※はじめに

このお話は、カヲル君とシンジ君の名前だけを借りたパラレル作文です。
文中に説明はありませんが、舞台は少し昔の日本、カヲル君とシンジ君は二十代後半~といったところです。
お話の内容上、カヲル君とシンジ君の性格も口調も変えてあります。舞台背景、細かい設定などは自由に想像して下さい。
パラレル設定が苦手な方、キャラ改変が苦手な方、原作のイメージを壊したくない方は、見ない事をお勧めします。

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【宿題】

彼は僕が好きなのだと云う。
どうしても僕が好きなのだと云う。
ならば僕のどこが好きなのかと訊ねたら、それが分からないのだと、こう云われた。

「分からない?」
「ええ、分からないのですよ」

縁側に差し込む午後の西日。その白けた陽の中に腰掛け、庭の三毛猫に麩(ふ)菓子を放る青年。
麩菓子など見向きもしない三毛に「贅沢だねぇ」と笑い、渚カヲルはこちらを見ずに答えた。

「分からないのですよ、それが」

僕は室内で墨を磨る手を止めた。チビた墨を脇に退け、座卓の上の筆箱から馬毛の筆を一本取り出した。

「分からないとはこれまた可笑しな事を云う。自分の事ではないのかね?」

渚君に眼を遣ると、彼は懲りもせず二つ目の麩菓子を庭に投げている。三毛は日当たりの良い庭でふかふかと蹲(うずくま)って動かない。ふあぁ、と欠伸をするばかりだ。

「やぁこの猫、麩菓子も喰わぬくせに随分と口が大きい。虎の児ではありませんか?」
「虎など庭で飼えますか。それより渚君、庭が散らかるから菓子を投げるのはお止めなさい」
「おや、これは失礼」

ぱくり。三つめの麩菓子は自分の口に。おどけて頬張り、渚君はこちらを振り向いた。

「先生、何をお書きで?」
「何が良いと思いますか?」
「お決まりでないので?」
「ふむ。君の歌でも詠もうかと思うたが、分からない云われては興が冷めてね」
「やれやれ、さっきの質問は歌の種ですか」

非道いなぁ。渚君はそう云って四つ目の菓子を口に運ぶ。 傍らの皿にはまだいくつかの菓子が小山を作っている。麩菓子が好きなど、まるで子供みたいな奴だ。

「非道いなぁ先生は。僕の気持ちなんて、歌の肥やしだ」

僕は手にした筆を墨に浸し、磨りたての墨の香に思案を巡らす。さて、何を書こうか。

「肥やしにもならぬ話でしたがね」
「分からないと云ったからですか?」
「実に主体性のない返答だ。自分の事も分からぬとは」
「だって、本当に分からないのですよ」

西日が渚君の髪を照らす。珍しい灰色の髪は光に透け、室内のこちらからは白髪に見えて面白い。
ふむ…。
僕は『髪』に連なる言葉を想像した。

「僕はもの心付いた頃から先生の虜だ。どこが好きかなんて、好きの理由など考えもしませんでしたよ」
「もの心って、君。君と僕が出会った時、お互い十四ではなかったですか」
「僕は十五でした」
「ならば余計にだ。もの心と云うには遅すぎる」

硯の中の筆をふぃ、と動かす。さて『髪』とくれば何が良いだろう。

「先生に逢う前の僕は生まれてないも同然でしたよ」
「よく云いますよ、名家渚家の我儘息子。好き勝手にやっていたでしょうに」
「それでも恋は知らなかった。恋を知る前の僕など、在って無い様なものです」

本気か嘘か。渚君の声に淀みはない。しかし淀んでないからといって澄んでいるかといえばそうでもなく、どこか子供じみた、のらくらと遊ぶ様な独特の声だ。

「相変わらずだねぇ」

盛大に愛を語るのに熱がない。

「まるで冷えた水の様だ」

心地は良いが、浸かりたくはないね。

「水ですか?」
「水です」
「いけませんか」
「いけなくはないが、恋には向かない。浸かると風邪を引きそうだ」
「何を云いますか。それを云うなら先生こそ水だ。ちぃとも僕の気持ちに応えてくれないで」

おや。珍しく水がむくれた。
僕は半紙の上に書き殴った『飴細工』の文字をくしゃりと丸めた。玉にして庭に向けて放ってやると、三毛が嬉しそうに飛び付いて来た。
縁側の渚君は、麩菓子を一つだけ啣えて残りを庭にばら撒いている。

「止めなさいと云うに」
「鳥が喰いますよ」

水は不貞腐れたようだ。
やれやれ。僕は半紙を一枚手に取って立ち上がった。

「渚君」

縁側に行き、渚君の横に腰を下ろした。彼は西日に顔を向けたままだ。

「機嫌を損ねてしまったかね?」
「……先生は非道いなぁ」
「そうですか?」
「先生は非道い」
「はいはい」
「先生は冷たい。先生は冷血漢だ。そんな先生に水と云われて、僕は甚だ心外ですよ」

心外と云いながらも穏やかな、しかしやはりどこか冷めた声で彼は云う。

「拗ねているのかね?」
「見れば分かるでしょう」

確かに。横から覗く彼は後ろから眺めた時より幾分か表情がある。僕が横に来てもこちらを見ないところを見ると、やはり機嫌を損ねたのだろう。声は涼しいけれども。
相変わらず変わった男だな。
そう思い、手にした半紙に目を落とした。

「まぁまぁ、渚君」
「知りません」
「そう拗ねる事もないでしょう」
「知りませんたら」
「そう云わずに。君に宿題をあげますから」

僕は半紙を彼の前へ差し出した。西日を反射して生成りである筈の半紙もまた、彼の髪と同じく光の下では只の白に見える。
渚君は少しだけ眉を寄せた。

「宿題…?」
「ええ。この紙をあげますから、これに質問の答えを書いていらっしゃい」
「質問?」
「さっきの、僕のどこが好きかと言う質問です」
「それなら分からないと」
「分からないでなく、考えて」

歌でなくて結構ですよ、と半紙を彼に手渡しながら云う。

「思うままにお書きなさい」
「先生……」

ぽんぽん、と髪を叩いた。

「先生、僕は字はあまり得意ではないのです」
「知ってますよ。だからいつもの、あのミミズの這う様な字で構いません」
「せんせいー…」
「大体君はいい加減過ぎる。しょっちゅう店をほっぽらかして僕の所に来るくせに、その理由も分からぬとは」
「理由は先生に逢いたいからですよ」
「ではその逢いたい理由も含めて」

その紙に書いて来ると宜しい。僕はそう云って立ち上がった。
さて。そろそろ時間だ。

「では渚君。僕はこれから用がありますから、君もおいとま願いましょうか」
「先生お出かけですか?」
「ええ、人と逢う約束がありましてね」
「女性ですか?」
「それが残念。鈴原君です」
「ああ、彼」

僕がカタカタと戸締まりを始めると、渚君も立ち上がり雨戸を手伝う。いつもの様に施錠を彼に任せ、座卓を簡単にまとめ、財布だけを袖に入れて部屋を出た。三毛は外だ。

「先生もたまには洋装すれば良いのに」
「うぅん。でも鈴原君相手に洒落てもねぇ」
「いや、彼だからですよ。女性相手なら僕が心配だ」
「やぁでも彼も油断ならない…」
「え゙!!?」
「はは冗談。冗談ですよ」

眼の玉が一瞬で丸くなった。
僕が笑って玄関の外に出ると、彼もバタバタと履物をつっかけて飛び出して来た。

「もう先生!」
「ははは。どうやら水が沸いた様だね」
「もう!」

とん!と背中を叩かれた。
受け取った鍵で、玄関だけは僕が施錠した。

「先生、これって口実でしょう」

家を出て坂に向かうまでの道を並んで歩きながら、渚君は云った

「この宿題は僕にまた逢い来い、って事ですね?」
「君は駄目と云っても来ますからね。店を空ける言い訳を作ってやったんです。感謝なさい」
「はぁい」

渚君はむふふと嬉しそうな顔で笑い、二つ折りにした半紙をぴらぴらと振った。心なしか声も弾んでいる様だ。
僕達は坂を下り、その下の別れ道で一度止まった。

「では渚君、また」
「はい先生。お気を付けて」
「戻ったら伊吹さんに謝りなさいよ。君の代わりに店番してくれているんだから」
「毎度の事ですよ」
「渚君!」
「……はぁい」

ぺろりと舌を出す彼は、出会った頃のままの十五の顔。 いい大人のくせして。本当に可笑しな男だ。

「じゃあここで」
「さようなら、先生」
「さようなら」

そこで僕達は別れた。僕は右に、彼は左に。
しかし少しも歩かないうちに、後ろから大きな声が聞こえて来た。

「せんせー!明日また行きますからー!」

……やれやれ。きっとまた手を振り回しているのだろうな。

「シンジ先生ー!」

振り向かずに片手だけを上げてやった。

僕は下手糞な字で間違えた漢字などを書いて来る渚君の姿を思い浮かべた。
歌も下手なら書も下手な彼が、それでも冷たい水の声で紙いっぱいに書かれた文字の解説など始めるのだ。誇らしげに。

「……歌の種にはなりそうにないですねぇ」

明日また麩菓子で散らかるであろう庭を思う。

「たまには違うものを用意しといてやりますか」

両手を袖にしまい、待ち合わせの店までの道を急ぐ。途中馴染みの和菓子屋に立ち寄り、明日の分の菓子をいくつか注文した。

END.