、僕の部屋にいる。
「渚くんはズルしてる気がするよ……」
「何でさ。実力だよ」
「3連勝は有りえない」
「3連敗も、有りえない」
すでに二缶も空けた甘いお酒のおかげで顔の赤いシンジ君は、床のトランプを眺めつつ、神経衰弱の結果に不平をもらした。
「何かの陰謀だよーこれ」
「何言ってんの」
僕は350mlのビールの缶をプシュと開けて「はい、ではどうぞ」とシンジ君に差し出した。
「……これ、飲むの?」
「罰ゲームだからね」
「君、飲んでないだろ」
「負けてないもん」
シンジ君はむむっと眉間にシワを寄せた。
「ズルしたろー!」
「してないってば」
トランプをバラバラ投げてくる。
「もう飲めないよー。ただでさえ床がふわふわしてるのに」
「ふわふわしてんのは僕も同じだよ」
「えー?」
「いいから、はい!これ飲んで」
シンジ君は眉間を寄せたままビールを受け取った。うーとか、むーとか言いながら口を付ける。シラフの僕はそれを眺めた。
アルコールのせいで赤い顔。とろんとした目はいつもの半分の大きさだ。
少し時間を置いて、やがてそののどにゴクリと音を鳴らしてビールが入った。
一口、二口、三口目でぷはっ!
「あーもう駄目!」
本当に駄目って顔をした。
「ビールってどんな味?」
「君も飲んでいいよー」
「君が飲んで教えて」
「もおー」
シンジ君は胡座を崩してグダグダに座り、部屋の脇に寄せたセンターテーブルにもたれかかった。
「……の、味」
「え?」
半分開いた眼で少しだけ天井を見た。
「シンジ君?」
「……っしゃ!飲むぞ!」
シンジ君はふらふら揺れながら体を起こし、再びビールの缶に口を付けた。
ひとくち、ふたくち、みくち、よくち。
「んむぅ」
眉毛がぐぐーとハの字になって、目蓋をぎゅっと閉じる。口元から溢れたビールが顎に伝う。それが更に下に落ち、喉元と胸のシャツを濡らした時、僕は腕を伸ばして横から缶を取り上げた。
「はいストップ」
「ぶはぁっ」
「本当にやばそうだね」
本当にやばそうだ。
「もおすこし~だったのにい~」
「あはは。変なの」
「なんらよ~ら~~」
僕は残り3分の1程になったビールの缶をくんくん嗅いだ。口を付けてくいっと一気に飲み込んだ。
「ふん」
まぁまぁかな。
残りのラスト一缶のプルトップを開けて、ぐびぐび最後まで飲み干した。甘くない炭酸だ。
「のめるんらったら最初からのめよ~」
「だから罰ゲームだってば」
「よっぱらい~」
「シンジ君がね」
シンジ君は「にゃにおう」と言って床にごろりと転がった。どうやらアルコールは弱いらしい。横になったまま猫みたいな声を出している。
「にゃはは。天井がまわてらら~」
何語なんだか。完全に酔っ払いだ。
僕はそんなシンジ君を眺めた。
さっきから顔は真っ赤で目は虚ろ。大の字になって右手を空に突き出している。指をくるくる動かしているところを見ると、どうやら回る天井を掴もうとしているらしい。
人って酔うとこんなになるのか。ネオン街で見たおっさんと同じだな。
何だかこれも面白い。
やはりリリンは集団たる不完全。皆どこかで繋がっているという事か?
「シンジくーん」
僕は四つん這いになって近付いた。
「天井止まった?」
ていうか、どういう風に見えてんの?
止まらなーい、と返事が返ってきて、伸ばす腕が二本になった。
少し飲ませ過ぎたか?
「おーい大丈夫?」
四つん這いのまま上から顔を覗き込む。シンジ君は、らいじょぶらいじょぶ、と言って両手をぱたぱたさせた。
「ホントに?」
「へーきへーき」
とろんとした眼と目が合った。酔ってるせいかうるうるで「にへ」と笑って見つめ返された。
ふんふん。これはこれで、面白い。
酒で潤む彼の黒。見てるとやはり、触れたくなるけど……。
「水飲むかい?」
「いらなーい」
……そっか。シンジ君は両手を下ろして眼を伏せた。口元だけが笑みの形。
ねぇシンジ君。きみ……。
僕は座り直してベッドの方を向いた。
そこに転がっているのはシンジ君のカバン。そして携帯電話。うちに来てすぐ電源を落とし、ベッドの上に放りっぱなし。外に出た時も持って行かなかった。
一度も見ようとしない携帯電話。
かかってきて欲しくない電話の相手が多分 ”今夜” の理由。
「……」
セカンドは違う。僕は思った。意識のないセカンドは違う。
ファーストも、多分違う。
考えられるのは級友か父親か、それとも……。
「葛城三佐?」
「……」
『ミサトさんの味』
葛城ミサトはビールがお好き、か。