日常吉日 - 1

…1/3

14の終わりに終わらないキスを覚えた。
15の半ばまで待たせて、やがてお互いに抑え切れなくなってその先を越えた。
12月の狂った季節の蒸し暑い午後、裸になってパズルみたいな体の仕組みに大苦戦した。「あれ?」だの「痛て!」だの言って四苦八苦して、それでも最後はちゃんと一つになった。
やがて15は終わり、16が通り過ぎて、17が訪れた。
熱いばかりだった15。
当たり前になった16。
半分は喧嘩をしていた17。
それも飛び越えて、喧嘩もしなくなった今も継続中の18。
一緒にいるのが普通になって、ドキドキもトキメキも無くなって、冗談のセックスが出来るようになっても最後のキスだけは泣ける程優しい。
渚カヲルはそういう奴だ。

僕は夕暮れの薄くなった空を仰ぎながら、自転車を漕いでいる。 髪を梳く風は心なしか涼しく、宵の口一歩手前の気配が頬に心地良い。
アスファルトの段差で自転車が揺れる度、籠に放り込んだ黒のトートバッグがぴょこりと跳ねる。バッグに入れたキーホルダーが中でチャラチャラ音を立てる。
3年以上もの間、何かにつけて一緒にいた僕らは、僕が19歳を5日後に控えた今日も相も変わらず一緒にいる。いや正確に言うと、一緒に過ごす為に僕が彼の住むおんぼろアパートへと向かっている。自転車で。

軋むペダルをギコギコ鳴らし、急カーブの登り坂を立ち漕ぎで登り、平坦な道になったところで速度を上げれば、彼のアパートはもう直ぐだ。
自転車は住宅街の外れを軽快に滑り、目的の場所へと漕ぎ主を運ぶ。
僕は見えてきた灰色のアパートを見上げた。

築18年で5階建てという中途半端に古くて中途半端な高さのアパートには、中途半端に格好付けた灰色の煉瓦風のタイルが張り付けてある。
中に住む人間も中途半端なのが多くて、どこの国籍だかわからない長い髭のお爺さんとか、何の仕事をしているのかわからない派手なおネェさんとか。
1DKの間取りのはずなのに小学生の子供が4人もいる若い夫婦も住んでいる。
その少し変り者揃いのアパートで、中でも飛び切り変わっているのが、渚カヲルだ。

僕は残りの道を一気に漕いでアパートの敷地に自転車ごと入ると、子供が足で蹴って乗るおもちゃの『高級車』が二台停まっている駐輪場にそれを停めた。
そのままにしていると直ぐに住人の子供が乗り回す自転車をホームセンターで買った大袈裟なチェーンでロックして、トートバックを引っ提げて非常階段を登る。
アパートにはエレベーターも付いているけど、2階の角の彼の部屋へは階段の方が早い。トートバックからキーホルダーを取り出して指に引っ掛け、くるりと回して大股で階段を登った。

初めて出会った14歳の頃からから数えると、約4年。
この4年の間に僕は進級と進学を果たし、中学・高校と卒業して、この春から大学に入った。
ネルフもゼーレもとっくに無くなり、世界は平和になった。僕がかつてのエヴァパイロットだと知る者も今は殆どいない。
父さんはネルフ解体後に僕に多額の預金を残して行方不明になってしまった。
代わりにミサトさんが継続して保護者を引き受けてくれて、僕は彼女の善意とサポートで大学まで進んだ。
ミサトさんには感謝をしている。と言うより頭が上がらない。女性に頭が上がらないのは今も昔も同じだ。

しかし、そうして僕が普通の学生をやれているのに対し、渚カヲルはそうはいかなかった。
日本という融通の利かない国で、戸籍も無く身寄りも無く、ましてやヒトでもない彼に就学の権利は与えられない。そもそも、生存が許可されたというだけでも奇跡だ。
使徒であるという理由で進級も進学も断念した彼だが、そんな彼にもちゃんと行き場は用意されていた。
生白い肌と決して逞しいとは言えない細身の体、そして彼を知る者なら誰もがその言動と噛み合っていない事に驚く優秀な頭脳の持ち主。
そんな彼は、本人の外見や能力からはおよそ想像しがたい職業、しかし生まれも育ちも人種も学歴も気にしなくていい職業、つまり、日雇い肉体労働という職に就いた。
毎朝作業服にタオルハチマキとドカ弁当をぶら下げて出勤して行く色白の美少年の姿は、一見して異様だ。
しかし当の本人はそれを気にするどころか、寧ろ身一つで頭も気も使わなくていい今の職業を気に入っていた。

『だって皆面白いからね』

確かに、彼が身を置く登録制の派遣会社には、外国人からワケあり日本人、もっとワケあり日本人まで様々な人間が働いていて、その中に入ってしまえば渚カヲルなんて『ただの使徒』
体力勝負のありとあらゆる人生経験の溜り場では、水槽育ちの柔な使徒など世間知らずのおぼっちゃんに過ぎない、のだそうだ。

『サイトーさんはフィリピンとアラスカとエジプトに奥さんがいる』

そんな事を可笑しそうに話していた彼の顔を思い浮べながら、到着した207号室の玄関の扉の鍵穴に鍵を突っ込んだ。灰色の鉄の扉は鍵を回しても手応えがない。
僕は鍵を引き抜いてトートバッグに放り込み、勢い良く引いてドアを開けた。

「渚!」
「あ、らっしゃいシンジ君ー」


玄関を開けると、直ぐ目の前に目隠しの暖簾(のれん)が垂れ下がっている。
暖簾をめくると奥はキッチン、キッチンの奥にはガラスをはめ込んだ扉があって、その先には8畳の洋室。そこからとぼけた声がする。

「どーぞ上がってー」

僕は上がってと言われる前に靴を脱いで上がり込み、更に奥のガラスのはめ込み扉まで開けていた。

「おい、玄関には鍵しとけって何遍言ったらわかるんだよ」

ずかずかと遠慮なく部屋に入る。
部屋の手前には本棚。奥にベッド。真ん中にはテレビとソファと渚カヲル。
渚は背の低いソファに仰向けに寝転んで、こっちに足を向けて雑誌を読んでいた。

「らっしゃーい」
「渚ってば!」

顔も上げない渚に脇から腕を伸ばして雑誌を取り上げる。

「ああっ、何すんのさ僕の知的財産がっ」
「チテキ財産じゃなくて鍵!家にいる時でも鍵しとけったら。危ないだろ」

引っ提げてきたトートバックを床に置き、取り上げた知的財産をばたばた振って顔に当ててやる。知的財産の下から「あた!あた!」と言う声が聞こえる。

「危なくないよー、危険なのはシンジ君だろ」
「変な奴が入って来たらどうするんだよ」
「変な奴って?」
「強盗とか」
「ないない。変なシンジ君ぐらいしか入って来ない」

雑誌の羽撃きを掻い潜って、渚が僕の腕を掴む。ぐいっと引かれてバランスを崩したところを一気に引き寄せられ、僕は渚の胸の上に倒れ込んだ。

「うわ」
「いだっ!!」

どっさり倒れたので僕の肘が胸を打ったらしい。

「うぐぐ」

痛そうな呻き声を上げ、それでも狭いソファの上で器用に僕を回転して横に寝かせ、自分は背もたれぎゅうぎゅうにまで詰めて後ろからきゅっと抱き付いてきた。

「シンジ君乱暴」
「僕何もしてないだろ」

やれやれ。僕の後ろおでこにぐりぐり鼻を押し当てる渚に溜め息を一つ。
そしてお腹の前に回されている白くて長い両腕をぽんぽんと叩いてやった。

「渚、おつかれさん」
「んー、ふふ」

もう一度鼻をぐりぐりされた。

渚がソファから動かない時は、仕事がきつかった時だ。きついだるい疲れただの言ってる時は、実はそうでもない。
肉体労働でしかも日雇いなんてのは毎日必ず仕事があるわけじゃないから、仕事がある時は多少無理をしてでもない時の分まで稼いでおかなきゃならない。
暇な時期は一ヵ月ぐらい余裕で暇だけど、忙しい時期は一ヵ月ぐらい休みがなくて、今は丁度その忙しい時期だった。
渚は僕の後ろおでこにふんふん鼻息を掛けてくる。
今日はたまたま早く上がれたと電話をもらった。電話の後一時間以内に僕が到着すると、こうしてご機嫌(これでも彼なりのご機嫌だ)になるのだ。

「渚、汗臭い」
「お風呂入ってないから」
「入って来なさい」
「一緒に、」
「入りません」

ちぇ、とでかい図体がしがみ付いてくる。僕は汗とひなたとコンクリートの匂いに包まれる。
ヒトと、太陽と、社会の骨格の匂い。
なぎさの、匂い。
本当はこの匂いは嫌いじゃない。

「ほら、先に汗流して来なよ。ご飯作ってやるから」
「え!作ってくれんの!?」
「うん。何がある?」
「焼そば麺しかない!」
「じゃ、焼そばね」
「やった!風呂行って来る」

背中にべったり張りついていた渚は、ぴょこんと跳ねて立ち上がった。本棚の脇のクローゼットの中からタオルとパンツを取り出して、ドタドタキッチンに向かう。風呂とトイレはキッチンの横にあるのだ。

「覗いていいよー」
「アホか」

嬉しそうだな。ゲンキンなやつ。
僕は身長180センチもあるでかい使徒が服をぽんぽん脱ぎ散らかして風呂場に消えるのを見届けてから、キッチンに向かい冷蔵庫を漁った。
一人暮し用の小さめな冷蔵庫の中には、渚が言っていた通り焼そば麺がある。
焼そば麺がある。
……焼そば麺しか、ない。
嘘だろと思って庫内を見回しても、ヨーグルトと水と焼そば麺しかない。

「渚ぁー…」

これじゃあ焼そばは無理だろー。
がっくりとうなだれつつ扉を閉めた。

「たく。人が折角作ってやろうと思ったら」

出鼻を挫かれた僕は、部屋に戻ってソファに転がった。安物の布張りソファからは、さっきの渚の匂いがする。
外仕事の人間に汗と埃は付き物だ。今や渚もすっかりそっち側のニンゲン。力仕事だから当然お腹も減るらしく、一見細身の外見に似合わず彼はとても沢山食べる。
基本インドア派でスポーツも何もしていない僕ですら高校に入ったぐらいから結構沢山食べるんだから、肉体労働の渚なら余計にだ。

「お腹空いてんだろうな」

久しぶりの早上がり、と言ってもみっちり8時間は働いているワケだからな。でも、今日は外食って気分じゃ……ないんだよなー。
風呂場からはザーザーとシャワーの音がする。

さて、どうするかな。

僕は起き上がって部屋の中を見回した。
本棚には本、床にも何冊かの本、窓際にはスチールパイプのシングルベッド。他に食料と言えば、テレビの横のハイちゅー青りんご味ぐらいしかない。
何か買って来ようか。
床に散らばる本と雑誌を拾って本棚に戻しながら考える。
正直面倒臭いから、疲れてる渚をこき使ってスーパーまで行かせようか、キヒヒ。なんて意地悪な事を考えていた時。

「あ」

無理矢理雑誌を入れようとした本棚の本と本の間が、ぐにゃりと曲がった。

「ああー」

どうやら本棚にあったペラペラの小冊子を、僕が雑誌で押し込んでしまったらしい。見ると雑誌を入れ込もうとしたその一角には、A4版ぐらいの似たようなペラ冊子が何冊も置いてある。
何かのパンフレットかな?
電気店で貰う家電のパンフレットや取り扱い説明書、みたいな感じだ。
何だろう。こんなの前からあったかな?
数冊引き抜いて手に取った。

「え……バイク?」



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