シャーコ、シャーコ
キィ、キィ
車輪の重く回る音がする。その合間合間に入るキィという高い音は、多分この古い自転車のあまり手入れをされていない金属部分の擦れる音だ。
「ちゃぁんと、掴まって、なさいよおぉー!」
漕ぎ手である金茶色の髪の少女は、ペダルの上に立ち上がって体重をかけ、体を前方に倒して車輪を進める。自分よりも遥かに重い体重を運ぶため、大きく踏み込んではペダルを回し、その都度二人を乗せた自転車はバランスを失い左右に揺れる。
僕は少女の後ろの細い荷台にまたがって、ただひたすらその背中にしがみついていた。
シャーコ、シャーコ
「はぁ、はぁ、あん、たがっ、」
シャーコ、シャーコ
「そん、なんでっ、」
シャーコ、シャーコ
「どう、すん、のよっ!はぁ、」
「……うん」
「しっかりしなさいよ!!馬鹿ぁ!!」
シャーコ、キィィ!
ぐらりと大きく右に傾いて、自転車は倒れるようにカーブを曲がる。
「うりゃあ!」
すかさず少女は左に体重をかけ、二人の転倒の阻止を図る。不安定な運転。それでも自転車は倒れずに前へと進んだ。
自分の足が、こんなにもろいなんて思わなかった。
――――――――………
その電話を少女が受けた時、僕は丁度そこに居た。
今日は日曜日で学校がなく、他にこれといった用事もなかったので、午後から連絡も入れずに彼の住むマンションへと足を運んだ。
マンションの呼び鈴を鳴らすと、出て来たのは金茶色の髪の少女。惣流・アスカ・ラングレー。アスカは僕の顔を見るなり言った。
「
バカシンジなら今は居ないわよ、アホホモカヲル!」
僕は失礼だなと言い、どこに行ったのか、と尋ねた。
「はぁ?失礼も何もあんたの場合事実じゃない。シンジはね、なんかレイに読書感想用の本を貸すとかで分厚い本を何冊か持って出てったわよ。残念だったわね~」
ね~、の部分で手をしっしと振られたが、僕はじゃあ中で帰りを待たせてもらうよ、と強引にマンションに上がった。
「勝手に上がらないでよこの変態!」
「あー暑かった。何か飲み物ある?」
「人の話聞きなさいよ!」
きゃんきゃん吠えるアスカを無視し、勝手に冷蔵庫を開けて『しんじ』と書かれた飲みかけのペットボトルの緑茶を手に取った。
「お茶菓子ないの?」
グビグビやりながら居間に入ると、アスカは邪魔だ馬鹿だずうずうしい!と、僕が手を伸ばしたテレビのリモコンを引ったくって取り上げ、見もしない昼の連ドラにチャンネルを固定して座椅子に座った。
30分。1時間。連ドラが終わってもシンジ君は戻って来なかった。
「シンジ君遅いなぁ」
僕が空になったペットボトルをコロコロ転がして暇を潰していると、
「あんたさぁ、あのバカシンジのどこが良いわけ?」
ワイドショーの芸能ニュースを見ていたアスカに、突然そんな質問をされた。
「何さ?突然」
「あんたって元々ホモなの?あいつのどこがいいの?シンジってホモにモテる顔なのかしら」
「だから何さ、突然」
アスカはべっつにぃ~と言い、短いスカートのまま座椅子の上で胡坐を組んで両手を頭の後ろに回した。
「ヒマだからなんとなく聞いてみただけよ」
僕は、僕もヒマだからまぁ良いかと、彼女の話に付き合う事にした。
僕はそもそもホモの意味がわからない、と言った。
「あんた馬鹿ぁ!?ホモってのはね、男が男を好きになるって事よ。つまりあんたみたいな奴をホモって言うの!」
「へえ」
「で、あんたはいつからホモなのよ?」
「いつからって」
シンジ君に出会ってから、と、僕は言った。
「シンジ君に出会ってからだね、僕がホモってやつになったのは。たぶん」
「それまではノーマルだったってわけ?」
「ノーマルって?」
「だー!面倒臭いわね!男が女を好きになるって事よ!」
アスカはテーブルの上をばん!と叩いた。
「ふぅん」
「で、どうなのよ?」
「その定義だと僕はノーマルじゃないよ。僕、シンジ君しか好きになった事ないし」
「なによやっぱりホモじゃな……げ!!」
「何?げ、って」
「は、初恋!?あんた初恋がシンジなの!?」
「はつこい?」
「きもっ!目の前で聞くときもーーっ!!」
アスカはきもーっ!と叫ぶと、両肩を両手で抱いて大げさにブルブルとやり始めた。
「やっぱりあんたはホモよ、真性ホモ!」
「そうなの?」
「そうよ!」
「何がいけないのさ?」
「いけなくはないけど気持ち悪いわよ!ホモの初恋話なんて!」
「君が聞いたくせに」
僕は「きもいと言ったり質問したり君も忙しいね」と茶化してから、「シンジ君だから」と答えた。
「シンジ君だから好き」
「な、何よそれ」
「知らない。なんかシンジ君が良いんだよ」
「げぇぇ~」
「僕もよくわかんないけど……シンジ君じゃなきゃ嫌だ。シンジ君が良い」
「うぇ」
「シンジ君が好き。シンジ君がぜんぶ。気が付いたら僕の中シンジ君だらけ」
「……シンジも憐れね」
「何か知らないけどシンジ君が好きで、それで時々嬉しかったり苦しかったり。まぁ僕としてもこんなのあんまり愉快じゃないけどね」
「そうなの?」
「うん。だって自分の心なのに、まるでシンジ君のモノみたいじゃないか」
「う、うわー……」
アスカは思い切り顔を引きつらせて僕から微妙に距離を取った。その時。
”ルルルルル”
電話が鳴った。
携帯ではなく固定電話の電子音に、アスカは立ち上がってダイニングに向かった。
僕は彼女が占領していたテレビのリモコンをテーブルの上から取り上げると、無造作にいくつかのチャンネルを切り替えた。
ダイニングからアスカの声が聞こえる。嘘でしょお、とかはっきり喋りなさいよ、とか言っている。
僕は少しテレビの音量を下げた。
電話の切れる気配がしてダイニングの扉の方を向いた。アスカが立っている。
「セカンド?」
動こうとしない。
「セカンド?」
アスカは立ったまま口を開いた。
「……“カヲル”」
僕は、テレビの電源を落とした。
「……セカンド」
「落ち着いて聞いて」
その声色で、大体理解した。
「シンジが、車に撥ねられたって」
予想通りの言葉が告げられた。視界が自然とアスカだけに狭まった。
「今、レイから電話があって」
「……」
「市内の救急病院に運ばれたって」
「……」
「カヲル、」
「容態は?」
まさか即死って事はないよね?そんな最悪な言葉が自分の口から飛び出した。
「わからないわ。何故かレイが途中で電話を切ってしまったから」
「……どこ?」
「え?」
「病院」
「市内の〇〇総合病院」
「……そう」
「近くよ」
「……そう」
「………」
………
「……何してるの?」
「……え?」
「行くんでしょう!?」
「あ、うん」
「うんじゃないわよ!何の為に病院名を聞いたのよ。行くわよほらぁ!!」
「うん」
「ほら早くっ!!」
「うん」
僕は立ち上がり、アスカの後を追おうとして足を踏み出し、それから。それから……
「……あれ?」
膝からかくり、と足が折れて、再び床に座り込んでしまった。
「あれ?」
「ちょっと!?何でまた座ってんのよ!行くんでしょシンジの所に!」
僕は立ち上がろうと足に力を込めた。が、膝が震えてうまく動いてくれない。
「あれ?」
足が痺れたのかと思い、今度は両手で体を支えながらもう一度同じ事をする。
「……?」
駄目だった。見ると両手も微かに震えていて、手にも足にも力が入らない。
まいったな……。
これでは立てないと判断し、僕はアスカに向かって言った。
「あー、あのさ、悪いけどセカンド。君先に病院に行っててもらえるかな?僕、なんか腰が抜けたみたいなんだよね」
「はぁ!?」
「そのうち回復したら急いで追いかけるから、先に行っててよ」
「何のんきな事言ってんのよ!そんな事してて間に合わなかったらどうすんのよ!」
間に合わないって……
「レイはね!」
電話をかけてきたのは、ファースト。
「レイは、泣いてたんだからぁっ!!」
「!」
アスカの声を残し、耳から音が消えた。眼も耳もアスカだけに固定され、まるで狭い箱の中に彼女と二人きりで取り残された様な感覚になった。
「レ、レイはねっ、泣いてたのよっ」
アスカの声が上ずる。顔が赤く染まっている。
「シンジがこんな大変な時にっ!」
シンジ、くん?
「あんた何やってんのよぉ!立ちなさいよほらあ!!」
「……!」
腕を思い切り掴まれて体を上に引き上げられた。はずみで片膝が立ち上がり、それを軸に僕は何とか立ち上がった。
「行くわよっほらっ!!」
「うん」
アスカに腕を掴まれたまま、ばたばたと彼女に続いて走る。玄関で靴を引っ掛け、エレベーターに飛び乗り、マンションの外に飛び出して辺りを見回す。が、こんな時に限ってタクシーの一台も通っていない。
「こっちよ!カヲル!」
アスカはそう言うとマンションの駐車場に向かって駆け出した。駐車場の隅には、大分前から放置してあると見られる古い自転車があった。
「早くこっち!」
彼女は僕に手招きすると、自転車に駆け寄り飛び付く勢いでサドルにまたがった。早く乗って!と後ろの荷台を指で差した。
「さっさと乗って!何してんの早く!」
「僕が漕ぐよ」
「馬鹿じゃないのあんた!?そんな腰まで抜かして真っ青な顔してるような奴に自転車なんか漕げるもんですか!」
「え、」
「いいからさっさと後ろ乗んなさい!置いてくわよ!」
「あ、ああ」
僕がサビかけた荷台にまたがると、アスカは、
「どりゃあ!!」
自転車に付いている鍵を蹴り壊し、腰に回した僕の手をバチン!と叩いてから立ち上がってペダルに足をかけた。
「ちゃんと乗ってなさいよ!行くわよ!うらあぁあーーー!!」
シャーコ、シャーコ
キィィ!
自転車は走り出した。
――――――――………
「はぁっ、はぁっ」
シャーコ、シャーコ
キィ、キィ
右のカーブを曲がりきり、アスカは更に自転車を漕ぐ。
午後の日差しは薄曇り。しかし二人分の体重を運ぶ華奢な体には十分過ぎる程暑い。彼女の背中のブラウスが汗で湿る。
僕は代わろうかと声を掛けた。
「うっさい、わねっ、はぁはぁ」
「でも」
「いいからっ、あんたはっ、シンジの心配だけっ、してなさいっ!はぁっ」
シンジ……君。
何故だか頭の中に彼の姿が浮かばなかった。代わりに自分の顔と彼女の腰に回した両手の指が、妙に冷たくなっているのを感じた。
冷たい顔、冷たい指。熱い背中。二つの温度を乗せて自転車は走る。
自転車は見慣れない坂道に差し掛かった。
「このっ坂道を下ったらっ!すぐよっ病院っ!」
「うん」
「行くわよーー!!でえぇええーーーい!!!」
「う、わ!!」
風を纏って自転車は一直線に坂道を下る。景色も汗も、全て後ろに飛んで行く。僕の前には金茶色の髪の少女。
長い髪がはためいて僕の顔や耳に当たる。短いフレアスカートが捲れ上がる。
熱い背中。冷たい指。僕は冷たいままの指に力を込めた。振り落とされないように細い腰を抱いた。
セカンド。ねぇ、セカンド。
「うらぁーーー!!」
「セカンド」
「なによーー!!」
「無事、だよね……」
シンジ君。
「わっかんないわよそんなのーー!それをこれから確かめるんでしょおーー!?」
「うん……」
「でもねーーカヲル!!」
セカン、ド。
「あたしが!行く限り!あのバカシンジ!死んだって死なせやしないんだからあーー!!!」
キィィーー!!
だからあんたもシャンとしてなさい!!
そんな怒鳴り声を残して自転車は坂を下った。
坂の下には病院。車道を挟んでほぼ目の前。僕達はそこで自転車を捨て、後は足でその白い建物に駆け込んだ。
受け付けで病室を聞き、白い廊下を急ぐ。
「こっちよ!」
アスカの伸ばした手を取ると、その指は僕と同じくらい冷たかった。
僕達は走る。シンジ君の病室へ。彼の元へ。
どうかどうか、
どうか無事でいて。
「シンジ君!」
………
……
…
「えええーーー!!?」
――――――――………
シャーコ、シャーコ
キィ、キィ
少し風が出てきた午後の坂道を、僕は後ろに少女を乗せて自転車を漕ぐ。少女は軽く、しかし坂道は長く、僕は腰に細い腕を巻かれたまま、立ち漕ぎで坂道を登った。
「ほらほらー!シャンと漕ぎなさいよシャンと!」
時折少女のムチが入る。僕はペダルを漕ぐ足に力を込めて前進した。
「君、結構軽いんだね」
「当ったり前よ!レディに向かって何言ってんのよ!」
「よく僕を運べたよね」
「そうよ!どこかの誰かさんが腰を抜かすからっ。お陰で足が痛いわよ!」
「君がファーストが泣いてたとか言うからさ……」
僕達が病室に着いてみると、車に撥ねられたというシンジ君は、ベッドに腰掛けてファーストと談笑していた。
彼の怪我は軽傷で、両足を擦り剥いて手首を捻挫しただけだったのだ。
『あ、アスカ達来ちゃったの?あと少しで帰るって電話しようと思ってたのに』
彼のそんな言葉を聞いた途端、アスカはその場にぺたりとヘタリ込み、半泣きになりながらも物凄い剣幕で怒鳴り始めた。
その大声に同室の病人は驚き、シンジ君は慌てながらそれをなだめた。
そして隣に立っていたファーストは、口元に手を当てて……くしゃみ、をした。マスク越しに。
「まさかレイの鼻声が風邪気味のせいだとは思わなかったわよ」
「涙声だと思ったの?」
「電話の声だもん。しょうがないでしょう!?」
「まぁね」
病室での僕は、ヘタリ込むアスカと手を繋いだまましばらく放心状態に陥った。シンジ君はまずアスカに、
「ごめん、説明不足だったよ」
と、しきりに謝ってから、次に僕に、
「君も心配かけてごめん」
と、すまなさそうな顔を向けた。
そこで僕は一気に糸が切れ、シンジ君に抱きついてシンジ君に殴られ、アスカを引っ張り起こしてアスカに抱きつき、アスカに殴られた。
ファーストは咳をしていたが、あれは笑っていたのではないかと思う。
「何はともあれ、大した事なくて良かったよ」
「あんた、あたしに感謝しなさいよね~」
「わかってるさ。運んでくれてどうも」
「じゃなくて、シンジに言わなかった事をよ」
「何を?」
「決まってるじゃない、あんたが腰を抜かしたって事!」
あれはびっくりしたわーと背中で笑いながら、アスカが僕の足を蹴る。立ち漕ぎの僕の足は、一瞬かっくんとなってバランスを崩しかけた。
「わとと」
「ほらぁ!シャンと漕いでよね!」
「はいはい」
何とか坂を登り切った。
坂が終われば今度は平坦な道。僕はサドルに腰を下ろして座り、来た時はてんで眼に入らなかった住宅街の景色を抜けて進む。
午後の風。背中の少女。金茶色の髪はきっとさらさらと後ろに流れている。
僕は彼女のマンションに進路を取りながら言った。
「別に言っても良かったのに」
「えー?」
「別に僕気にしないよ」
愛は腰を抜かすってやつ?そう言うと、
「そんな日本語ないわよ!」
片手で背中を叩かれた。
「あは!」
「あはじゃないわよ!あんたの初恋に免じて黙っててやったのよ!」
「そうなの?」
「そうよ!」
ふぅん……。
「ねぇ、セカンド。君って案外格好良いよね」
「何よいきなり」
「僕シンジ君を好きじゃなかったら、きっと君の事好きになってたと思うよ」
「げ!!!」
「真面目な話」
「気持ち悪いわよばかっ!!」
「あは!」
背中をばかっ!と叩かれ僕はそれを合図にスピードを上げた。
景色はぐんぐん後ろに飛ぶ。腰に回される彼女の指は、今はもう暖かい。
ねぇ、セカンド。早く戻ってシンジ君の帰りを待っていよう。
君とあの部屋で。
二人で。
シャーコ、シャーコ
キィ、キィ
家はもうすぐだ。
END.