僕の住んでいる街からバスに揺られて30分。市立の美術館がある隣街には、僕達が勝手に『菜の花橋』と名付けた橋がある。
菜の花橋は菜の花川という川の上に架かっていて、当然と言うかこの川の名前も僕達が勝手に名付けたものだ。
菜の花川は川幅約十メートル。どこにでもあるような普通の川。
菜の花橋はその上を跨いでいる普通の道路。
ただ少しだけこの川と橋が他のそれと違うのは、春になると河原の土手に、ずらり一面の菜の花が咲くことだ。
今時都会で自然のお花畑なんてまず無いから、この土手の菜の花も当然誰かが植えている。元々は市の環境事業の一つとして河原に種を蒔いたものが、その後運良く根付いて自生したもので、今ではお花畑の長さは河原の両端合わせて40キロメートル以上に及ぶ。
毎年3月になると河原が一斉に黄色い花で覆われる様は壮観で、時々地元のテレビも取材にやって来てちょっとした行楽特集なんかも組まれている。
そして、そのテレビを見た僕達が実際に咲き誇る満開の菜の花を見に行ったのが、一年前。
勝手に菜の花川・菜の花橋と命名したのも一年前。
年中真夏の日本列島で、ちゃんと春の季節に春の命を咲かせる可愛い花に感動し、うっかりキスなんかしちゃったのも一年前で、今日はそれから一年後。
花が満開になるにはまだ早いけど、ちらほら咲き始めるには丁度良いほぼ一年後の今日、僕はまた菜の花橋にやって来た。
時刻は夕方。橋の上には夕日がかかり、三分咲きのお花畑は、緑と黄色とオレンジ色の幻想的な光に包まれていてる。
僕は菜の花橋の端っこから土手に降り、腰まで伸びた花と葉っぱを掻き分けて進んだ。そして、お花畑で寝転がる灰色の髪の毛を見つけて声をかけた。
「おーい、何やってんだ。黄昏小僧」
黄昏小僧は寝転んだまま、腕だけ伸ばして手を降った。
僕は、彼の隣に腰を下ろした。
「探したぞー、渚」
菜の花畑に寝転ぶ渚は、両手を枕に眼を閉じていた。どのくらいの間そうしていたのか、夕日色に染まった制服のシャツにはポケットの脇に天道虫が一匹、シャツの主と共に黄昏ている。
「君、携帯の電源も切っちゃっててさぁ、見つけるの苦労したよ」
勝手に前髪をふわふわと触る。灰色の長い前髪は夕方の風と同じ温度。きっと大分前からここにいたんだろう。
「聞いたよ。殴っちゃったんだって?職員の人」
「……」
「珍しいね、君が荒れるなんて」
髪に指を通して梳くと、ぴくりと目蓋の奥が動いた。開かない目蓋を指で触り、それから頬に手を当てる。片手で左頬を包み込んだら、彼はその手に頬を寄せてきた。
瞳はまだ閉じたままだ。
「どうしたの?」
「……」
「何かあった?」
「……」
「それとも、何か言われた?」
「……別に」
別に大したことじゃないよ、と、大きな口を小さく動かして渚は言った。
「僕らみたいに作り物の生命にはよくある話だよ。ゼーレにいた時は割と普通に言われてたし、あの職員じゃなくても生物が異質の者に対して抱く至極最もな感想だと思う」
「うん」
「だから別に大したことじゃない」
「うん。でも殴っちゃったんだよね」
「……」
「綾波がね、」
眉間に微かな皺が寄った。
「心配してたよ」
頬に当てた手をよしよしと動かす。
「君のこと心配して電話くれたんだ。君達今日は身体検査の日だったんだろ?君がネルフの職員を殴って消えたって電話もらって、慌てて学校早退してさ。廃墟とかまで探しに行って大変だったんだから」
「ごめん」
「僕はいいよ。でも綾波が結構気にしてた。後で電話してあげてよ」
「……うん」
小さく頷いたものの、言い澱んだ返事は随分と曖昧で気のないものだ。
僕は夕日に溶けてしまいそうな彼の顔をもう一度撫でて、顔を上げた。僕らの周囲には、菜の花の長い茎が檻のように取り囲み生い茂っている。
菜の花という植物は意外と背が高く、花が咲く程成長したものになると背丈が1メートルを越えるものもある。だから今の僕らみたいにお花畑の真ん中に座りこんでしまえば、視界は殆ど花の茎で遮られてしまう。
それはまるでそこだけ緑色した別空間のようで。
勿論立ち上がってしまえば視界は直ぐに開けるし、土手や橋の上から見下ろせば僕達の姿なんて丸見えなんだけど。
だけど寝そべる渚や座る僕からすればここはやっぱり別世界で、草の匂いと夏の温度、それと花と夕日と空しか見えないこの閉じた空間は、内緒話をするにはもってこいのような。
そんな感じがする。
そんな感じがしたから、僕はもう一度聞いた。
ね、渚。
「何があったの?」
綾波に電話をもらったのはお昼過ぎだった。
今日は綾波と渚の定期検診の日で、その為に二人共朝から学校を休んでいた。
昼休みが終わり、午後の授業が始まる直前に携帯が鳴り、渚がネルフの研究施設の職員を殴って逃げたと聞いた。
――碇君、彼を。
『綾波?』
――探してあげて。
「渚ー」
「……んー」
「言いたくない?」
「……別に」
「じゃ、教えて」
「……」
「なぎさってばー」
「だから本当に大したことじゃないって。バケモノとか出来損ないとか、そういう類のことをちょっと言われただけだよ」
「それ、十分大したことだと思うんだけど」
「僕はいいんだよ。言われ慣れてるし、言われたところで何も感じない。補完計画もサードインパクトもなくなった今、僕らみたいな存在がお荷物だってこともわかるしね。だから僕はいいんだ。だけどあいつら僕じゃなくて、しかもわざわざ赤木博士のいない時に、」
うん。
「ファーストに、言うから」
驚いた、と電話の向こうの綾波は言った。彼女が注射を受けていた時、突然間仕切りの奥から走り込んで来て、その場にいた男性職員2名の頬を殴ったのだという。
そしてそのままどこかに消えた。
「頭にきたんだよ。あいつら僕や赤木博士の前では絶対そんなこと言わないくせに。僕らは大事な研究対象であると同時に過去の恐怖の残骸だ。大事に扱えと言われているけど気味が悪いんだろう。だけどあいつら、僕には何も」
綾波にだけ。
「博士には聞かれる何か都合が悪いんだろうな。そして僕のことは怖い。だから博士のいない時に僕と同じ身体のファーストに言う。ファーストなら告げ口も反論もしないだろうからね。卑怯なんだよあいつら」
「確かにね」
「好きな事言ってるあいつらも、黙って言わせてるファーストにも腹が立って、気がついたら男の方殴ってたんだよ。すぐに面倒なことになるなって思ったけど、それはもう殴った後だったから」
「だから逃げたの?」
「まあね。悪いけど後悔も反省もしてないよ」
「それでいいと思うよ」
僕だってきっとその場にいたなら殴ってた。渚が言われたとしても綾波が言われたとしても、同じぐらい腹が立っただろう。
「けど、別に後悔も反省もしてないけど、余計なことはしたかなとは思ってるよ。何も僕が手を出すことはなかった。後でファーストが自分で殴ったかも知れないし」
「……さすがにそれはないんじゃないかな」
「あと携帯の電源入れときゃ良かった。ごめん、探させて」
「いいよ。珍しい君が見れたから」
お花畑でふて寝する使徒なんて、そうそう見れるもんじゃないからね。
多分渚は自分のしたことに戸惑っているんだ。彼はそれなりに頭が良いから、咄嗟に手が出た理由もその後の自分の行動も、それをうまく処理出来ないでいる自分自身も、本当は全部自覚しているんだろうけど。
けれど生まれて初めて誰かの為に人を殴った使徒は、自分の理性を越えた収集のつかない感情に戸惑っている。
その証拠に、いつの間にか開いていた彼の眼はお花畑にぽっかり空いた秘密の空間のオレンジ色の空を睨んでいた。
「あーあ、思い出したらむしゃくしゃするよ」
そうだろうね。
「なんかファーストにも顔合わせ辛い」
だろうね。
「あーもーモヤモヤする。何なのさこれもー」
「ふふふ」
「笑わないでよ」
「笑ってないよ」
笑ったりしないよ。
「今日の渚って、なんだか騎士(ナイト)みたいだね。」
頬の手を外して、ふわふわの前髪にキスをした。前髪を掻き分けて、その奥のおでこにもキスをした。顔を離すと、夕焼け空をもっともっと濃くしたような赤い瞳が、やはり僕を睨んでいた。
そっか。君はそんな顔するんだね、こんな時。
どんな顔していいのかわからない時。
ねえ渚。君が職員を殴って消えた後、研究所は大騒ぎだったんだって。
シトがヒトに危害を加えたという報告は、瞬く間に旧ネルフ――今の人工進化研究所――を駆け巡り、一時は厳戒体勢が敷かれる寸前にまでなった。
それを収束させたのはリツコさんで、今日は朝から用事で他所に出掛けていた彼女は、
『そんなくだらないことで一々騒ぎ立ててないで。こっちは忙しいのに』
その電話の一言で、自分の留守中に起きたあわや警報発令の騒ぎを一蹴してしまったのだそうだ。
君が殴った職員達が敬遠するのも何となくわかるね。
「渚はいつからここにいたの?」
「どうだろう。まだ陽が落ちる前からかな。どうせ直ぐに追手が来ると思ったんだけど、意外と誰も来ないんで寝てた」
「なんでここを選んだの?」
「なんとなく。そう言えば去年の今頃ここで花を見たなって思い出してさ。で、来てみたはいいものの、今年はあんまり花が咲いてなくてがっかりしたよ」
「まだ早かったね」
「ちょっと咲きだった」
「ふふ、君と同じぐらいで丁度いいよ。さ、もうそろそろ帰ろ。暗くなるよ」
きょとんとする彼の手を引っ張って強引に起こした。彼が寝ていた後には、菜の花の花と茎がそこだけ彼の形に折れて倒れている。
二人で立ち上がって辺りを見渡すと、夕焼けはさっきより濃くなっていて、空の端には紺色の夜が顔を出し始めていた。
辺りは一面の緑。
ちょっと咲きの黄色とオレンジと紺。
灰色と赤の渚カヲル。
それと。
「おまえももう帰りな」
渚のシャツのポケットの脇から、いまだくっついたままの天道虫を指で摘んで手のひらに乗せた。
「あ、てんとう虫だ」
「さっきからずっと留まってたよ。気付かなかった?」
「全然気付かなかった」
「良かったんじゃない?一人ぼっちのお花見にならなくて」
天道虫は手のひらの上で少しウロウロすると、やがて指の天辺に登ってスゥと飛んだ。夕暮れに消えてく小さな相棒を、渚は眼を細めて追った。
「さ、帰ろ」
「……うん」
菜の花川のほとりの菜の花畑を、渚と菜の花橋に向かって歩く。
菜の花橋は普通の道路。この時間は家路に向かう自動車が、眩いライトを点けてひっきりなしに行き交っている。歩道にちらほら歩行者の姿も見える。
見られちゃったかな、さっきのキス。
だけど今日は見られてもいい。
「ねえシンジ君、君、本当は全部知ってたんだろ?今日のこと」
土手を登って菜の花橋に上がり、欄干にもたれてお花畑を見下ろしてみたら、僕らの座っていた秘密基地は、すっかり夕闇に紛れてわからなくなっていた。
「バレたか。実は大体ね。綾波だけじゃなくてリツコさんにも連絡もらってたんだよね」
「……やっぱね。そうだろうと思った」
「あとミサトさんからも電話があったよ」
「…………やっぱね。まずった」
「平気だよ、皆君の味方だから。だから誰も君を捕まえに来なかっただろ? “使徒が暴れた” なんて言い張ってるの、君が殴った嫌な職員ぐらいだよ。そいつら殴って正解。前歯折って正解」
「前歯は折ってないけどね」
「ミサトさんなんか逆に誉めてたよ。 “おっとこの子ね~やるじゃない” って。僕もそう思う。僕、君のこと大好きだ」
「シンジ君……」
ここでやっと渚は、困ったようなバツが悪いような、なんとも微妙な顔になった。
僕は漸くそれなりの顔を見せた彼の背中に腕を回して、ばふばふと叩いた。
渚の背中にはずっと寝転んでいたせいであちこにちに黄色い花粉が付いていて、それは叩くとぱふぱふと飛んで、夕暮れの橋の上に春の匂いを漂わせた。
菜の花川は普通の川だ。ただ菜の花が咲くから名前をつけた。
去年うっかりキスをしたお花畑は、今年は女の子を庇って逃げ出した使徒を隠していた。
こんな所で、上から見たら体半分丸見えで、それでも一応隠れていたつもりの渚。
あと数日して菜の花が満開になって、彼がいた場所も今日の内緒話もいよいよ花が隠してしまったら、その時僕は、彼と、今日何度も電話をくれた綾波を誘い、もう一度お花見に行こうと言うだろう。
その時アスカとミサトさんが乱入してくるのは想定内で、僕達はきっとパワフルな女性陣に振り回されてクタクタになってしまうだろうけど。
「あ、そうだ。忘れないうちに連絡してあげてね、綾波に」
「え?えー…」
「メールでもいいから。こういうのは最後までキメるもんだぞ。渚ナイト君」
「やめて。マジでやめて。頼むから」
「あはは」
今日はおかしな顔している渚が、お花見の時はどんな顔を見せるのか楽しみだ。
今はまだ三分咲きの菜の花は、時折吹く風にさわさわと揺れて、菜の花川の河原の両端にもう二筋の花の川を作っていた。
END.