「シンジ君」
「んんー?」
「シャワー使う?」
「あとでいーい」

そう。僕はよいしょと立ち上がってシンジ君を見下ろした。

「んじゃ、僕は先に入ってくるよ。君は寝るならベッドに上がってなよ?酔っ払い君」
「ラージャ」

床の上から右手が挙がった。

タオルを持ってバスルームに向かった。ハンカチの入った洗面器を思い出し、取り敢えずドアの外に置いた。

「フンフンフン♪」

蛇口をひねってお湯を出す。左手の包帯は。

「一度取るかな」

しゅるり。左腕が一気に侵食された。

白く太い血管のような腕の中の ”使徒” 。中指を始点に網状に広がり、手首と腕の関節辺りでどくどくと脈打った。

「フンフン♪」

シャワーで頭から全身を濡らす。シャンプーを泡立て髪を洗う。腕を曲げると肘の外側が引き伸ばされて吊れ、代わりに内側に網の目が集中した。
髪を適当に流して体を洗う。乾いた汗を石けんで落とし、頭からお湯をかけたまま歯を磨く。
あ。僕も少し酒臭いかも。

腕の中の蛇は僕の中を動き廻る。肩口から先へ進めないのが歯痒いのか、肩の手前で密集して網を張る。
網の目は次第に密度を増し、腕と手首の伸縮を妨げる。僕はおかまいなしにシャワーを掴んで流し足りない髪をゆすいだ。
その接触面から腕の蛇が外に出る。
シャワーヘッドに張り出す網。
ホースを伝って洗面台へ。
洗面台から壁際へ。
そこから更に壁全体へと僕の神経を張り巡らせる。
右手でコンディショナーの蓋を開け、中身を直接頭に出して容器を放る。そしてまた右手でそれを髪に塗ると、左手と融合しているシャワーで流した。

「ふう」

最後に全身をお湯で流してシャワーを止めた。
中指を折る。浴室に張り出した網の目の ”僕” がびゅるりと引き剥がされて元へと戻り、僕の左手は自由になった。体を拭いた。
ふぅん、なかなか。
張り切ってるね。アルミサエル。既に実態も魂も無いんだろう?
僕の一部になってまで、そんなにあそこ還りたい? 意志も体も心も無くして、そんなにアレに還りたいっての?
まぁいいさ。だけど彼の前じゃ大人しくしてなよ。もし今度昼間のように出しゃばったら消すからね。
その代わり、君がいい子にしてたらその時は……。

「連れてってやるよ」

アダムに、ね。
だからもうしばらく大人しくしてな。

僕はタオルでごしごし頭を拭きながら部屋に戻った。

「おーいシンジ君、もう寝てる?」
「……」

……寝てるみたい。

ガサゴソゴソ。シンジ君を起こさないように袋をあさる。彼が持って来てくれたビニール袋の中から包帯を取り出して、端っこを咥えて何とか不恰好に中指を縛った。
歪なミイラ。でもこれが、アルミサエルの檻。
それから僕は、ベッドの上の荷物を床に退かすと携帯だけを枕の上に置いてシンジ君に声をかけた。

「ねぇシンジ君」

風邪ひくよ?

「ベッド半分、使っていいよ」

……返事がない。
僕は仕方なしに床に降りた。彼の腕を引いて上半身を起こし、肩を回して持ち上げようとした。
さすがに重くて抱え上げる事は出来なかったが、それでも何とか引きずってベッドの上に移動させる事が出来た。

「それっと」
「うー…」

最後は少し投げてしまった。シンジ君は俯せに着地して呻き声をあげる。
やばい、起こしたかな?

「……」

起きてはいないみたいだ。僕は横たわる彼を眺めた。
短い睫毛。ピンクの頬。
こういうのをなんて言うんだっけ?
呼吸の度に少しだけ漏れるアルコールの匂い。
やはり少し、触れてみたい。
ふれてみたい。けど……。

「……」

部屋の灯りを消した。急に暗くなって目が慣れない。手探りでベッドとシンジ君の位置を確認した。
ベッドの手前の彼を股越して奥に行く。彼の隣に横になる。
念の為に左手側は避けた。シンジ君は僕の右側。
布団を半分自分の肩に掛ける。もう半分は彼の肩に。
おやすみ、シンジ君。
今日は君といられて楽しかったよ。
目を閉じた。

目蓋の裏に闇が寄る。シャワーで覚醒したのか意識が微睡むにはまだ遠い。
右、を意識する。
触れない程度の距離。しかし布越しに体温が伝わってくる。
ヒトの気配。彼の匂い。暖かく心地良い。
シンジくん……。

右が少し、熱い。
僕は少し落ち着かなくなった。

カサリ、と音がした。
シンジ君が寝返りを打つ気配がした。寝返りでこちらを向いたのか、少しだけ彼の気配が強まった。

――トクン

僕の心臓が動く。
また少し彼の動く気配。布団が軽く引っ張られたので、仰向けになったのだとわかった。何故だか呼吸がし辛い。

「!」

右の手の甲に、彼の指が触れた。
寝返りを打った時の偶然だろう。触れる、と言うよりは軽く当たる程度の接触。それでも僕の意識は緩く乱れた。
腕を動かした。彼の指が当たらない位置へ、そっと。
……が、その指を。
掴まれた。
僕の心臓は跳ね上がった。

「え?」

掴まれ、てる?
掴まれてる。シンジ君に?僕の指を。手の甲を。
なんで?なん……

”どく、どく、どく、どく、どく、どく、どく、どく、”

な、んだ?
なに、これ?
これ、何の音?
今までの胸の苦しさなんてまるで比じゃない。制御できないくらい心臓が跳ねる。喉元が塞がれ呼吸が詰まる。 乱れ、騒ぎ、体温が上がる。
指。僕の右の手を掴む、彼の指。
体ならさっき僕が抱えてた。肩を抱えて運んでた。今までだって何度も触れた。……のに。
指。
軽く添えられただけの数本の指。
微かに感じる指先の力が、ただの偶然ではない事を物語る。 彼の方から触れている。なぜ?どうして?どう……

「シ…」
「……渚くん」
「!」

あ……

「何、シンジ君?」

嫌だまだ。はなさないで……

僕はシンジ君に悟られないように呼吸を整えた。急激な心拍数の上昇で息苦しい。暗闇の中、彼に頭を向けて深呼吸した。

(は…ぁ…)

心音が少し落ち着いた。

「なんだ、起きてたんだ?」
「ううん、今……」
「起こしたかな?」
「ううん。ありがとう、わざわざベッド貸してくれて」
「ああこれね」

別に……いいさ。

「前の時も、ありがとう」

シンジ君は少し動いて、多分僕とは逆の方に顔を向けた。少し声が遠くなった。
僕は緩やかに理解する。そうか。ここからは ”君” の時間、か。

「……何かあったの?」

今日は今まで ”僕” の時間だった。

「葛城三佐のことだろ?」

だからきっと今からは ”君” の為の時間なんだ。

「言いたくない?」

シンジ君……。

『だからここがいいんだ』と君は言った。『一人になるのが恐いんだ』と。
綾波レイが死んだ時、彼はここから動かなかった。
きっと今回も同じ理由。違ってもきっと似た理由だろう。
非難所か。僕の部屋。
それでも。それでも、僕は。

「……ミサトさんが」

……うん。

「嘘をついてたんだ」

うん、そう。そっか。 シンジ君……。
シンジ君は小さな声で話し始めた。

葛城ミサトが嘘つきだ、とシンジ君は言った。僕に真実の一部を見せておいて肝心な事は隠すんだ、と。
赤木リツコが行方不明なのだと言った。

「前に僕が熱中症で倒れた時、リツコさんが来て診てくれたと言ったんだ。だけどそれは嘘だった。僕にそう思わせたんだ」

赤木リツコは少し前から行方不明で、皆してそれを隠してる。

「何の為に?」
「わからない」

自分は何も知らないんだ。父さんの事も。エヴァの事も。君の事も、と。

「僕?」
「うん、君」

君、多分監視されてるよ、とシンジ君は言った。

「いつものネルフによる監視じゃない。もっと別の。何の為かはわからないけど」
「……」
「なんでこんなことするんだろう。パイロットはモノじゃないのに」

僕の手に重なったままの彼の手が少し震えた。僕はこの話の中に自分の名前が出てきたので少し驚いたが、それでも彼が気に掛けてくれていた事実に心が乱れた。
シンジ君は途切れ途切れに、断片的に、少しずつ僕に不安を吐き出した。
答えなど求めてない。どうやってそれが嘘だと知ったのかも語らない。ただ誰かに打ち明けたかっただけなのかもしれない。
僕は暗闇の中、天井を向いて、できるだけ右手を意識しないように話を聞いた。
意識すればきっとまた僕の時間になってしまう。今はまだ、彼の時間なのだから。

「ごめん。いきなりわけわかんないよな、こんな話されて」
「いや」
「僕も同じだよな。肝心な事は言わないで都合の良いことばかり話してる」
「……」
「皆と同じだ」
「……」
「……ごめん」

いいよ。僕は何となくわかるから。
君の知らない真実は、僕の知ってる事実だから。

「ふぅん、でも気にすることないんじゃない?僕は別に気にしないし。人には人の事情ってもんがあるんだろ?」
「え…?」
「嘘ならつかせときなよ。監視もしたいならすればいい。大人も案外暇ってことだろ。気にしてても仕方ないって」
「……」
「まあでもバレるような嘘や監視なら逆効果だよね。やるなら今日の僕らの夜アソビみたいにうまくやらなきゃ。いや待て、もしかしてこれもバレてんの?てことは僕も後で三佐に怒られる?まずいな、ビール残しときゃ良かった。いやでも子供が大人にビールの賄賂ってのはアリなの?でも三佐の好物なんて僕にはわかんないし、ましてや監視員の好物なんて想像も、」
「……」
「何?」
「……さすがと言うか、何と言うか」
「何が?」
「君は凄いよ」

シンジ君は顔をこちらに向けた。僕も闇に慣れた目でシンジ君を見た。
ありがとう、と彼は言った。

「ありがとう……聞いてくれて」
「どういたしまして」

シンジ君は笑った。

僕は重なり合った右手を反転させた。
今度は手のひらと手のひらを重ね合う。内側で触れ合う指と指。
少し、握った。

「渚くん?」
「なんかさぁ」

僕は天井に向かって言った。

「こうしてると友達って気がしない?僕達」

遊んで笑って話を聞いて。何だか普通の友達みたいだ。
シンジ君はえぇー?君とぉー?だなんて笑っていたが、少し間を置いて、向こうを向いて、 「うん、そうかもね」 と、言った。

ああまた僕の時間が戻ってきた。再び鼓動が乱れだす。でも……。
僕は右手の代わりに ”左手” で、ぎゅっとシーツを握り締めた。
シンジ君。シンジ君。シンジ君。
ねぇ。でも、もしかして。
今は ”二人” の時間だと。 思っていいの? シンジ君……。

重ねた手はそのままに。僕達は冗談を言って少し笑って、やがて友達の夜を夢に溶かした。

END.