fly me to the...?

…1/1

空を飛ぶのは鳥ばかりではない。

「ぎゃーー降ろせ!!」
「暴れたら落ちるよ」
「降ろせったら降ろせ!!今すぐ降ろせーー!!!」
「やれやれ」

碇シンジは眼を回した。眼下に広がるのはミニチュアの街。ビルの屋上。木々の頭。
そんな物が自分の足元の遥か下方を通り過ぎて行く。

「ぎゃーーー!!」

物凄い絶叫が青空に響いた。そんなシンジを抱えたまま、

渚カヲルは、空を飛ぶ。


――――――――………

「渚のアホー!!アホ馬鹿ハゲうんこーー!!」

珍しくシンジが暴言を吐いている。
無理もない。何故ならここは空の上。第三新東京市の遥か上空、地上より何十メートルだか何百メートルだかの距離だからだ。

「渚のボケー!変態ボケナス変質者ー!!」

カヲルに正面から子猿のようにしがみ付いたまま喚き散らす。
無理もない。シンジを抱えて大空をびゅんびゅん飛んでいるのは、他でもない、この渚カヲルだからだ。

「なんで空なんか飛ぶんだよー!」
「だってシンジ君が学校遅刻するって言うから」
「だからって飛ぶ奴があるかー!うわっ!?」

突如体が斜めになり、重力が背中に集中する。どうやらカヲルが体を前に倒したらしい。空中で仰向けにされたシンジは、慌てて両手の他に両足もカヲルに巻き付けて叫ぶ。

「ギャーー!!」

本日何度目かの絶叫。カヲルは知らん顔だ。

「ギャー落ちる死ぬっ!」
「あははーシンジ君!」
「戻せ降ろせ殺す気かー!」
「あはー!」

どうやらシンジが全力でしがみ付いて来るのが嬉しいらしい。
シンジはくそうあほうと毒づきながら、カヲルに回した両手両足に力を込めるしかなかった。
シンジの背中にはしっかりとカヲルの腕が回されているが、こんな上空を腕一つの安全ベルトで飛んでいて安心なんて出来るわけがない。
カヲルに限ってまさかシンジを放り出すなんて事はしないだろうが、「遅刻しそう」の一言で空を飛ぶ奴だ。
最悪の事態と最善の安全面を考慮して、シンジはしがみつく腕の出力を上げた。

「今日のシンジ君は情熱的だね」
「うぅ~!」
「たまには空飛ぶのも気持ちイイだろ?」
「ころすっ!学校に着いたら絶対殲滅してやる!」
「あは」

背中の下にぶら下がった肩掛けカバンがぐるぐると激しく回転している。空中で頼りない持ち手一本で揺れまくっているそれは、まるで今のシンジの運命そのもののようだ。

「もういい加減に降ろしてよー!」
「えー?」
「あとは自力で歩いて学校行くからっ」
「ふぅん?遅刻するよ?」
「いいよもう遅れても!降ろして!」
「本当に降ろしていいの?」
「降ろせっ!!」
「わかったよ。ほい」

――え?

そう思った時には、背中に回っていた腕が外れた後だった。

――え゙!!??

更にそう思った時にはカヲルの両手はシンジの目に前にあり、「えい」という一声で強く密着していたシンジの体を突き飛ばした。

「バイバイ」

カヲルの姿が一気に遠ざかって行く。大きな口が笑いながら動くのを見て、シンジはやっと、ああ、今自分はカヲルに突き放されたのだ、と理解した。
途端に襲ってくる落下感。体は恐ろしい程のスピードで急降下する。

――死んだ。

シンジは思った。

――死んだ。僕はもう死んだ。最後の使徒に空から放り投げられてあっけなく死んだ。
思えば……わけのわからない人生だった。
小さい頃に父親に捨てられて、やっと再会したと思ったら巨大ロボ(?)に乗せられて。その後、意味のわからないままに戦ったり死にかけたり男にキスされたり。
そして今日、遅刻しそうと言っただけでヒトじゃない男に空を飛ばれて落っことされた。
僕の14年間て何だったんだろう。真面目に勉強してきた小学校時代は何だったんだろう。
結局彼女の一人も出来なかったなぁ。こんなことならあの時、アスカとキスの一つでもしとくべきだったなぁ……。

短い人生の名場面がダイジェストで再生されて、あぁこれが走馬灯のようにってやつか、などと思い始めた時、体は地面に到着した。
仰向けの状態で落下したシンジは、全身を背中から地面に叩きつけられた。
手と足が面白いぐらいに跳ね上がって背骨が反る。後頭部と腰と肺の辺りに鈍い衝撃。
きっと、骨が折れた。
頭蓋骨も、割れた。
内蔵も飛び出しちゃったかも知れない。
全然痛くないのはせめてもの救いか。
さようなら、父さん。さようなら、僕。そしてこんにちは、お久しぶりですお母さん。取り敢えず渚カヲル、お前だけは絶対祟ってやるからな……。
暗転し薄れ行く意識の中、シンジはカヲルのヘラヘラとした笑顔を思い浮べ、
(走馬灯のラストがあいつの笑顔なんて嫌すぎる)
そう思いながら、ゆっくりとその眼を閉じた。
……………
………
……


「……おぉーい、おーい」

――どこかで可笑しな声がする。

「おーい大丈夫ー?」

――大丈夫、なわけがない。

「ねー起きなよ、いつまで狸寝入りしてんのさ。ほらっ」

――狸寝入りとは失礼な。そもそも死人に対して起きろとは変な奴だ。大体死んでからまだ数分も経ってないだろ。
あ、もしかして三途の川の何とかって奴かな?船に乗って河を越えたらお花畑って言うもんな。乗船手続きしろってことかな。
やれやれ、あの世も案外気忙しいなぁ。こっちは死人初心者なんだからもう少しこの世の未練に浸らせてよ……って、

「ほら起きなってばシンジ君」
「え?な、渚?」

ぐい!と腕を引っ張られて、シンジは上体を起こした。
目の前には渚カヲル。上半身を起こしたシンジの太ももを跨いで座り、真正面から顔を覗き込んでニコニコしている。

「あ、あれ?」

三途の川の幻想がぱっと消える。一瞬何が起きたかわからなかった。

「あれ?僕生きてる?」

思わずぱちくりと瞬きをした。
自分は確かに飛んでたはず。そして地面に落ちたはず。あんな高度から落ちて無事なはずないし、万一助かったとしても大怪我してなきゃおかしい。でも……どこも痛くない。
頭蓋骨も割れてないみたいだし、内蔵も飛び出してない。右手は今渚が掴んでるから無事らしいけど、もう片方の手は……

「え?ちょっ、嘘ぎゃーー!!!」

左手の無事を確認しようと視線を下げて、シンジはまたまた大声を上げた。
シンジの視線の先、自分の座るお尻の下には何もなかった。あるのは透明の空気ばかり。その下には、先程より幾分か近付いたとはいえそれでもまだ十分遠い、街の屋上が見える。

「な、な、なんーー!?」

無事だった頭蓋骨の中がパニックを起こす。シンジは今、空中に座った形のまま飛んでいた。
カヲルを太ももに乗せて、空の上をぷかぷか浮かんでいたのだ。

「わーーー!!!」
「よく叫ぶね」
「どわーー!!」
「のど痛くならない?」
「なんで僕こんな所に座ってるんだー!」
「実はシンジ君も飛べたんじゃない?」
「なわけあるかー!」

風が起きる程首を振る。カヲルに抱えられて飛んでいた時とは違う。今は確実にシンジ本人が浮いている。

「うわわわ!」
「あんまり暴れたらこれも落ちるよ」
「な、何が」
「A.T.フィールド。空飛ぶ絨毯仕様にしてみました。あは」
「えーてぃーフィールドぉ!?」

カヲルはにやりと笑ってシンジのお尻の横を片手で叩いた。そこには何もないはずなのに、確かにぱふぱふと音がする。
シンジも恐る恐る腕を伸ばして周辺を触ってみると、堅いような柔らかいような……何とも微妙な手触りのものが、自分の周りに敷き巡らされているのがわかった。

「これは……低反発素材!?」

衝撃を緩やかに吸収する、枕でお馴染みの健康指向素材。そんな体に優しいフィールドによって落下したシンジは受け止められたらしかった。

「透明だけど頑丈だからね。広さもそこそこあるから安心していいよ。乗り心地も悪くないだろ?ほら」

カヲルは太ももに跨がったままびょんびょんと跳ねる。カヲルが跳ねる度にシンジの下もぶわんぶわんと揺れる。

「あはは。これでのんびり学校まで行こうよ。僕も飛ぶよりこっちのが楽だし。君、もう遅刻しても構わないんだろ?」

ふと気が付くと頬を風が撫でている。お尻の下の風景が少しずつ移動している。二人を乗せる低反発な絨毯は緩やかに移動しているらしい。カヲルはニコニコ顔だ。
しかし……シンジは下を向いた。
カヲルに掴まれていた腕を振り払い、ばたんと後ろに倒れて仰向けになった。

「シンジ君?」

回転して俯せになる。
魔法の絨毯に突っ伏して、両手を顔の下に入れて身を縮める。

「……う」
「シンジ君?どうしたの?」
「うぅ」

呻き声のような、鳴き声のような声を上げ、ぷるぷると肩を震わせ顔を上げようとしない。
カヲルは首を傾げ、跨がる太ももの上から腕を伸ばしてシンジの背中に手を触れた。途端に背中はびくっ!と跳ね、その衝撃は太もも越しにカヲルへと伝わった。

「えーと、シンジ、君?」
「……か」
「え?」
「……なぎさのばか」

のどを詰まらせたような声でシンジは呟く。

「何で、手を離したりしたんだよぉ……」
「え?だってシンジが降ろせとか離せとかって、」
「だからって落とす奴あるかコノォ!」
「わ!」

また体が大きく揺れた。先程より大きい振動にカヲルは揺らいだ。

「渚は……渚なら、僕を離したりしないって思ったのに」
「?」
「君は、いつだって馬鹿も無茶もするけど、最終的には僕に優しい。今回だって無茶苦茶だったけど、決定的に怖いことはしないって信じてた」
「あ……」
「渚は僕が本当に嫌なことはしない。僕が怖いことはしない。ふざけてても喧嘩しても、絶対。だから僕も、文句は言っても君のこと信じてた。なのに……なのに落とすなんて……うぅ」

ひどいよぉ、と。シンジはぷるぷると生まれたての子鹿のように全身を震わせた。その姿は弱々しくとても小さい。
カヲルは「シンジ君」と呼び掛けて、それでも返事がないのを確かめると、小刻みに震える背中の上にそっと体を倒し、重ねた。

「ごめん」

後ろから肩に顎を押し当てて、お腹の前に腕を回す。

「怖かった?」

きゅ、と抱き締めて耳元で小さな声で訊ねる。

「僕、やりすぎたかな?」

カヲルがシンジに回した腕に力を込めてもシンジは黙っていた。時折くすん、と鼻を啜るだけ。

「シンジ君」
「……ばか」
「シンジくん」
「なぎさのばか」
「ごめん」

ごめんね――

二人はしばらくそうしていた。晴れ渡る空の上、透明な絨毯はシンジを乗せ、その背中にはカヲルを乗せ。
涼やかな風が二人の髪を梳いて行く。ここには街の喧騒はなく、聞こえるのは微かな鳥の声とお互いの心音だけ。
柔らかく包まれるATフィールドの絨毯の上で、二人は重なり合い眼を閉じ、とくとくと鳴るお互いの胸の音を聞いていた。

「ごめんね、シンジ君」

肩の震えが治まってから、カヲルは静かに言った。

「本気で落とす気はなかったんだ。でも怖がらせて悪かったよ」
「……」
「ねぇ、もう泣き止んだ?」
「……」
「嘘泣き、泣き止んだ?」
「……!」
「あのさぁシンジ君、僕が何も気付かないと思ったらそれ、」
「え、う!わっ!」
「大間違いだよー!」
「わーーー!!」

いきなり体の下にあった空気の層が消えた。
シンジの頭と両手と下半身、それに肩かけカバンは重力に従ってぶら下がり、『く』の字に折れた体は再びカヲルの腕のみで支えられた。しかも今回は俯せの為シンジはどこにもしがみ付くことが出来ない。

「うぎゃーー!」
「わははー!」

シンジを後ろから抱き抱えてカヲルは空飛ぶスピードを上げる。今まで緩やかだった絨毯の動きとは一転、バタバタとシャツが音を立てる程のスピードにシンジは再び悲鳴を上げた。

「ちょ、渚っ!安全運転安全運転ーっ!」
「泣き真似なんかしたお返しだよー!」
「くっそーなんでわかったんだー!」
「あははー!シトを舐めないでよ!」
「くっそー!」

カヲルにお腹を抱えられて、手足とカバンをばたばたさせて空を飛ぶ。地上の景色が見える分先程より質が悪い。
A.T.フィールドの方がマシだ戻せと訴えたが、カヲルは面白そうに笑うばかりだ。

「渚のドアホー!やっぱり殲滅してやるからなっ!」
「そういうセリフは無事に着いてからどうぞ」
「ぶわーー!」

二人はばびゅんと空を飛び、あっと言う間に学校に着いた。
絶対間に合わないと思っていた始業前にちょん、と屋上に降ろされて、シンジは半分腰を抜かした状態で、それでもズサズサとカヲルから離れて文句を言った。

「ばーかばーか!渚のばーかー!」

小学生みたいな事を喚きつつ、ふらつく足取りで校舎に消える。しかし三歩に一歩、足がもつれて壁に激突している。
カヲルはそれをにかにかと手を振って見送った後、両手を両方のポケットに突っ込んだ。そして右のポケットからは手鏡を、左のポケットからは携帯用の折畳みブラシを取り出して、ちゃちゃっと乱れた髪の毛を整えた。

「……よし」

再びポケットにそれらを収めると、今度は胸ポケットから折り畳んだ一枚の紙切れを取り出した。
雑誌を切り取った手の平サイズの紙には、赤と黒のゴシック体で派手に踊る文字が書いてある。

『今月の特集★恋のステップアップ講座★吊橋効果でドキドキさせよう!
吊橋など、ドキドキする場所で一時を過ごした男女は、恐怖のドキドキを恋のトキメキと勘違いして相手を好きになったりする、らしい!
君も狙ったあのコを落とすなら、ドキドキする場所に連れて行こう!(笑)おススメドキドキデートスポットはココ~』

「ふん」

カヲルは片手の指を軽く顎に添え、記事にざっと眼を通すとそれをまた胸ポケットにしまった。口の端を片側だけ上げてニヤリとほくそ笑み、それから消えたシンジを追って校舎に入った。

――どくどく激しく動いてたシンジ君の心臓。少しは効果あったかな?


――――――――………

その日の放課後、カヲルがシンジにたっぷりと絞られた挙げ句山ほど奢らされたのは言うまでもない。
ぽかすか頭をグーパンチされ、その度にカヲルは首を傾げた。

「あ、あれ?」

『吊橋効果』の効果は未知数。今回は出なかったようだ。



END.

目次に戻る
top| はじめに| 短編| 長編|
メール| index