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濃いめの紅茶にミルクをたっぷり。上等のカップとソーサーで少し優雅に。
目を覚ましたばかりの愛しの君へ、朝一番の熱いお茶をベッドの中まで届けてあげる。
おはよう、シンジ君。あさだよ?
* * *
「てな事を毎朝やったげるよ。僕を好きになれば」
「……」
まだ目蓋が半開きの朝っぱらからシンジは眉間にシワを寄せていた。
シンジは今ベッドにいて、ベッド脇にはカヲルがいて。寝起きの回らない頭で考えても、今一この状況が理解出来ない。
えーと、ここは僕の、ミサトさんのマンションだよな?これは僕のベッドだよな?僕はまだパジャマを着てて、布団の中にいて、そして何故か手に持っているこれは……
『午後のお紅茶・ロイヤルミルクティー ホット』
「……」
……なんだこれ?
「紅茶は熱いうちが美味しいよ」
「渚……」
「ほらほら飲んで飲んで」
「これは一体何なんだ?」
何故だか持たされている熱々の缶紅茶の温もりを手のひらに包みながら、シンジは上半身を起こしてベッドサイドの目覚まし時計を見た。時計の針は午前5時。ベッド脇に腰掛けるカヲルは、オレンジ色のぶかぶかパジャ姿でまつ毛をぱしぱし瞬かせている。
渚、なんで君がこんな時間にここにいるんだ。おまけにパジャマってことは、もしかしてその格好ででうちまで来たの?
「さあさシンジ君、アーリーモーニングティーだよ。飲んで飲んで」
「……アリ…何だって?」
「アリじゃなくてアーリー。アーリーモーニングティー。知らない?」
知らない?と聞かれて「知らない」と答えると、カヲルはずいっと顔を近付けてきた。
「お茶だよ、朝から飲むお茶。英国式の。“アフタヌーンティー”とか聞いたことあるだろ?」
「それはあるけど……」
「朝だからアフタヌーンじゃなくてモーニングティー。目覚めの紅茶。目覚ましのカフェインとそれから胃を守るたっぷりミルク。つまり朝から愛情たっぷりの紅茶ってわけさ」
「あ、愛情?」
「このお茶はねシンジ君!」
そこでカヲルはシンジの鼻先に鼻を寄せて、ふん!と鼻息を荒くした。
「アーリーモーニングティーってのはね、愛する妻に敬意を表して、夫がベッドの中まで運ぶんだよ。騎士道精神が深くに根付く実に英国らしい風習だ。ベッドの中の夢から覚めたばかりの愛しい伴侶に、夫が朝一番の愛情表現。これをさ、」 「毎朝君にやったげるって言ってんの!」
カヲルはそう言うと、口元を楽しそうに緩めてにんまりと笑った。
シンジはそんなにんまりカヲルを見て、それから手に持った缶紅茶に目を移して、「はぁ……」と朝一番の溜め息をついた。言うなればこれはアーリーモーニング溜め息だ。
「……渚さぁ」
騎士道精神がどうだとか愛情たっぷりがどうだとか、それ以前にこの場合、根本的な何かが間違ってる気がする。シンジはそう思った。
だって僕は日本人で、朝からベッドで紅茶を飲む習慣なんてない。それにそもそも僕も渚も男で、妻だの夫だのっておかしいと思うんだけど。いや、おかしくてもかまわないのかな。こいつの場合。
「君、それを言う為にわざわざ朝っぱらからうちまで来たの?」
「そうだよ」
「パジャマで?」
「うん」
「……せめて着替えて来いよ」
「善は急げだよ。さあシンジ君、紅茶飲んでよ」
この場合カヲルの言う『善は急げ』は『思い立ったが吉日』と同じ意味だろう。微妙にことわざの使い方を間違えている気がするが本人は気にしてないようだ。
「飲んで飲んで」と尚も煩いカヲルに、シンジはもう一度溜め息をつく。きっとここで飲んだら「飲んだ飲んだ」と大騒ぎされるに違いない。彼が英国式の夫婦ごっこをやりたがっていることは明らかで、迂闊に反応すると面倒臭いことになりそうだ。
彼との短くとも濃い付き合い(付き纏われているとも言う)の中で、そのくらいわからないシンジではなかった。
「……いらない」
「え!なんで折角買って来たのに。飲んでよ」
「いらないって。それにこれ “午後のお紅茶” だし」
“モーニングティー” じゃないだろ、と屁理屈を言って缶紅茶を突き出すと、カヲルはそれをきっぱり手で押し返し、「これは急遽代用品で」と口を尖らせている。
「明日はちゃんとティーセット用意するから」
「本気で毎日来る気だったのか」
「これだって紅茶は紅茶だろ。朝に飲めばモーニングティーだよ」
「段々大雑把になってきたな」
「いいから飲んでってば!ここは大人しく、僕の愛と敬意を受け取ってよ」
「……君ねぇ」
寝起きから愛と敬意の押し売りをされて黙って受け取れはないよなぁと、シンジは再び紅茶の缶を両手に包んだ。先程より少し冷めた感じのする缶紅茶は、軽く揺すると中でたぷたぷ液体の動く音がする。
きっと中身は甘ったる過ぎる程甘ったるい。なんたって砂糖もミルクも愛情もたっぷり、ついでに迷惑もたっぷり入っている。
「うーん……」
今が朝の5時でなく、カヲルがぶかぶかのパジャマ姿でなければ、優雅に紅茶を入れる銀髪の少年の姿は中々麗しいかも知れない。カヲルも口さえ開かなければ美少年だ。
だけどさすがに毎日来られるのは迷惑だな。無断侵入も止めさせないと。まあ放っておけばそのうち飽きるんだろうから、それなら変に拒絶して彼をヒートアップさせるんじゃなくて……
「あのさ、渚。さすがに毎日っていうは勘弁して欲しいんだけど」
「じゃあ、一日置きでも良いよ」
「ちゃんと着替えて来る?」
「君がそうしろって言うなら」
「流し目侵入しない?」
「君がそうしろって言うのなら」
「んー、それならまぁ……」
シンジは暫し思案するフリをして、それからうんと頷いた。
「いいよ」
「わは!やった!」
カヲルは嬉しそうに寝癖頭をぴょこんと振った。そんなカヲルに「君、眠くないの?」と言いつつ、シンジは缶紅茶のプルトップに指をかけた。
「むっふふふふ」
「そんなにニヤつかれると飲みにくいなぁ」
「むふふ。おはようシンジ君。あさだよ?」
「そのセリフ止めて。あ、そうだ渚」
「何?」
「折角だからトーストが食べたい」
「へ?」
プルトップをパキンと上げて指を止めると、案の定カヲルは不思議な顔をしていた。
「トースト。折角紅茶があるんだから」
「ふぅん。じゃあ焼いて来なよ」
「ああー!このお茶はベッドの中で飲むんじゃなかったのかー愛と敬意じゃなかったのかー!あーあー話が違うなぁーあーあー!」
「ゔ!」
「ああーお茶と一緒にトーストが食べたいなー。ついでにスクランブルエッグとサラダも食べたいなー。あーあーどこかに騎士道精神の紳士はいないのかなー」
「……シンジ君は卑怯だよね」
「僕は別に朝はごはんと味噌汁と緑茶でいいんだけど」
「……焼いてきます」
カヲルは「ちぇ」と呟くと、渋々といった感じで立ち上がった。紅茶は入れても給仕の役目は嫌らしい。
「きひひ、ヨロシク」
「リリンの狡猾さには恐れ入るよ」
「あ、そうそう渚」
「今度は何さ?」
「アスカとミサトさんの分もヨロシク」
「!!!」
カヲルに抗議する隙も与えず、シンジは紅茶を開けて缶の端に口を付けた。カヲルは何やら言いかけた言葉を飲み込むと、腑に落ちない様子で首を傾げつつ、とぼとぼと部屋を出て行った。
「ふふ。今日は僕が食事当番だったんだよね」
騎士道精神も悪くはないが、ここは日本男児らしく武士道精神といきたいところ。夫に運ばれる紅茶より、妻に上げ膳据え膳で遇される朝ご飯の方が良い気分だ。
「これからも食事当番の日に来てもらおうかな」
アスカやミサトさん相手じゃこうもいかないしと、ちょっぴり男らしい気分で紅茶を啜れば、それはやはり甘過ぎる程甘かった。
END.