なみだ

…1/1

黒い睫毛の隙間から零れる透明な水を、僕は慌てて両手で受けとめた。
――ぽとん。たった一滴。
水というよりは人肌のお湯といった感の彼の ”涙” は、落ちた感触も無く僕の手のひらに吸い込まれ、雫の球形をみるみる壊して皮膚の上に小さな染みを作った。
涙の染み込んだ僕の手のひら。冷たくも熱くもない一粒の水跡。
だけどそれを見た時、僕の胸はいつもとは違うリズムの鼓動を刻む。

「泣かないでよ」

声を掛けると涙の持ち主は「泣いてない」と言って腕で乱雑に目元を拭った。腕を退けた時にはもう元通りの顔で、ただほんのちょっと鼻の先端が涙の名残を残して赤くなっていた。

「涙って鼻から出るのかな」

泣くたびに鼻の赤くなる彼を見て思った事をそのまま口に出すと、さっきまで潤んでた黒い瞳は一瞬驚いた表情になって、それから呆れたように弛んで二三度瞬きをした。

「馬鹿だろ」

そう言って馬鹿にされて苦笑されても、彼の涙が止まったことにほっとする。もう一度涙を見たいと思う反面、涙が止まったことに安心する。
彼の鼻の頭が平常に戻ると同時に、僕の鼓動も平常に戻って行く。だから僕は思いつくままに軽口を叩いて彼を笑わせた。

「もう乾いたね」
「何が?」
「シンジ君の落とした涙」

手のひらを濡らした涙は直ぐに乾いて、もうどこを探しても跡形もない。
このまま消えてなくなればいい。彼の悲しみも、涙も。
肝心の彼はまだ少し浮かない様子だけど、それも早く元に戻れと僕は願う。
何故こんなことを願うのかなんて、今の僕にはうまく説明出来ないけれど。

「あ、まだ涙付いてるよ」

僕は嘘をついて、最後に一度だけ彼の目頭を触った。
本当は、涙の乾いたその黒い睫毛に、触れてみたかっただけだ。



END.

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